天狗の眼(下)   終章、人に見えないもの  1幕  2幕  3幕  4幕

 終章、人に見えないもの

 

 突然、教会堂の扉がどんっと鳴り響いた。なにか大きなものがぶつかったかのような衝撃音に、アンドロマリウスとの対決に備えていた者たち全員の動きが止まる。また再び扉が打ち鳴らされると、轟音と共に積み重ねられた椅子の山が崩れた。予め打ち合わせた通り、平二とコールマン以外の者たちは、全員が扉と反対の教会堂の奥へと避難する。

 時間は予定より少し早い。まだアンドロマリウスが立ち去ってから三十分を過ぎたところだ。床の上には、平二が持ってきた聖遺物やその他の道具が散乱している。

「早いな、何かあったか?」

 コールマンは十字架を手に身構えた。

「端から悪魔が約束を守るとは思ってないさ。それより、来るぞ」

 何度目かの衝撃の後で、扉に掛かった木製の閂(かんぬき)が割れ始めている。

「コールマン、合図をしたら頼む」

「しかし…」

 二人が話している間に、閂の棒が真っ二つに裂けて、扉が教会堂の内側に向かって開け放たれた。大きく開けた入り口の中央には、人影が一つしかない。

 そこに立っているのは芭尾だ。だがその姿は先程までと違う。平二の妻であったおゆうの姿を完全に取り戻し、その肌艶は生気に満ちている。

 平二の眼に映るのはおゆうの姿ではあるものの、その眼孔から漏れ出す青い光は、鋭く冷たい。それは間違いなく芭尾の眼の光だ。

 有り余るほどの殺気を垂れ流す芭尾は、ゆっくりとした足取りで教会堂へと足を踏み入れた。その手には、何か赤いものを引きずるようにして持っている。

「ごきげんよう。先ほどまでの交渉云々は全て白紙だ。―お前たち、全員死ね」

 そう言って舌なめずりをした芭尾は、空いている手で胸に刺さった刃をつまんだ。さして力を入れたでなく、それはゆっくりと抜けていく。刃が完全に抜けると、芭尾はそれを摘まんで、自分の目の前にぶら下げる。

「これを覚えているか? 貴様らが寄って集(たか)って私に刺してくれたものだ。こんな物に、百五十年も悩まされ続けた」

 芭尾は刃を平二に向けて投げた。それはまっすぐ平二の方へ飛んでくるものの、あっさりと黙儒に叩き落とされる。

「……アンドロマリウスはどうした?」

「フンッ、見えないのか? ほら」

 そう言って芭尾は、手で引き摺っていたものを投げた。それは人の上半身だ。胸から上しかないそれは、血の跡を残しながら教会堂の身廊を転がった。

 喰いちぎられた跡があちこちにあり、顔は判別もできないほどぐしゃぐしゃにされている。唯一見覚えがあるのは、その肉塊を包んでいるライダースジャケットだけだ。まるでぼろ雑巾のようになったアンドロマリウスはまだ息があるのか、教会堂の床の上で苦しむかのように小刻みに震えている。先ほどまではアンドロマリウスが芭尾を引き摺っていた。それが今は、立場が逆転している。

「……アンドロマリウスを喰ったのか?」

「ああ、喰った。―うまかった。妖力が体中にみなぎってくる。最高の気分だ」

 芭尾は恍惚な表情を浮かべて平二を見据える。

「もうお前から逃げ回る必要も無くなった。むしろ―」

 芭尾の着ている服の裾が持ち上がると、下から尾が突き出した。それは徐々に姿を現して床の上に伸びると、芭尾の足元でとぐろを巻いていく。ばさりと風を切って尾が持ち上がると、芭尾の背後で上を向いて直立した。その尾は太く、毛が波打っている。芭尾がその名で呼ばれる所以、その尾は芭蕉の葉のように見える。

 芭尾が力を込めると、尾は平二たちが見ている目の前で先端から裂け始めた。いくつもの裂け目が伸びていき、尾は全部で五本に分かれていく。

「ヘイジ、あれは…」

 その光景に息をのむコールマンが、傍らにいる平二に向かって言った。その声は不安げだ。

「糞、尾が増えた。―尾裂きだ」

 狐の妖怪は歳を経るにしたがって妖力が増し、尾の数が増えていく。数百年に一度、その尾が裂けながら増えていくのだ。尾が裂けて増えた妖狐を指して「尾裂き」と呼ぶ。これまで芭尾の尾は、形状は特殊でも尾は一本だった。しかしそれが一気に五本になったのは、アンドロマリウスの肉を喰らい、その力を取り込んだためであろう。

 西欧の悪魔を喰らった物怪など聞いたことがない。芭尾の中で、今何が起こっているのか全くわからない。しかし、一本だった尾が一気に五本に増えた。尋常でないのは間違いない。

 芭尾は五本の尾を拡げたまま、平二たちの方へ近づいてくる。

「コールマン、お前は平二のような者を嫌っていただろう? 何故一緒にいる?」

 芭尾は、ニタニタと嫌らしい笑顔になっている。自分の有利を確信している顔だ。

「根拠のない虚栄心で平二たちを見下していたろう? つまらん嫉妬で他人の不幸を望んだお前に、神は力を貸してくれるか?」

 芭尾の言葉にコールマンが歯噛みする。その様子に気付いた平二が言った。

「コールマン、惑わされるな。またやられるぞ」

 平二の声を聞いたコールマンは、芭尾から視線を外す。平二のような眼を持たなければ、芭尾の瞳術に抗う手段はない。芭尾の足元に視線を向けながら、コールマンは祈りの言葉を唱え始めた。

「…信仰の敵よ、人類の敵よ、死の源よ、悪の根源、貪欲の根源、人類の誘惑者、人々を唆(そそのか)す者、イエス・キリストの御名において汝を滅ぼさん!」

 コールマンが唱える悪魔祓いの祈りを遮るように、芭尾が声を荒げた。

「お前はまだわからないのか? 私は日本から来た物怪だ。キリストなど関係ないし、全く怖くもない。お前が祈っても、私は痛くも痒くもないんだよ!」

 コールマンは祈りを止めようとはしない。その傍らにいる平二は黙儒を正眼に構える。

「貴様らがどれだけ集まろうが、もう私に指一本触れることはできないんだ!」

 芭尾の尾の一本がコールマンに向かって伸びる。一瞬でコールマンの目の前まで迫った尾を、平二の黙儒が火花を上げて弾き返した。

 尾は逸れたものの、平二は右手に握っていた黙儒をその場に落とした。慌てて左手で拾い上げると、すぐに構えなおす。

「おい、平二よ。まだバドロルシススにやられた傷が癒えてないらしいな」

 平二はコールマンを庇うように立ちながら、無言で後ずさる。

「横浜でやられたことは忘れていない。ここできっちり、あの時の借りは返す」

 芭尾は歩を進めて、下がる平二たちとの距離を詰めていく

「奥にはミケーレ・ラブティもいるんだろう? 一緒に殺してやるから連れて来い」

 黙儒を構える平二に意も介さず近づいて行った芭尾は、急に歩みを止めた。地に付けた足が持ち上がらない。

 その場で動けなくなった芭尾は辺りを見回した。すると自分を囲むように、線が白墨(はくぼく)で描かれている。しかも見え難いよう所々に長椅子が転がされて、線が隠されていた。

 動けなくなった芭尾を認めた平二は、その場に膝を着けて、両手を床に付けた。その手は白墨で描かれた線に触れている。

 平二が力を込めると右眼が光り、それに合わせて床に描かれた線も、薄ぼんやりと光り出した。その光が線に沿って教会堂の床全体に広がっていくと、六芒星の形が浮かび上がる。

 六芒星は、ダビデの星と呼ばれるユダヤ教のシンボルだが、元々西洋においては魔除けのシンボルとされ、古い聖書の表紙やカソリック教会の装飾にも描かれている。またこの六芒星は、日本においても同じく魔除けの象徴となっている。籠の目を図案化したものとして「籠目」と呼ばれており、伊勢神宮の石灯籠にも六芒星が配されているのだ。

 二つの三角形を上下逆にして組み合わせた星形の中心いる芭尾は、完全に身動きが出来なくなった。元はアンドロマリウスを嵌める為に用意したものだったが、日本の物怪である芭尾にも有効なはずだ。

 しかも六芒星を描いた白墨は「兄弟ヤコブの骨壺」の欠片を使った。「イエスの兄弟、ヨセフの息子、ヤコブ」と刻まれた石灰岩でできた骨壺を、古物商がエルサレムで発見した。年代測定の結果は紀元六十年頃のものだという。最終的には、同名の別人のものと鑑定されて、ムィシュコー・ボロシェンコの元へ来た。だがその真贋のほどは定かでないにしても、平二が見た限り、骨壺は間違いなく霊的な力を放っていた。

 芭尾の血走った双眸は、じっと平二を睨み付けている。平二は芭尾から視線を外さずに、傍らにいるコールマンに言った。

「さあ、行ってくれ。全員ここから逃がすんだ」

「待ってくれ、それではやはり君が…」

「今さら何言ってんだ! 早く行け!」

 平二の怒鳴り声に、コールマンは踵を返して祭壇の方へ走り出した。そちらには、教会堂にいた者たちが集まっている。

 平二は、アンドロマリウスと芭尾をこの六芒星の結界陣に閉じ込めたら、自分以外の者全員をここから逃がすようコールマンに言い含めていた。コールマンは打ち合わせた通り、六芒星を避けて皆を誘導する。教会堂の奥で隠れていた者たちが、異形の芭尾を横目に、柱で隔てられた側廊を足早に通り過ぎて行く。その後に続いて、長椅子に乗せられたコラッツィーニとミケーレも運ばれて来ている。

 この教会堂の裏手は崖になっていて、神殿のある丘からは降りることができない。出口は芭尾が入ってきた正面の扉だけだ。全員がここから出たら、コールマンが外側から扉を閉じる手筈になっている。

 逃げていく者たちの尻目に見ていた芭尾の体が動き始めた。その動きはまるでスローモーションのようにゆっくりだが、確実に前へ進んでくる。

 平二の額から汗が落ちた。思った以上に芭尾の力が強い。もともと伝説級の悪魔であるアンドロマリウスを抑えるために作った罠だ。聖遺物の石灰岩で描かれた六芒星の中は、平二の霊力と相まって強い拘束力を発揮しているはずだ。それにも関わらず、芭尾は動き出した。だとすると、今の芭尾はアンドロマリウスをも凌駕するのかもしれない。

 ゆっくりと近づいてくる芭尾が、口を開いた。

「…平二…、この…程度で…私を…押さえ…られる…と思う…な」

 その声に呼応するように、平二は右目の力を強くした。一気に光が増して、芭尾の動きが鈍る。

 すると、今度は芭尾の尾が拡がり始めた。ゆっくりと開いていくそれは、また先が裂け始めている。まだ数が増えるのか。

 平二の霊力が強まったにも関わらず、芭尾の尾は動きを止めず、ゆっくりと一直線に平二に向かっていく。鋭く先端の尖った尾が何本も束になっている。少しでも気を抜けば、その束は平二に突き刺さってきそうだ。どれだけの者が逃げられたのか、そちらに注意を払う余裕もない。

 いよいよ伸びてきた尾が平二の眼前まで迫った。その数七本。結界陣の有効範囲は六芒星の内側にある六角形の中だ。芭尾の尾は、もう数センチでその六角形の外枠に触れるところまで来ている。

 芭尾の尾が結界の外に出た瞬間、線から手を離した平二は、その場から転げるように飛び退いた。すると芭尾の尾は急激にスピードを上げて、平二のいた場所に突き刺さっていく。硬い石のできているはずの床を貫いた芭尾の尾は、そこに大きな窪みを作る。

 まだ緩慢ながらも体の自由を取り戻した芭尾は、尾を振り上げて逃げる者たちに向ける。それを止めようと平二が黙儒で斬りかかった。芭尾は尾の一本を平二に向けて振るう。その威力は先ほどの比ではない。黙儒で受けたものの、平二はそのまま教会堂の壁まで押し飛ばされる。黙儒が尾に当たった瞬間に火花が散ったものの、芭尾の尾は毛一本も抜けていない。

 尾を向けられた者たちが悲鳴を上げて駆け出した。コールマンが割って入ろうとするが間に合わない。芭尾は尾を伸ばして、次々と逃げる者を突き刺していく。

「芭尾、私はここデス!」

 その時、日本語で叫ぶ声が聞こえた。芭尾が声のした方へ振り向くと、そこには瀕死で倒れていたはずのミケーレがグレゴリに支えられて立っている。その後ろにはネリーナと、コラッツイーニを背負った若い修道士や他にも逃げ遅れた者たちが数人いた

 芭尾はミケーレの姿を見てにたりと笑った。背後に垂直に立てた尾には、人が刺さったままだ。芭尾が尾を降すと、息が絶えたばかりの者達が、ぐしゃりと血を弾かせて床に落ちた。その残酷な光景に、ミケーレたちは悲痛な表情を浮かべる。。

「いいよ。お前が先だ。死ね」

 芭尾は尖らせた尾をミケーレに向けた。すでに平二は、黙儒を手に走り出している。ミケーレは、自分に尾が向けられていくのを見て、グレゴリを下がらせた。前に出ようとするネリーナを両手を広げて制止すると、自分が一歩前に出る。その場で姿勢を正すと、指先で十字を切って手を組んだ。その眼は芭尾を見るどころか、固く閉じられている。

「芭尾っ!」

 全速力で駆ける平二が、芭尾の気を自分に向けようと声を上げた刹那、七本の尾が全てミケーレに向けて殺到した。

 ところが、銃の弾丸のごとく打ち出されたはずのそれは、ミケーレに近付くにつれて勢いを失い、遅くなっていく。芭尾の尾はミケーレの目の前まで迫ると、完全に止まってしまった。その光景に芭尾自身が眼を丸くする。

 ミケーレの背後にいたネリーナが、すかさず手を伸ばした。手にはムィシュコーからもらった金のライターが握られている。竜の吐いた炎が詰まったライターのボタンを思い切り押すと、真っ赤な色をした炎が噴き出した。その炎は迫った芭尾の尾を包み、十数メートル先にいた芭尾自身にまで届く。炎と共に、辺りには硫黄に似た臭いが立ちこめる。

 燃え移った炎は吹き上がるように勢いよく燃えて、芭尾の尾を焼き焦がしていく。

「貴様らぁっ!」

 芭尾は慌てて尾を引くと、床に尾を擦りつけて火を消そうとする。しかし火勢は弱まるものの、なかなか火が消えない。

「なぜだ!、なんでお前だけが違う。なんでお前の力は私に…!」

「私の力ではない」

 叫ぶ芭尾にミケーレが言った。その言葉に、芭尾は憤怒の形相を返す。だが、炎に包まれた芭尾は、それを消すことに必死で手出しができない。

「さあ、今のうちに聖母の家の中へ!」

 ミケーレは背後にいた者たちを祭壇の後ろにあるサンタ・カーザ=聖母の家に入るよう促した。逃げ遅れた者たちが一斉に駆け出す。ミケーレもグレゴリに支えられて、聖母の家に入っていく。

 祭壇の裏に大きな大理石の塊が鎮座している。聖母の家はその中にある。巨大な聖遺物である聖母の家は、その大理石に覆われて守られているのだ。

 黙儒を振り上げた平二が芭尾に襲い掛かった。飛び上がって、そのまま芭尾に黙儒を打ち下ろす。火だるまになった芭尾は、尾で平二ごと黙儒を振り払った。それでもなお追い縋る平二に、芭尾が手を振るう。その鋼鉄のごとく硬い爪で打ち払うと、平二の手にあった黙儒が弾き飛ばされた。

「グオォォォォォッ!」

 燃えさかる炎の中で芭尾が吠えた。急激に妖力が上がった芭尾に、平二は圧倒される。放った気合いで、芭尾を取り巻いていた炎が消し飛んだ。辺りが今まで感じたことのない陰気に包まれる。

 先ほどから平二は、芭尾の妖力が急激に強くなっていっていることを感じていた。そのせいか、尾の数も一本から五本、そして七本に増えている。それが目の前で、また更に強くなっている。何が起こるかわからない危機感に当惑した平二は、遠巻きに芭尾の様子を見守った。

 圧迫感のある気がズンッと圧し掛かる。押し寄せてきた気でよろめきそうになった平二は、芭尾の体が一回り膨れ上がったのを見た。芭尾の皮膚があちこち裂けている。それはまるで、脱皮する爬虫類のようだ。

 芭尾もまた、その変化に戸惑っているのか、しきりと自分の体を見回している。その隙に平二は、弾かれた黙儒の方へと走った。

 平二が黙儒を取り上げた時、ついに芭尾の皮膚が床に落ち始めた。否、それは平二の妻であったおゆうの皮だ。それが体を大きくした芭尾から、どんどん剥がれ落ちていく。

 芭尾が平二の方を振り返った。その顔はまだおゆうの顔だが、口は大きく裂けている。その鼻が徐々に前へせり出してきた。そしてついに皮を突き破って、黒い獣の鼻が出てきた。

 芭尾が体に纏わり付いた皮を自らの手で落としていくと、その下から薄茶色の毛が現れた。それは百五十年前、平二とおゆうの前に現れた芭尾の姿だ。大きさこそ違うものの、あの時と同じ姿をした芭尾が現れた。

 芭尾は鼻面の上にある皮をつまむと、それを平二の方へ投げた。かつておゆうの顔を覆っていた皮膚が、平二の足元に落ちる。

「それは返してやろう、平二。お前の懐かしい女房の顔だ」

 獣の顔をした芭尾が笑った。それはあの夜、平二の腹を裂いた芭尾の顔だ。おゆうのはらわたを喰った芭尾の顔だ。忘れもしない、おゆうの仇の顔だ。

 平二の右眼が一気に輝き出した。マグマのように煮えたぎった血潮が体中に駆け巡っていく。平二の皮膚がどんどん赤銅色に染まっていく。腹の底からわき出す憤怒を抑えきれず、平二は雄叫びを上げた。

 その様子を見た芭尾は平然と笑ったままだ。それがまた平二の怒りを誘う。

「芭尾、お前は俺が殺す!」

 激昂した平二は芭尾に向けて、その怒りをぶつける様に怒鳴る。

「横浜でもそうなったな。太秦坊の目のせいか? あの時は見境をなくしたのに」

 平二が握った黙儒は吹き上げるように火花を散らし、刀身が青白く輝いているようにも見える。その黙儒を構えたまま、平二は芭尾に突進した。ぶつかる寸前で飛び上がった平二は三メートル近くまで大きくなった芭尾の頭頂間で飛び上がると、黙儒を叩き付ける様に振った。しかし黙儒が当たる寸前で、芭尾の尾が平二を弾き飛ばす。高く打ち上げられた平二の体は、芭尾の頭上で完全に無防備な状態だ。そこに向けて、再び芭尾の尾が迫る。空中で大きく上体を逸らした平二は、すんでのところで尾をかわすと、眼の前に突き立った芭尾の尾に手の平を叩き付けた。

 その瞬間、芭尾の動きが止まった。平二の手には、件の掛け軸に付けていた筈の呪符が握られていた。それが体に触れたことで、芭尾の動きが止まったのだ。

 平二はその機を逃さず、黙儒の一撃を芭尾の顔面に叩き込む。しかし黙儒が芭尾に届こうというところで、芭尾の口から黒くて長い蚯蚓のようなものが飛び出してきた。巫蟲だ。大量の巫蟲が芭尾の口から吐き出されていく。しかしその大きさは、平二が以前に見たものとは段違いに大きく太い。

 ぬめり気に包まれた巫蟲が、平二を包み込むように押し潰す。巫蟲の群れに覆われた平二は、そのまま石の床に叩き付けられる様に落ちた。

 芭尾は手を伸ばすと、尾に貼られた呪符に手を掛けた。爪で引っ掻くと、あっさりと剥がれてしまう。それはアジア圏の魔物には相当強力に作用する、古代インドのサンスクリット語で書かれた呪符だ。日本の物怪なら、それに触れた瞬間から一切身動きが取れなくなる。物怪自身で剥がしたりできるような代物ではない筈だ。

 芭尾は平二に向けて、更に巫蟲を吐き出した。アンドロマリウスの肉を喰らって育った巫蟲が、雪崩のように、平二へと落ちていく。

 一瞬の内に体中を黒い蚯蚓に覆われた平二は、締め付ける様にまとわりつく巫蟲の重みで足がもつれ、その場に倒れ込んだ。隙間なく取り付いた巫蟲は、平二の肉に我先にと喰らい付く。

「喰われて死んでいく気分はどうだ、平二よ?」

 歯を剥き出して笑う芭尾が、巫蟲の塊と化した平二を見下ろして言った。身動きを取れずに横たわったままだ。

 しかし、その塊の一部が徐々に盛り上がると、内側から突き上げられる様に崩れ出した。飛び散った巫蟲は転がると、霧散するように消えていく。

 隙間から、ぼんやりと薄紅色の光が漏れている。平二の体に施された刺青が光っているのだ。

 平二は芭尾を滅するために、そして己の身を守るために、体中に仏教の経文や印を刺青で施してきた。そのほとんどが大した効果もなく、中には全く意味を為さなかった。

 しかしいくつかは、強い効果を示すものがあった。その一つがチベットで施したタントラの刺青だ。タントラは北インドやチベットの密教系仏教寺院にある円柱型の経本だ。円柱は中心で棒に固定されていて、参拝者がそれを一周回すごとに、教本を一巻読んだことになる。平二はそのタントラの紋様を、両腕と両足、そして腹に施している。平二が意識を集中すれば、その霊力と相まって、タントラが破邪の効力を発揮する。並みの魔物や物怪なら、平二に触れることさえできなくなる。

 平二の手足と腹に、帯状に書かれた経文が浮かび上がっている。巫蟲の固まりから顔をのぞかせた平二は、体を仰け反らせると一気に跳ね上がった。一瞬の間に芭尾の目前へと迫った平二が、黙儒を横一閃に振るう。その突先は芭尾の鼻面を掠めた。隙を突かれた芭尾の鼻先から鮮血が飛び散る。思わず身を引いた芭尾に、再び平二が追い縋る。

 しかし、一歩踏み出した平二は崩れ落ちる様に膝をつくと、その場でえづいた。すると口から黒い綿埃のようなものが飛び散った。体内に入り込んだ巫蟲の残骸を吐き戻したのだ。

「貴様、よくもやってくれた!」

 動きを止めた平二に芭尾が近づいて来る。鼻面を真っ赤にしながらも、芭尾はにたりと笑みを浮かべた。自分の圧倒的な有利を確信している顔だ。

「どうした? 随分と息が上がっているじゃないか」

「………」

 霊力を大きく消費したのを見抜かれている。アンドロマリウスを喰った巫蟲は、簡単に撃退することなどできなかったのだ。しかも体の中まで入り込まれて、それを滅するために、相当な霊力を使ってしまった。

 近付くにつれ、芭尾の鼻先の傷が塞がっていく。平二の渾身の一撃も、アンドロマリウスの力を手に入れた芭尾の前には無力なのか。

 飛び掛からんと芭尾が一歩踏み出したその時、平二は袈裟懸けにしていた鞄の中身をぶちまけた。数本のペットボトルと一緒に、大量の小麦粉が宙を舞う。

 急に視界を奪われた芭尾は、宙に舞う粉を掃うように尾を振り回した。そのうちの一本に弾かれて、平二は教会の奥にある祭壇へと飛ばされる。

 平二の体は、ぶつかった祭壇を真っ二つに割ってしまった。強烈な衝撃で気を失いかけた平二は、歯ぎしりをしながら体を起こす。

「糞、糞、糞っ!」

 平二が悔しがる様子に、芭尾が笑い声を上げた。

「横浜では散々いたぶってくれたな」

 芭尾は、毛むくじゃらの指を平二に向けた。太く鋭い爪が伸びて、横たわった平二の右太腿に刺さる。経文が彫られた皮膚を楽々と突き破った爪は、体の反対側へと突き抜けた。

「あの時は、投げた刀でこのあたりを斬られた」

 今度は右腕辺りに向けて別の指から伸びた爪が突き刺さる。刺された痛みで叫ぶ平二を見て、芭尾が笑った。

「アッハハハッ、あと脇腹の辺りだったな!」

 ドンッと音を立てて、平二の腹に爪が食い込んだ。それは腹の肉を突き破って、背にした祭壇の大理石にまで崩す。芭尾は手を動かして、刺さった爪を抜き差しした。平二の叫び声とともに、芭尾の笑い声が、教会堂中に響き渡る。

「それから、どこだったか―まあいい。もう死ね」

 芭尾が残った指を平二の胸元に向けた。そこは芭尾が刃を刺された場所だ。

 心臓向けられた指を見て、平二は必死で逃げ出そうともがくが、芭尾の爪で縫いつけられた体はびくとも動かない。如何に天狗の眼によって死ににくい体になったとはいえ、心臓を突かれて生きていられるとは思えない。

 圧倒的な力でねじ伏せられた。芭尾は平二の想像を絶する力を振るっている。

 諦めや後悔よりも、聖母の家に避難したミケーレたちのことが脳裏をよぎる。ミケーレも大怪我を負っている。自分がここで死ねば、もう彼らに抗う術はないだろう。ネリーナに今の芭尾を退けるほどの力はあるまい。

 割れた祭壇の間に倒れた平二の視界に、にたりと笑う芭尾が見えた。それはあの夜、襲われた夜に見たのと一緒の笑みだ。あの時、この笑みに恐怖した。しかし今は、悔しい思いが募るだけだ。自分が死ねば、皆が芭尾に殺される。

 その時、芭尾を睨みつける平二の視界を何かが覆った。

 芭尾の爪が伸びた刹那、平二の体の上にミケーレが覆い被さったのだ。爪はミケーレの背中に深々と突き刺さる。

「ぐうっ!」

 呻いたミケーレに気付いた平二は、手に持った黙儒に振るった。ミケーレに刺さった爪を叩き折ろうとするものの、爪はたわむばかりで傷一つつけられない。

「ミケーレ、退くんだ! なんでお前が…!」

 泣き叫ぶような声を上げる平二に、ミケーレが答えた。

「…あなたを…救い……のです」

 その言葉に平二は雄叫びを上げた。輝きを失っていた右眼が再び光り出す。

 平二はミケーレに刺さった爪を握りしめると、全身全霊を込めて押し返す。あらんかぎりの力を込める平二は、雄叫びを上げた。

 咄嗟に押された芭尾は、その場で尻餅をつくように後ろへ倒れる。すると、平二に刺さっていた他の爪も引き抜かれていく。痛みのあまり悲鳴に似た声を上げながらも、平二はすぐさまミケーレの体を抱きかかえて、割れた祭壇の後ろへ転げるように身を隠した。

「な、なんでだ、畜生、畜生! ミケーレ、死ぬな!」

 必死に叫ぶ平二に向けて、芭尾の爪が襲い掛かる。平二たちが隠れた祭壇に当たると、それをバラバラに突き崩した。折り重なるようにして横たわった二人の体が、芭尾の目の前に露わになる。

「あと少しってところだろうに、胸糞悪い!」

 芭尾はゆっくりと背中の尾をもたげた。その数は先ほどよりも多く、十本に増えている。芭尾はその全てを平二たちに向けた。

「…二人まとめて串刺しにしてやる」

 力を使い果たした平二の体は、思うように動かない。半身をどうにかずらした平二は、ミケーレを庇うように覆い被さった。

「ウオオォォォッ!」

 芭尾は、背後から聞こえた叫びに思わず振り向いた。そこには壊れた長椅子の木片を振りかぶったコールマンがいる。それを避けようともしない芭尾は、そのままコールマンの一撃を受けた。

 コールマンは木片で芭尾を殴り続ける。何度も殴りつけるうちに、木片が折れてしまった。それでも芭尾は全くの無傷だ。

「芭尾! 私はお前に欺かれたが、神は決して無力ではない! 無力ではないのだ!」

 胸元のロザリオを手にしたコールマンは、それを芭尾に向けた。

「私は救おうとしなかった。だから神は私に力を貸さなかった。―私を籠絡できたからといって、神に勝ったつもりになるな!」

 芭尾はコールマンの言葉に目を細めた。

「言っている意味が分からないな。―貴様らが力を振るうのに、何か条件でもあるのか?」

「神の力は救う力だ! 何者かと競ったり、ましてや傷つけたりする力ではないということだ」

 そう言ってコールマンは胸前で十字を切ると、芭尾に近付く。

「我、汝を祓う、汝、下劣なる悪魔よ、我らが敵、神に仇なす者よ! イエス・キリストの御名において命ずる! 芭尾よ、これなるキリストの力に屈服し、去りゆくべし!」

 芭尾は、振り上げていた尾をコールマンに向けて打ち下ろした。迫った芭尾の尾にひるむことなく、コールマンは祈りを唱え続ける。

 芭尾の尾が、コールマンに近づくにつれて重くなっていく。先程ミケーレに尾を向けた時と同じだ。動きの鈍った尾を易々と避けたコールマンは、更に芭尾へと近付いていく。

 徐々に高まる祈りの声に、芭尾は言い表せない不快感を抱いていた。それはまるで、胃の中を撫で回されるように、内から沸き起こってくる。全く初めての感触だ。取り込んだアンドロマリウスの部分が、コールマンの祈りに反応しているのだろうか。

 芭尾は無意識のうちに後ずさった。伝説にもなった悪魔、アンドロマリウスを喰らって無敵になったはずなのに、ミケーレやコールマンに攻めが届かない。むしろ一歩足を引いてしまった。その事実に芭尾は、言い知れない怒りを覚えた。沸き立つ苛立ちに叫び声を上げる。

「救うだと? 平二を騙し、陥れようとしたお前が、あいつらを救うのか?」

 芭尾は全ての尾を振り回すと、辺りに散らばった長椅子をコールマンのいる方へ弾き飛ばした。飛んできた椅子は、勢いよくコールマンに殺到する。飛んできた長椅子の衝撃で吹き飛ばされたコールマンは、壁に激突すると、そのまま気を失ってしまった。

 芭尾が振り向くと、壊れた祭壇の向こうにいたはずのミケーレと平二がいない。視線を振った芭尾は、聖母の家の中に平二を運び入れようとしているグレゴリの姿を見た。芭尾に見つかったグレゴリは真っ青な顔で、平二を聖母の家の入口へと引き摺っていく。

「貴様ぁ!」

 芭尾の尾の全てが殺到する。しかしグレゴリは、尾が届く直前で聖母の家に逃げ込んだ。標的を見失った尾が、聖母の家を囲んでいる大理石を砕く。彫刻された装飾が砕けると、瓦礫となって辺りに飛び散った。しかしその守りは堅く、聖母の家自体の壁は砕けない。それそのものが聖遺物である聖母の家は、力を得た芭尾さえも阻んでいる。

 コールマンに構っている間に、ミケーレと平二をやり損じた。歯噛みする思いに身を震わせた芭尾は、腹の底から憤怒を込めた雄叫びを吐き出した。

 その声は教会堂の全てを震わして、ステンドガラスにひびを入れた。


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