天狗の眼(下)   終章、人に見えないもの  1幕  2幕  3幕  4幕

 ※

 聖母の家の中は狭い。怪我をしたコラッツィーニや修道士らが、そしてネリーナとグレゴリもいた。ここにいる者たちは、外へ逃げきれなかった者たちだ。だが幸いにも、こうして聖母の家の中に逃げ込むことはできた。それすらできなかった者は芭尾に殺されてしまった。

 平二は、家の中を見回した。中はむき出しの岩石が組み合わさったような壁で、奥の一面に小さな祭壇が築いてある。その中央には黒い聖母マリア像があった。元は木を彫り抜いたものだが、長年にわたり蝋燭(ろうそく)の煤と油に晒されて黒く変色したのだ。

「ヘイジさん、大丈夫ですか?」

 朦朧とした眼で横たわる平二に、ネリーナが声を掛けた。すると、外から大きな衝撃音が響く。その後から何かが崩れる音もする。芭尾がこの聖母の家に向けて、繰り返し尾を叩き付けているのだ。

「……ああ、間一髪だった。大丈夫だ。―それよりミケーレは?」

 平二はネリーナの手を借りて体を起こすと、傍らに横たわるミケーレを見た。芭尾に突かれた背中の傷は、体の前側にまで達している。芭尾の爪はミケーレの体を貫いていた。しかも太くなった芭尾の爪のせいで、傷からは大量の血が流れ出している。

「……あの畜生が」

 平二は日本語でつぶやくと、ミケーレの傷に両手を当てた。寄り掛からないよう体に力を入れると、全身に痛みが走る。歯を食いしばって耐える平二をネリーナが支えた。

「…平二サン、ここで…そう言う言葉を使ってはいけません」

 ミケーレが平二の手に自分の手を重ねて言った。

「生きているな、ミケーレ。すぐに傷を塞ぐ」

 ミケーレは、平二の言葉に首を横に振ると、平二の手を自分の体から退かせた。

「…無駄に力を使ってはいけません。まだ、芭尾は…外にいます」

「何を言っている? お前が死んだら…」

「平二サン、もういいのです。私の寿命は…ここまでですよ」

 平二はミケーレの傷に再び手をかざす。するとミケーレはその手を上から握りしめるように持った。その力は弱々しく、平二の手を払いのける力は残っていない。

「ふざけるな。俺のせいで、お前を死なせるわけにはいかない」

「…まだあなたの力が必要です。―私のために、ここにいる皆を犠牲にするつもりですか?」

 平二は聖母の家の中にいる皆を見回した。英語で話す二人の会話がわかるネリーナやグレゴリは、不安そうな表情を浮かべている。他の者たちも怯えきって、血の気の失せた顔をしている。

「……ネリーナは、ここにいるかい?」

 ミケーレは天井に目を向けながら言った。その声は弱々しく、か細い。すぐそばにいたネリーナは返事をすると、ミケーレの口に耳を寄せた。

「どうか平二に手を貸してあげて欲しい。彼にはキリスト者の助けが必要だ。彼自身がそうでないから…。君はすでに神の力の本質を知ったはずだ。―だから、頼む」

 ネリーナは「はい」と言って頷いた。

「―それと、平二サン…」

 ミケーレは、手に持った平二の手を弱く握った。平二はミケーレに体を寄せる。

「…あなたはいい加減に、自分を許し…なさい。…自分を責めては…いけない。もう十分に罪は償った…はずです」

 ミケーレの声はどんどん気力を失って、嗄れていく。息は荒く、胸を大きく上下させている。

「だめだ、ミケーレ―逝くな」

 そう言って傷口にやろうとする平二の手を、ミケーレが遮った。弱々しくも、頑なに拒むミケーレに、平二は項垂(うなだ)れるしかない。

「すまない…ベッドの上で死なせてやれなかった。俺のせいだ、すまない」

 平二は下唇を噛んだ。その噛み様が強いのか、口の端には血が滲んでいる。

「故郷…で死ねる…聖母マリア…のもとで……。あなたも…いてくれるから………幸せです」

 ミケーレが目をつむると、荒くなった息が落ち着き始めた。平二はミケーレの手を包むように自分の手を重ねる。だんだん呼吸が少なくなって、ミケーレの息が止まった。

 ミケーレの死に顔は穏やかだった。壮絶な傷を負いながら死んでいったとは思えないほど、静かに息を引き取った。最後の言葉どおり、その顔には笑みさえ浮かべている。

 平二は無表情のまま、じっとミケーレの手を握っている。

「ヘイジさん…」

 声を掛けたネリーナは、反応がない平二を見下ろした。今、目の前で百五十年来の友が死んだのだ。なのに平二は泣くわけでなく、怒るわけでなく、じっと無表情のまま宙の一点を見つめている。

 ロザリオを手にしたネリーナが、ミケーレを送るための祈りを唱えた。グレゴリや他の者たちも、ミケーレの周りに集まり手を組んで祈る。

 ネリーナはサンジェルマンの言葉を思い出した。平二は負の感情が高ぶると、右眼から悪辣な気が漏れ出すのだと言っていた。今、平二は自分の感情を必死に押さえているに違いない。呼びかける声にも反応できないほどに、深い悲しみに耐えているのだろう。

 祈りを終えたネリーナは、瞬きもせず宙を見つめる平二に再び声を掛けた。

「ヘイジさん…お願いです。教えてください。私は何をするべきか」

 平二は、鼻から大きく息を吐き出すと、ネリーナに振り向いた。

「……」

 心ここに在らずといった様子で、うつろな目をしている。

「ヘイジさん、しっかりしてください! お願いです。ラブティ神父が言ったように、我々はここにいる皆を無事に外へ逃がさないと。―あなたの力が必要なんです」

 平二は無言のまま、手に巻いていたロザリオを外すと、ミケーレの胸元に組んだ両手の上に置いた。それはサンジェルマンから預かった木枝のロザリオだ。ミケーレが日本でロザリオをなくした時に、木枝二本をシャツの切れ端で縛って作ったそれは、百五十年経っても当時のままだ。

 ミケーレはこのロザリオを大事に持っていた。それは、神がどこにでもいる証なのだと言っていた。IEAを去る時に、その精神と共に後任に託したものの、今またこうして持ち主のところへ戻ってきた。きっと今、神はここにいる。ミケーレの死出を見送るために。だからこのロザリオはミケーレが持っているべきなのだ。

 平二は眼を閉じると、何度か大きく息を吐いた。強制的に気持ちを落ち着かせる。ネリーナの言う通り、今は俯いて悲しんでいる場合ではない。壁一枚向こうには芭尾がいる。このまま籠城していれば、いずれ何か仕掛けてくるはずだ。その前に打って出なければなるまい。

 ゆくっりと立ち上がった平二は、離れた所にいるグレゴリの足元を指差した。

「…グレゴリ、そのボストンバックを取ってくれないか?」

「おお、これか」

 グレゴリは預かっていたバックを手にすると、立っている者たちをすり抜けて平二に近付いた。その顔はまだ真っ青だ。グレゴリは平二を助ける為に聖母の家を飛び出した。それは彼にとって、余程勇気のいる行為だったに違いない。

 バックを受け取った平二は、グレゴリに向かって言った。

「さっきは助かった。恩に着る」

「大したことじゃないさ。―でもさ、怖くて少し漏らしちまった」

 苦笑いしながら、グレゴリは頭を掻いた。しかしその笑顔も、無理に作ったのが一目でわかるほどぎこちない。こうも緊迫した上に陰惨な状況では、致し方あるまい。

「だから、逃げろと言っただろ」

「でも、ベリンチョーニ先生は逃げられたし、お前だって助けられた。―ラブティ神父のことは残念だったが…」

「…ああ」

「平二、大丈夫か?」

「……」

「ラブティ神父は、お前の親友だったんだろ?」

「今は落ち込んでいる場合じゃない。―大丈夫だ。心配するな」

 平二はバックを持ち上げると、付いている肩掛け用のストラップを外した。長いストラップを手に取った平二は、いつの間にかもう一方の手に黙儒を持っている。

「グレゴリ、すまんが、このストラップを手の上からきつく巻きつけてくれ」

 そう言って平二は、黙儒を持った右手を差し出す。

「でも、その手じゃ…」

 平二の手は、骨が折れた所が腫れ上がっている。痛々しい手で黙儒を握りしめた平二は、グレゴリに微笑んだ。

「知っているだろ。またすぐ直る。―手からこの剣が落ちないよう、そのストラップで固定してくれ」

 グレゴリは渋い顔をしながらも、平二からストラップを受け取った。恐るおそる平二の手に巻きつけていくと、平二は歯を食いしばりながら「もっと強く」と言う。巻き終わったグレゴリは、両端に付いた留め具同士を引っ掛けた。

 手に黙儒を固定した平二は、出入り口の方へと進んだ。その足取りは重く、刺された右足を引き摺っている。芭尾から見えない様に、平二は出入り口の脇に腰を下ろした。

「さあて、と」

 平二はバックから印籠を取り出した。蓋を片手で開けると中身を床に転がす。黒い玉が幾つか出てくると、平二はそれを一つずつ口の中に放り込んでいく。黒い玉は丸薬で、いつか円狐が作っていたのと似たものだ。滋養のある薬草と木の実を混ぜ合わせて作った。円狐と一目は人里に下りて妖力が減ると、木の実やこの丸薬を食べていた。山のものを体に入れると妖力が増えるのだと言っていた。右眼以外が人の平二には思ったほどの効果はないが、多少なり霊力の足しにはなるし、怪我の治りも早くなる。今は満身創痍だが、霊力でチャクラを回す無理な回復方法は、日に何度もやれるものではない。それにミケーレが言っていたように、今は少しでも霊力を温存しなければならない。

 もぐもぐと口を動かす平二の横へ、ネリーナも腰を下ろした。

「何か、策でもあるんですか?」

「もう少し待ってくれ。体力が回復したら、あいつをぶん殴りに行ってくる」

「ヘイジさん、私は?」

「俺が隙を作るから、お前がみんなを逃がすんだ。―今度はさっきのようにはならない。それにあいつは、俺にしか興味がないはずだ。俺が相手をしている間に…」

 話す平二を遮って、ネリーナが強い口調で言った。

「駄目です!。サンジェルマン司教にも、ラブティ神父にだって、私はあなたのことを助けるように言われたんです。どうしてあなたは、自分ばかり犠牲にしようとするんですか! あなただけを犠牲にして、私は逃げることはできません。お願いだから一緒に戦わせてください!」

 ネリーナは平二の袖をつかむと、ギュッと握りしめた。

「私はIEAのエクソシストです。私も行きます!」

 平二はネリーナを見た。

「……すべて俺の問題だ。女房を殺されて、仲間を殺されて、そして今、親友まで殺された。だからあいつは俺がやる。俺が殺す。他の誰にも手出しはさせない」

 平二の右眼に赤い光が灯る。その光を認めたネリーナは一瞬めまいを覚えたものの、自身のロザリオに手を触れて平二を睨み返した。

「嘘! あなたは誰も巻き込みたくないだけです。―あなたがずっと、ラブティ神父に会いに来なかったのは、あの人を巻き込まないためだった。そうでしょう?」

「………」

「ベッドで死なせてやれなかったって、そう言ったじゃないですか。あの人に静かな死を迎えさせてあげたかったんでしょう? でも、それでも、ラブティ神父はあなたに会いたかったと思います。あなたがいて、ここにいてくれて幸せだって、そう言っていたじゃないですか!」

 ネリーナは必死になって訴える。

「あなたは、人を思って相手を遠ざけている。あなたが呪われた存在だから、いつも危険な目に合っているからでしょう? でも、それじゃ悲しいじゃないですか。―あなたの奥さんや、ラブティ神父、それに私だって、みんな、みんな、あなたが一人きりで死んだら、悲しいんですから!」

 平二の腕にしがみつくネリーナの傍らには、いつの間にかグレゴリがいた。グレゴリはネリーナの両肩に手を乗せると、平二に向かって言った。

「ヘイジ、俺からも頼む。ネリーナだってエクソシストだ。お前と一緒に戦えるさ」

「……策はない。相手は強い。俺ができるのは、お前らが逃げる間、奴の気を引くことだけだ。悪いことは言わない。逃げろ。ここで逃げなきゃ、全員死ぬぞ。―ネリーナ、一時の感傷に流されて、大事なことを見失うな」

「感傷なんかじゃありません。これが私のするべきことなんです」

 平二は、ネリーナと視線を合わせることなく体を起こした。腕をつかんだネリーナの手に引かれるものの、それを振り払うように立ち上がる。

「俺だけなら、奴と相討ちぐらいはできる。―お前たちは邪魔なんだ。とにかく言うことを聞いて逃げてくれ」

 冷たく言い放った平二を、ネリーナたちは呆然と見上げている。それをよそに平二は、空いた手に数珠を握った。

「平二、待てよ! なんで俺たちが邪魔なんだ。俺はまだしも、ネリーナまで邪魔かよ!」

 グレゴリの怒気を含んだ声にも、平二は振り返ろうともせず無視したままだ。

「なんで、何も言わないんだ! 俺たちはチームだって言っただろ」

「………」

「頼むよ、何か言ってくれ!」

「……お前たちには感謝している。でも、もういいんだ」

「なんだよ、お人よしなのは平二の方だ! 俺たちを助ける為なんだろ、邪魔だなんて言うなよ!」

 平二は、聖母の家の出入り口に手を掛けた。ここから出れば外には芭尾がいる。満身創痍の自分ができることは少ない。策はないと言ったのは、弱気だからじゃない。本当に何もないのだ。とにかく時間を稼いで、教会堂にいる全員が逃げられる隙を作る。あとは何とか、黙儒で渾身の一撃を叩きこむだけだ。

 いよいよ外へ一歩踏み出そうとした平二の背中に、誰かの手が触れた。

 その手が平二のシャツを掴んで引き留める。振り向くと、そこにはネリーナが立っていた。その顔は怒ったような、悲しいような複雑な表情をしている。

「……」

 振り返った平二は、眉間に皺を寄せて、困った表情を浮かべた。

「あなたが犠牲にならなくたって、この危機を切り抜ける方法はあるはずです。お願いだから…」

 潤んだ眼で訴えるネリーナの言葉を平二が遮った。

「百五十年ぶりだ。」

 平二がつぶやく様に言った。

「やっと、復讐を果たす好機(チャンス)が巡って来た。それに…」

 一寸、口を閉じた平二が肩を震わせた。

 右眼が煌々と光を放ち、手にした黙儒から青白い火花が飛び散る。抑えきれない感情で、平二の気が急激に膨れ上がる。

 その気に弾かれたように、シャツを持っていたネリーナの手が離れた。

「…それに、ミケーレの仇は俺が討つ」

 再び正面を向いた平二は、聖母の家の外へと踏み出した。

 

 ※

 外は芭尾から発せられた威圧的な殺気が渦巻いていた。聖母の家を飾りたてていた大理石はすっかり剥がれ落ち、瓦礫になって転がっている。だが、むき出しになった聖母の家の壁は、全くの無傷だ。岩を煉瓦のように組んで作られた壁にはひび一つない。

 出てきた平二を見受けた芭尾は、尾をゆっくりともたげた。その数はまた増えていて。ひと目で数えられる程ではなくなっている。体も大きくなって、平二の二倍ほどまで背丈が膨れ上がった。

 芭尾は、血走らせた眼で平二を睨み付ける。

「よく出てきたじゃないか。―中にいれば、死なずに済んだものを」

「そうだな。隠れていたら、見逃してくれるか?」

「いいや。あのちっぽけな部屋が壊れないので、火でもつけて、炙り出そうかと思っていたところだ」

 その時、平二は芭尾の目の奥に青黒い光を認めた。ゆらゆらと光る蝋燭(ろうそく)の炎のような光だ。徐々に強くなっていく光にめまいを覚えると、平二は右眼に力を込めた。

「俺を操るつもりかよ。無駄だ。一度試しただろうが」

 芭尾はフンッと鼻を鳴らした。

「アンドロマリウスを喰らって、どんどん力が増していく。尾の数も十を越えた。体も大きくなった。当然、妖力もだ」

 目の光を強くしながら、芭尾は言葉を続けた。

「私とやり合っている間に、あの中に残った奴らを逃がすつもりだろう?―そうだ、ミケーレ・ラブティは死んだか?」

「……」

 平二は無言のままで答えない。すると芭尾が声を上げて笑い出した。

「ヒッハハハハ、そうか、死んだか! それは残念だったな」

 芭尾は笑いながらも、両目に宿った青黒い光は増していく。芭尾の瞳に抗うように、平二も右眼の光を強くしていく。

「お前らは一人も逃がさない。―あの汚い小屋の中にいる連中は、お前が殺して来い、平二!」

 平二の名を叫んだ芭尾の瞳が、まぶしいほどに輝いた。眼が眩んだ平二は一瞬瞼を閉じた。

 次に眼を開いた平二が見たのは、漆黒の闇だった。

 サンタ・カーザ神殿の教会堂にいたはずの平二は、真っ暗な闇の中にいる。手足の感覚も痛みもあるものの、暗闇のせいか、まるで視覚だけがなくなってしまったかのようだ。

 すると足元の方に、何かが流れている感覚を覚えた。なにか粘度の高い液体が足元を流れていく。平二はその流れの中に立っている。その流れはどんどん嵩を増していき、足首を飲み込んで、膝まで達しようと増えていく。生臭い、喉の奥に絡みつくような臭いが鼻腔に入り込んでくる。それは血の匂いだ。平二の足元を流れる液体は血だ。

 真っ暗な闇の中で血にまみれていく平二は、右眼に力を込めるが何も見えない。目の前は闇のままだ。そうしているうちに血の嵩は上がっていく。

 

『平二よ、暗くて何も見えないだろう? 血にまみれて誰もいない。それがお前の中身さ。』

 

 これは芭尾が見せている幻覚だ。妖力を増した芭尾に幻惑されている。平二はそこから逃げ出そうと、必死に右眼を凝らして力を込める。しかし何も変わらない。

 目の前にぼうっと光が浮かんだ。その光の中に小さな小屋が見える。小さく貧しい佇まいには見覚え上がる。それは身延山の麓にあった、平二とおゆうが暮らした家だ。

 暗い夜道を行く平二は、おゆうが待つ小屋へと近づいていく。もう辺りはすっかり暗いはずなのに、家には明かりが灯っていない。また油をけちって、明かりをつけていないのだろうか。

 平二は建てつけの悪い戸に手を掛ける。すると中から、すすり泣きが聞こえた。急に不安が込み上げた平二は、戸の隙間から中を覗く。

 そこには、狐の化け物に齧(かじ)られるおゆうがいた。首から肩まで齧られて、血を噴き出させている。化け物に抱えられて小刻みに体を震わせるおゆうは、齧られるたびに、手足をびくびくと跳ね上げる。平二はあまりの恐ろしさに、身動きが出来なくなった。助けに入らなければならないはずなのに、体が竦んで動かない。足が震えてどうにもならない。

 がたがたと体中を震わせる平二を、おゆうがじっと見つめている。まだおゆうは息がある。血だらけになって化け物に喰われているおゆうの胸は、小刻みに前後している。

 おゆうと眼があった平二は、おゆうの口が動くのを見た。

 

 ―逃げて

 

 声に出さず、平二に逃げろとおゆうが言った。

 

 その時、平二は一歩退いた。

 

 まだ息があるおゆうを残して、平二は逃げようとした。もう血だらけのおゆうは助からない。飛び込んでいったところで、化け物に敵うはずもない。いや、これは夢かもしれぬ、幻かもしれぬ。とにかく、その場から逃げたかった。

 芭尾が扉から覗く平二の視線に気付いた。青く光る瞳に捕えられて、平二は今度こそ本当に身動きが出来なくなった。目の前でおゆうの体がぼとりと落ちる。その体は動かないものの、じっと平二を見つめている。

 戸ががらりと開く。そして、目の前が真っ暗になった。

 目の前に見えていた光景が消失して、また漆黒の闇の中に引き戻される。

 

『平二よ…貴様は女房が殺されるのに、逃げようとしたな。』

 

 芭尾の声が闇の中に響き渡る。

 

『仇討ちが、聞いて呆れる』

 

(…何が言いたい?)

 

『お前が呪っているのは、逃げたお前自身だ。お前は私に八つ当たりしているだけだ。』

 

(お前はおゆうを殺した。お前はおゆうの仇だ)

 

『本気でそう思うか? お前は自分が許せないだけで、仇討ちなんてどうでもいいはずだ』

 

(……)

 

『女房の仇を取るなどと格好つけて、実のところは逃げた自分の罪滅ぼしをしようとしただけだ。―そんなお前の都合のために、一体何人犠牲にした?』

 

 そうだあの時、俺は逃げた。たったの一歩だけだが逃げた。おゆうに「逃げて」と言われて逃げたのだ。血を流して苦しむおゆうを、助けようともしなかった。俺はその罪を償うために、芭尾を追った。だから他の誰でもない、俺が芭尾を殺さなければならなかった。

 

『ミケーレ・ラブティも、お前の都合に巻き込まれて死んだ。お前が殺したも同然だ』

 

 そうだ、芭尾やアンドロマリウスをロレートまで連れて来てしまったのは俺だ。サンジェルマンもムィシュコーも、皆、慎重になれと言った。それを無視して、ここまで来たのは俺だ。

 ミケーレは俺のために死んだ。おゆうは俺に見捨てられて死んだ。円狐も俺を助けて死んだ。他にも大勢の人を巻き込んだ。全て俺のせいだ。

 

 平二の体は、流れる血に巻き込まれて、その中に没していく。体中がねっとりとした血にまみれて、身動きが取れなくなった。

 自分の自我が消えていき、別の何かに置き換わっていく。心の中を侵食されていく平二の左眼に、青い光が灯り始めた。瞳の奥に宿った青い光は、徐々に明るさを増していく。

 だが、平二の右眼はまだ赤い。弱々しいながらも、赤い光が瞳の中に灯っている。

 

 自我を失いかけた平二は、背中にうっすらと残るぬくもりを感じ取った。先ほどネリーナが触れた辺りに、平二の身を案じた彼女の手のぬくもりがある。

 平二の心中におゆうの手の感触が蘇る。背中に傷を負った平二を案じて擦ってくれた手だ。そして、斬られた背中の癒すために強く押し付けられた、円狐の手の感触も覚えてる。

 それは自分を思ってくれた者たちのぬくもりだ。そのぬくもりが、かろうじて残った自我を奮い立たせる。意識の奥底に残ったものは、まだ芭尾には侵食されていない。

 

 まだ死ねない

 

 痛くてもいい

 苦しくてもいい

 辛くてもいい

 傷付いてもかまわない

 

 だが、まだ死ねない

 

 無念を晴らしていない

 復讐していない

 仇討ちを果たしていない

 

 助けてくれた

 癒してくれた

 案じてくれた

 

 なのに、 何もしてやれなかった

 助けられなかった

 恩を返せなかった

 

 死んでしまった者に、してやれることはない

 

 だからせめて、仇を討ってやりたいのだ

 

 俺は、まだ死ねない

 

 友のために

 妻のために

 

 

 せめて、芭尾だけは―

 

 

 平二の右眼は、まだ赤い光を失ってはいない。

 円狐への感謝、ミケーレへの友情、人々とのしがらみの中で生まれた様々な思い。そしておゆうを愛する気持ち。どれも気恥ずかしくて口にしたことはない。形のない、眼には見えないもの。

 確かに、それは平二の心の奥底にある。それを犯されまいと必死に抵抗する平二の思いが、まだ右眼を光らせている。

 

 その時、平二は尻に強い衝撃を感じた。漆黒の闇が動転し、両ひざに鋭い痛みが走る。呻いた平二は、瓦礫の転がる石の床を間近で見た。慌てて顔を起こすと、芭尾が毛を逆立ててこちらに近付いてくる。

「ヘイジさん、早く立って! 芭尾が来ます」

 その声はネリーナだ。一体何が起こったのかわからない平二は、とにかくネリーナが差し出した手を掴んで立ち上がる。

「なんでここにいる? 一体、何が起こった?」

 同時にいくつも質問する平二に、ネリーナは順番に答えを述べた。

「ここに来たのは、ヘイジさんを手伝うため。それとあなたが棒立ちのまま意識がなかったので、お尻を蹴りました」

「……」

「悔しかったんです。邪魔だなんて言われたから」

 ヘイジと眼が合ったネリーナが首を傾げた。

 ネリーナは、サンジェルマンに言われた通り、本当に尻を蹴ったようだ。結果的には助かったが。

「みんなはどうした?」

「私がいなくても逃げることはできます」

「助かった、礼を言う。でも、もう戻れ。あとは俺が…」

「ラブティ神父の祈りは芭尾を止めたのです。一緒にやりましょう」

「……」

「いいですね」

「勝手にしろ」

 目の前には芭尾が迫っている。ここで言い合っている余裕はない。平二は黙儒を構えたままネリーナの前に出ると、数珠を持った手を前にかざした。

 芭尾は立ち止まって尾を振り上げる。教会堂の天井に届きそうなほどまで持ち上がると、尖った先端が平二たちに向いた。

「なんで私の幻惑が解けた? あれだけ深く嵌(はま)ったはずが…」

「お前の瞳術は効かないと言ったはずだが」

「貴様…。女房をおいて逃げた臆病者が、偉そうな口を利くなよ」

 その言葉に平二は一瞬顔を歪ませたものの、すぐに平静さを取り戻す。

「そうやって煽っても、もう心は乱さない」

 今度は芭尾が歯噛みした。顔中にしわを寄せて歯をむき出した芭尾は、平二たちに向けていた尾を叩き付けた。

 初めに迫った尾を黙儒で払い落すものの、すぐにまた次が迫ってくる。連続して杭のように落ちてくる尾を数本払った平二は、捌ききれずに後ろへ飛んだ。ネリーナは平二に付き飛ばされて横に飛ぶ。平二たちが立っていた場所に、何本もの芭尾の尾が突き立った。

 すかさずネリーナが立ち上がると、ロザリオを手に祈りの言葉を唱え始めた。

「汝誘惑者よ、汝が住処は荒れ野なり、今こそ立ち去るべし、立ち去るべし。神は汝を駆逐したもう、その御力に万物は従わん、神は汝を駆逐したもう!」

 床に刺さった芭尾の尾は、ネリーナの祈りに縫い止められたようにその場から抜けなくなった。

「またか! なんでカソリックの坊主のそれが私に効くんだ? 私は日本の物怪だ!」

 罵るように叫ぶ芭尾の尾に向けて、平二が黙儒を横なぎに振るった。縫い止められたままの尾が黙儒に叩き折られると、芭尾は悲痛な声を上げた。

「お前に効いているわけじゃない。エクソシストの力は、救う力だ」

 言葉を続けながら、平二は黙儒を振るっていく。突き立った芭尾の尾を黙儒でへし折るたびに、芭尾が苦悶の声を上げた。

「相手を傷つけることはできない。だが、救うという条件下で最強の力を発揮する。条件を満たす状況になることは稀だがな」

 芭尾は残った尾を抜くと、鉛のように重くなった尾を引きずるように戻していく。平二は、その一本に飛び乗って、黙儒を突き立てた。

「お前の言う通り、ただ十字架を押し付けただけでは、日本の物怪であるお前には効かない。だが今は後ろに守るべき人たちがいる。―こういう時、こいつらエクソシストは強いんだよ!」

 突き立てた黙儒が火花をスパークさせると、芭尾の尾が、半ばで吹き飛んでちぎれた。続けざまに尾を痛めつけられた芭尾が、身悶えながら平二を睨み付ける。

 平二の言う通り、ミケーレが力を発揮した時には、誰か守る対象がいた。コールマンも、平二とミケーレを助けようとして力を発揮したのだろう。ネリーナも、聖母の家にいる者たちを守ろうとしているのだ。

「ヘイジさん、これならきっと勝てます! 神の力で芭尾の動きが…」

 ネリーナは平二に傍らに寄ると、尾を引いた芭尾に向けてロザリオを構え直した。

「驕(おご)るなネリーナ。お前は芭尾を止めたんじゃない、後ろの奴らを守ったんだ」

「でも…」

「あれはいつでも使える力じゃない。自己犠牲の決心や、慈愛の精神とか、他には殉教の覚悟とかも、どれが欠けてもだめなんだ」

 平二はネリーナを守るように立つと、怒りの形相を浮かべる芭尾に黙儒を向ける。平二と視線の合った芭尾は、腰をゆっくり落として腕を地に付けた。前足を付いて四足で構える。まさに獣の姿勢となった芭尾は、歯をむき出して唸り声を上げた。

 芭尾は残った尾の一本を振り上げると、平二たちへ打ち下ろす。ネリーナが祈りを唱えるが、今度は勢いを失わずにまっすぐ頭上に迫る。ネリーナを突き飛ばした平二の肩を芭尾の尾が掠めた。そのまま叩き下ろされた尾が、床を砕いて破片を飛び散らせる。攻撃が届いたことを認めた芭尾は、次々に尾を繰り出していく。

 襲い掛かる何本もの尾を避けて、平二とネリーナが走る。

「ネリーナ、聖母の家に戻れ!」

 そう叫んだ平二を、芭尾の尾が払い飛ばした。側廊の柱に叩き付けられた平二は、体の内側から骨の折れる鈍い音が響くのを聞いた。肋骨か腰の辺りの骨が折れたらしい。痛みで呻く平二を、芭尾は更に弾き飛ばす。

 その先にはネリーナがいる。飛んできた平二の体を避けきれずに、ネリーナは平二とぶつかった。二人の体はもつれあうように転がって壁に激突する。

「ふうん、うまく平二を守ったじゃないか、エクソシスト」

 激突した拍子にネリーナは気を失った。


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