天狗の眼(下)   終章、人に見えないもの  1幕  2幕  3幕  4幕

 ※

 アンコーナ行の電車が出発するまで、まだ三十分ある。ロレートから港町のアンコーナへ出て、そこから高速鉄道でローマへ向かうつもりだ。平二は小さな駅舎にある待合室に入ると、肩掛け用のストラップがなくなったボストンバックを足元に置いた。

 待合室にあるコーヒーの自動販売機にコインを入れる。いくつかのコーヒーの種類からエスプレッソコーヒーを選んでボタンを押した。

 サンタ・カーザ神殿で意識を失ってから、既に一週間が経過していた。倒れてからずっと寝ていたらしい。今朝、眼を覚ました時には体中にギブスを嵌められて、病院の集中治療室にいた。すっかり治ったとは言えないが、もう歩ける程度には回復している。治療費はバチカンのIEA経由で請求するよう、メモを残して出てきてしまった。

 販売機の取出口に手を入れて、コーヒーが入った紙コップを取り出す。すると目の前に香ばしい香りが広がった。

 平二は硬そうなスチール製のベンチに腰を下ろした。コップに口を付けてコーヒーを啜ると、苦い味が口に流れ込んでくる。お世辞にもうまいコーヒーとは言えない、値段なりの代物だ。

 芭尾を殺すという目的を達することはできた。おゆうを喰われたあの日から、ずっと芭尾を追ってきた。そして遂に仇を討てたのだ。

 だが、とても喜ぶ気にはなれない。その代償があまりにも多すぎる。多くの人を巻き込んだ。そして、ミケーレを死なせてしまった。目的を達したことへの感慨など無い。後悔で頭がいっぱいだ。

 ミケーレが老いて故郷に戻った時、平二は言い知れない安堵を感じた。ミケーレは円狐に命を救われた代償に、長すぎる寿命を与えられた。それは決してミケーレ自身が望んだものではない。長すぎるそれは、神父であったミケーレにとって大きな足枷になっていた。

 だから彼が衰えを感じ、自らの死期を悟った時、平二は複雑な心境ながらも、良かったと思った。呪われた身である平二自身は、きっと安寧な死を迎えることはない。だからせめて、ミケーレにはベッドの上で平和な死を迎えて欲しかった。

 おゆうをおいて逃げた、ミケーレに過酷な死に方をさせた、いずれも平二にとっては深い後悔の傷だ。背中に付いた傷とは違う。ずっと癒えないままで血を流し続ける。死ねばその傷もきれいになくなるのだろうに。だが、死なない自分は罪を重ねつづけ、傷は増えていく一方だ。

 人は死ぬと、人生で行った善し悪しを天秤にかけられて、多い方で行先が決まるのだという。これだけ長い時間生きてきても、いまだに何が善いことなのかがわからない。死なない自分の天秤は、一体どうなっているのだろうか。きっとまだ悪い方が多いに違いない。

 だが、それでもいい。芭尾を倒した今、死ねない理由はなくなった。日本に戻って、この右眼を太秦坊に返そう。そうすれば全てが終わる。

 ぼうっと考え込んでいた平二は、待合室に入ってきた者たちに気が付かなかった。目の前に、ネリーナとグレゴリが並んで立っている。

「ヘイジさん、なんで黙って行くんです?」

 ネリーナが、幾分怒りを込めた声を出した。

 ネリーナは松葉杖をついていて、それを支えるようにグレゴリが寄り添っている。二人は眉間に皺を寄せて平二を睨みつけていた。

「…すまん。でも、もう俺は用済みだろ」

「どうして、そう卑屈な言い方をするんです? せめて怪我がちゃんと治るまでここに居てください」

「怪我ならもう治ってるよ。この通り、一人で帰れるほど回復してる。もう居ても迷惑をかけるだけだ」

「あなたのおかげでたくさんの人の命が救われたじゃないですか。誰も迷惑だなんて思いません」

 平二は椅子に座りなおすと、立ったままの二人にベンチへ座るよう促した。

「…救ったのはネリーナとミケーレ、それにコールマンやグレゴリだ。俺は、自分のしたいことをしただけだ」

 平二の向かいの席にネリーナを座らせたグレゴリは、平二に向けて口を開いた。

「それでも結果的に、みんながヘイジに救われたんだ。せめて最後に食事ぐらい驕らせろよ、な?」

 椅子に座った二人に、平二はポケットから取り出した電車のチケットを見せた。

「そんなの、私が買い直します。とにかく戻りましょう」

 平二のボストンバックに伸びたネリーナの手を、平二はやんわりと制した。そのままバックを空けて、ビニールの袋を取り出した。中には古びた布切れのようなものがたくさん入っている。

「これは…俺の妻だった人の皮膚だ。ずっと昔に芭尾に殺された。―こいつを、早く墓に入れてやりたいんだ」

 ネリーナは、平二の言葉に眼を見開いた。グレゴリに至っては、「オウッ」と驚いた声を上げる。少々きつい話だったかもしれない。平二は袋をバッグに戻すと、二人に笑いかけた。

「今日の夜、ローマからの飛行機で日本に戻るよ」

「…そうですか」

 寂しそうに答えたネリーナの肩を、グレゴリが優しく抱いた。そのグレゴリも残念そうな表情を浮かべている。

「あの、ヘイジさん。ラブティ神父ですが、サンタ・カーザ神殿の丘にある墓地に埋葬されることになりました」

「…そうか」

「サンジェルマン司教が、コラッツィーニ神父と相談して決めてくださったそうです。コラッツィーニ神父も、二つ返事で同意してくださいました」

 ネリーナは上着のポケットに手を入れると、一本のロザリオを取り出した。それは平二がミケーレの遺体に持たせた木枝のロザリオだ。

「それは…」

「ヘイジさんに渡すつもりで持ってきたんです」

 そう言ってネリーナは、ロザリオを持った手を平二に差し出した。

「それは、あいつの墓に入れてやってくれないか?」

 差し出されたロザリオを受け取らない平二の手を取ると、ネリーナはその手に握らせた。

「ヘイジさん、これはあなたが持っている方がいいと思います。きっとラブティ神父も、それを望んでいます」

「…そうかな。俺が持っていても仕方のないものだけどな」

「そうです。あなたにはラブティ神父の思い出になるものが必要ですから。あの人が、あなたに言ったことを忘れないためにも」

「……」

 ネリーナの言うのは、自分を許せというミケーレの言葉だろうか。平二は無言で小さく頷くと、ロザリオを丁寧にバックへと入れた。

「そういえばコールマンはどうなんだ? 病院で寝ているのを見たが」

 集中治療室で隣のベッドにいたコールマンは、平二と同じく体中をギブスで固定されて、小さなベッドの上で窮屈そうに眠っていた。

「腕と脚に複雑骨折と、他にも酷い怪我らしいです。でも昨日から会話ができるようにはなりました。―すぐにでもバチカンに戻って、サンジェルマン司教に懺悔したいと言っています」

 もうIEAと聖秘跡省の件も心配あるまい。むしろ、サンジェルマンは強い味方を得たかもしれない。

「そうか。―それでネリーナはどうする?」

「ええ、フィレンツェに戻るつもりです」

 そう言ってネリーナは隣にいるグレゴリに微笑んだ。

「もう一度、エクソシストとして学び直そうかと思うのです。ラブティ神父のように神に愛されるキリスト者になりたい。そのためにもう一度、救うことがなんなのかを勉強したいのです。―今まで私は、自分を救おうとしてきました。でも、もうそれはおしまいです。これからは、誰かを救うために努力します」

 ネリーナの表情に、初めて会った時のきつい印象がなくなった。彼女の中で大きな何かが解決したのだろう。グレゴリもそれを聞いて、にっこりと笑って頷いている。

「それでグレゴリの方は、努力するネリーナを今後も支えていくわけだな」

 にやけた顔で平二が言うと、頬を赤くしたネリーナが照れ笑いを見せた。グレゴリも真っ赤な顔で平二に言い返す。

「おまえ、そういうことを茶化すなよ。―まあ、それはそうなんだがな、…実はホテルを首になっちまった」

「なに?」

「いやさ、オーナーと言っても雇われだからな。勝手にホテルを何日も閉めていたからって、昨日電話で首にされちまったよ」

 そう言ってグレゴリは口を開けて笑うが、心なしか元気がない。不景気で厳しい時に無職になったのだから、致し方ないだろう。

「とにかくフィレンツェで職を探すさ。そしたらまた元通りだ」

「……なあ、二、三日待ってくれないか? バチカンからお前の雇い主に向けて手紙を書いてもらうから。お前の雇い主がカソリックならいいんだが」

「おい、そんなことまでしなくても…」

「何を言っている。これだけ世話になったんだ。IEAの協会長にお前の陳情書を頼むぐらいのことはさせろ。―それに、あのパスタが食えなくなるのは困る」

「そんなのいつでも作ってやるさ。なんなら今からだっていい」

「いや、遠慮しておくよ。次にフィレンツェに行った時に食べさせてくれ」

 グレゴリがいなかったら、今ここでこうしてはいられなかったはずだ。グレゴリのおかげで芭尾を倒すことができた。ミッシェル・サンジェルマンに頼んで、バチカンで最も権威のある人物に書状を書いてもらわねばなるまい。

 平二の言葉にグレゴリは大きな笑顔を作った。平二もそれに応えるように微笑む。先程までの鬱々とした気持ちがいつの間にか晴れている。ネリーナとグレゴリの笑顔を見たからだろうか。

 そろそろ時間だ。平二は手に持った紙コップ入りのコーヒーを口の中へ流し込んだ。まずい上に、もう冷えてしまっている。

 立ち上がろうとした平二に向かって、ネリーナがまじめな表情で改まったように言った。

「あの、ヘイジさん。最後にアンドロマリウスの言っていたことは、本当でしょうか?」

 ストランデットの何人かが、悪魔に寝返ったという話のことだ。

「さあな。だが、それはしばらく誰にも言わないでいて欲しい。ストランデットに対して無用な疑いを持つ者が増えるだけだ。当然、俺も疑われる」

 ストランデットの何人かが悪魔と結託しているという話は、そう軽々しく口にはできることではない。それが本当であろうとなかろうと、IEAの中でストランデットと呼ばれる者らに対する疑心暗鬼が生まれる。悪魔は、こうやって人同士の内輪揉めを生もうとしているのかもしれない。

 ネリーナは、不安そうな表情をしながらも、少し微笑んで言った。

「ヘイジさんは大丈夫です。私はあなたを疑いません」

「無論だ。悪魔の仲間になる気など毛頭ない。―サンジェルマンには、俺の方から話しをするから。とにかくネリーナは、この件を伏せておいてくれ。」

 平二の言葉にネリーナが頷いた。

「わかりました。日本へ戻ってからでも、サンジェルマン司教に報告を入れてください。もちろん私もその件は別として、報告書は作ります。」

「ああ」と返事を返す平二に対して、ネリーナが手を差し出した。手を縦にして、指先を平二に向けている。それは握手を求める手だ。

「日本の方はお別れでキスをしないのでしょう? でも握手は万国共通ですよね」

 平二は差し出された手に自分の右手を重ねた。するとネリーナが強く握り返す。

「ヘイジさん、〝アリガトウ〟」

 ネリーナは日本語で感謝の気持ちを述べた。グレゴリも手を伸ばして、二人の手に重ねる。

「そうだ、〝アリガトウ〟だ、平二」

 言われ慣れていない言葉に照れた平二は、空いた手で頭を掻いた。

 もうずっと聞いていない言葉だ。最後に言われたのはいつだったろうか。もうずっと前のことで思い出せない。感謝されるようなことをした覚えはない。寧ろ彼らを危険に晒し、怪我までさせてしまった。

「いや、俺の方こそすまなかった。酷い目に合わせてしまって…」

「ヘイジさん、謝らないで。誰もそんな風に思っていません」

 グレゴリも傍らで、「そうだ、そうだ」と言っている。

「……二人には本当に感謝している。〝アリガトウ〟―それと〝グラッツィエ〟」

 平二がイタリア語で礼と言うと、ネリーナとグレゴリの二人は顔をほころばせた。それに応えるように平二も笑顔を見せる。俯いて詫びるより、笑顔で有難うと言う方がいい。別れの間際ならばなおさらだ。

 平二はボストンバックを手に取って立ち上がった。もう出発の時間だ。駅のホームには既に電車が着いている。この国の電車は、遅れてもいい時には遅れないらしい。

 松葉杖を持って立ち上がろうとしたネリーナを平二が制した。

「ネリーナ、ここでいい。―グレゴリも彼女についていてやってくれ」

 二人に別れを告げると、待合室からホームへと出た。ベルがけたたましく鳴り響く。電車はやはり定刻通りに出るらしい。

 平二が乗り込もうと電車の乗降口に足を掛けた時、背後から声が聞こえた。

 

 ―有難う

 

 ベルの音に混じって聞こえたのは日本語だった。聞き覚えのある懐かしい声。振り向くと、待合室の窓の向こうでネリーナとグレゴリが手を振っている。

 

 平二を乗せた電車はゆっくりと動き出す。電車が駅を離れるとサンタ・カーザ神殿が見えた。丘の上に建つ神殿は、日の光の下で荘厳な美しさを誇っている。

 友が眠る丘が見えなくなるまで、平二は窓の外をずっと見つめていた。

                                                                                                                            (了)

  あとがき
  あとがき

天狗の眼(下)   終章、人に見えないもの  1幕  2幕  3幕  4幕