天狗の眼(下)   終章、人に見えないもの  1幕  2幕  3幕  4幕

天狗の眼(下)   終章、人に見えないもの  1幕  2幕  3幕  4幕

 平二は体制を戻そうと手を付くと、腕から肩へ激痛が走る。覆い被さったネリーナの体の下から抜け出ると、壁にもたれかかるようにして体を起こした。体中が痛んで、もうどこが痛いのかさえわからない。朦朧としながらも、平二はネリーナの体を跨いで前に出た。

「そうなっては、救う力も発揮できないだろうな」

 芭尾が尾を持ち上げた。全ての尾が平二に向けられている。平二はその光景を歯噛みして見ているしかなかった。痛めつけられた体は、もう碌に動きそうもない。

 芭尾がゆっくりと歩いてくる。勝利を確信したのか、その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。

 しかし、何歩か近づいたところで芭尾の足が止まった。その足の下に、小さな白い紙片が見える。先ほど平二が使った呪符だ。それを踏み付けた芭尾が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

 平二は、この機会を見逃さなかった。芭尾に向けて駆け出すと、残る力を黙儒に込める。芭尾の懐へと潜り込んだ平二は、火花を散らす黙儒で芭尾の腹を突き上げた。動きの止まった芭尾に抗う術(すべ)はない。少しの油断が、平二の反撃を許してしまった。

「ウオォォォォォッ」

 平二の叫びと共に、深くめり込んだ黙儒が眩いばかりの光を放つ。芭尾の腹と背が爆発音と共に内側から吹き飛んだ。その拍子に平二の体も投げ飛ばされる。

 転げた平二は芭尾を見た。うずくまるように腹を押さえる芭尾は、その場で膝をついている。

 芭尾が腹から手を放すと、血が噴き出す様に流れ出した。

 そこには黙儒が穿った穴があった。抉られたように開いた穴は貫通して、向こう側が見えている。

 すぐさまもう一撃入れるべく、平二は黙儒を支えに立ち上がろうとする。しかし、黙儒を持った手はそのまま床に着いて、姿勢を崩した平二はその場に転げた。

 右手に固定した黙儒は、握っていた柄を残してその先がなくなっていた。芭尾の度重なる攻めに堪(こら)えきれなかったか、あるいは平二の渾身の力に耐えきれなかったか。黙儒の砕けた破片は、芭尾の足元に散らばっている。

 憔悴しきった平二は途方に暮れた。

 手負いの芭尾はその場に留まっている。体に大穴を開けられて動けないに違いない。今こそ千載一遇の好機(チャンス)だ。しかしもう、芭尾に抗う手段は残っていない。

 絶望的な状況な上に、体はぼろぼろだ。諦めを覚えながらも、ネリーナを背にした平二は立ち上がる。せめてネリーナが逃げる隙だけでも作れるかもしれない。

「残念だったな、やっぱり、死ぬのはお前だ」

 芭尾は腹に空いた穴の縁を撫でた。肉がメリメリと音を立てながら再生して、穴が塞がっていくのがわかる。それを認めた芭尾は、にやりと笑みを浮かべた。

 平二は一歩前に出た。痛みと疲労で膝が震える。それでもなお両手を大きく横へ広げて、ネリーナを庇うように立ちはだかった。

「そうまでして女を守るか?―また逃げればいいだろうに」

「………うるせえよ」

 悪態をついた平二は、また一歩前に出た。

 両手を広げた平二の姿に、芭尾は既視感を覚えた。横浜でミケーレに押し付けられた十字架だ。ミケーレを守る様に眼前に迫った銀の十字架。処刑される惨めな男の姿に畏怖さえ感じた。あの時の感情を思い出した芭尾の心中に、激しい苛立ちが沸き起こる。

 芭尾の背後で無数の尾がもたげる。傷が塞がるのを待たずに動き出した芭尾は、ぼたぼたと腹から落ちる血と肉の破片を手で押さえた。

「胸糞悪い。―さっさと殺してくれる」

 数え切れぬほどに増えた尾が、徐々に持ち上がっていく。

 いよいよ観念した平二は硬く目をつむった。教会堂に、しんと静寂が拡がる。

 

 その時、ばちんと空気の弾ける音が響いた。

 

 鋭い痛みを感じた平二は、折れた黙儒に眼を向けた。平二の手の中で、黙儒が小さな火花を散らしている。折れてなお、黙儒はその力を失ってはいない。

 目の前に迫った芭尾もまた、平二の手の中で霊力を散らす黙儒を見た、

 先程受けた一撃で、腹を丸ごと吹き飛ばされた。おかげで碌に身動きも出来ぬ。今また平二の攻めを喰らえば、今度こそ危ういかもしれない。

 芭尾は、とどめを刺すべく尾を持ち上げるが、腹に穴が開いているせいで、うまく姿勢が保てない。

 平二は前のめりになって、転がる様に芭尾へと駆けた。ほんの十数歩の距離だ。それでも何度も転げながら、芭尾に手の届く距離まで近づこうと、平二は必死に手足を動かした。

「この死にぞこないが!」

 足元に這い寄った平二に、芭尾が鋭く伸びた爪を振り下ろした。

 その手が平二に届くより一瞬早く、、雷のような火花が迸った。折れた黙儒から放たれた雷は、平二の手に巻かれたストラップを焼き切って、真っ直ぐ芭尾の喉元へと迫る。

 だが、轟音と共に伸びあがった雷は芭尾を掠めて、教会堂の天井に当たった。

 芭尾は首筋を撫でた。体毛ばかりか肉まで焼け焦げている。あれがまともに当たれば、頭が吹き飛んでいたところだ。幾らアンドロマリウスを喰ったとはいえ、首なしでは生きておられまい。

「…惜しかったな。だが、これでもう終わりだ」

 芭尾の足元に仰向けで倒れている平二は、手は黒く煤けており、持っていた黙儒は傍らに転がっている。芭尾が人差し指を伸ばした。鋭い爪が、平二の右眼に向いている。

「………いや、まだだ」

 平二がつぶやいた瞬間、芭尾の頭に重たい石の塊が落ちた。衝撃で前のめりに倒れる芭尾を避ける様に平二が転がる。

 平二の放った最後の一撃は、芭尾を逸れて教会堂の天井を砕いた。落ちてきた石の塊は、砕けた天井の瓦礫だ。

 落ちてくる石の塊が、轟音と共に次々と芭尾の上に積み重なっていく。

 這い出そうともがく芭尾が闇雲に瓦礫の山を崩すと、更に芭尾の体が埋もれていく。幾ら芭尾とて、そう簡単には抜け出せまい。

 これは最後の賭けだった。

 満身創痍で憔悴した平二が、芭尾にとどめの一撃を喰らわすことができた可能性は低い。だから平二は、芭尾を狙うふりをして天井を落としたのだ。

 しかし、まだこれでは足りない。いずれ芭尾の傷が癒えてしまえば、すぐにでも瓦礫の下から這い出てくるだろう。

 瓦礫が落ち切ったのを認めた平二は、やおら立ち上がった。その手には、芭尾の胸から抜け落ちた刃が握られている。

 それはかつて、芭尾を追う平二に天狗の太秦坊が持たせた「物怪を殺せる刀」の折れた片割れだ。折れた刀の先半分を、ミケーレが芭尾の胸に突き刺した。

 その刃が芭尾から抜けなかったのは、ミケーレの力の所為ではない。刀は沢山の人を斬るうちに、切られた者らの恨みつらみをこびり付かせ、邪な力を持つようになった。それが楔(くさび)となって、芭尾の胸に刺さったまま抜けなくなったのだ。

 刃に憑いた恨みを供養してやれば、いずれは抜けたのかもしれぬ。しかし、物怪である芭尾には、そうした考えに及ぶことさえなかった。

 平二は手に持った刃で、自分の手首を斬り付けた。切った傷口から血が溢れ出す。血で刃が濡れたことを確かめた平二は、瓦礫の下から這い出そうとする芭尾に近付いて行く。

「貴様!……」

 くぐもった声が響いた。芭尾の頭が、瓦礫の隙間から覗いている。暗がりから覗く芭尾の眼は青黒い光を放っている。

 平二は芭尾の頭の上にある石の塊に手を掛けると、それを乱暴に引きずり落とす。すると芭尾の頭部が露わになった。

 芭尾は血まみれの刃を手にした平二を見て、大きく眼を見開いた。それはどす黒い瘴気(しょうき)を煙のように立ち昇らせている。

 もう芭尾を傷つけられるほど霊力の残っていない平二は、わずかに残った力を使って、自らの血に呪を込めた。赤の他人の恨みで、芭尾は百五十年も苦しんだ。平二の深い恨みが込められた血であれば、どれだけの苦痛になるであろうか。

「糞、糞、やめろ!」

 近付く平二をけん制するように、芭尾は喚めいた。何度も口を開け閉めして、尖った歯をがちがちと鳴らす。

 平二は構わず、芭尾の頭頂に刃を突き立てた。

「ぎぇええぃえええ!」

 頭を串刺しにされた芭尾が、断末魔の叫び声を上げる。激烈な痛みが背筋を抜けて、全身を小刻みに震わせる。

 芭尾の叫びで平二の鼓膜が破れ、両耳から血が噴き出した。それでも平二は怯まず、芭尾の鼻面に馬乗りなると、更に刃を押し込んでいく。芭尾の口腔から伸びた牙が、平二の足を切り裂いて、床の上に血が飛び散る。

「ああっ…あ、ああ…」

 芭尾は、狼狽える様にうめき声を上げた。腹に空いた穴が再生が止まった。平二が突き刺した刃の傷から、妖力が血と共に噴き出していく。取り込んだアンドロマリウスの力が失われていく。

 平二が右眼に力を込める。魂を絞る様に、わずかに残った力を右眼に集めていく。蝋燭のように微かな光を湛えた右眼で、芭尾を睨み付けた。

「地獄へ落ちろ、芭尾」

 平二は握りしめた拳を、芭尾に刺さった刃に叩き付けた。なけなしの霊力と共に、刃が芭尾の頭頂にめり込んでいく。平二は自身の拳が切れるのも構わず、血を飛び散らせながら、何度も拳を刃の尻に叩き付ける。

 もう悲鳴も上げられない芭尾が動きを止めた。

 はらりと芭尾の体毛が抜け落ちる。その量は次第に増えていき、その内に、ばさり、ばさりと音を立てて落ち始めた。

 芭尾の体が黒い綿埃のようにぼろぼろと崩れ落ちていく。すると、支えを失った瓦礫の山が中央から音を立てて沈み込んだ。

 芭尾は灰になって消えていく。平二はその様子を瞬きもせずに見守った。

 百五十年もの間、必死で追いかけてきた相手が消滅した。仇を討ち果たしたのだ。もっと感慨深いものかと思ったが、何の感情も沸いてこない。かつてミケーレが言ったように、気持ちが晴れることはない。

 呆然と立ち尽くしていた平二は、教会堂の中を見回した。石の床は穴だらけになって、石塊となった大理石が方々に転がっている。整然と並んでいた長椅子はほとんどが壊れていて、まともな状態のものは数えるほどしかない。

 床や壁には血が飛び散り、芭尾にやられた人々が横たわっている。何人かは、重傷ながらもまだ息があるようだ。グレゴリたちも、聖母の家の中で待っているに違いない。

 平二は、床の上に一際赤く染まった場所があるのを認めた。それは芭尾が血だらけのアンドロマリウスを転がした場所だ。しかしそこに、アンドロマリウスがいない。

 慌てて辺りを見回した平二は、瓦礫の上に人影を見付けた。そこには、一糸まとわぬ男性の姿がある。

 芭尾に喰われて体の殆どを失っていたはずのアンドロマリウスが、完全な姿で平二を見下ろしている。その股間には、隆々と筋肉を湛えた細身の体には似つかわしくない、大きくて太いものがぶら下がっている。それは突然持ち上がると、鎌首をもたげて大きく口を開けた。それは陰茎ではない、蛇だ。アンドロマリウスの股間にぶらさがった蛇が、平二を威嚇するようにシャーッと鳴いた。

「見事だな、ヘイジよ」

 にんまりと笑ったアンドロマリウスが言った。

 こいつの存在を忘れていた。いや、忘れていたわけではないが、芭尾を相手に力を使い切ってしまった。

「どうした? 疲れ切って喋ることもできないのか」

 アンドロマリウスは、軽やかに瓦礫の上から降りてくる。

 伝説級の悪魔が放つ威圧感に耐え切れず、平二はその場で膝を着いた。相変わらず、凄まじい程の気を垂れ流している。憔悴しきった体には、近くに寄られただけで堪える。それにしても、両耳の鼓膜が破れているはずなのに、アンドロマリウスの声がはっきりと聞こえている。その声は、頭の中まで響いてくるのか。

「バドロルシススばかりか、俺を喰って強くなった芭尾まで倒してしまった。―まずは、私の仇を討ってくれたことに礼を言おう」

 こいつのためである訳がない。苛立ちを覚えた平二は、眉間に皺を寄せた。

「わかっている。貴様は自分の妻と友人のためにしたのだろう。だが結果的には、私の仇も取ってくれたわけだ。礼ぐらい言ってもいいだろう」

 そう言ってアンドロマリウスは、先程まで芭尾を押し潰していた石の上に座ると、平二に顔を寄せた。

「さて、交渉再開だ。私と一緒に来るか? 来るなら、まだここにいる連中は助けてやる。だが断るならば全員殺す。貴様も当然ながらその内の一人だ。」

 アンドロマリウスの顔が近い。血生臭い、吐き気を催させる臭いが鼻腔に侵入してくる。

「俺はともかく、他は聖職者だ。……悪魔のお前に、簡単にやられはしない。」

「見くびってもらっては困る。只の聖職者など、私には虫けらにも劣る存在だ―それにしても、昨日今日会ったばかりの連中を、どうしてそうまでして助けてやる義理があるんだ? 奴らはお前をストランデットと呼んで蔑むような連中だ。あいつらを守ったところで、誰も礼など言わないぞ。」

「………」

 平二は無言のまま、アンドロマリウスを睨みつける。暫く返事を待ったアンドロマリウスは、大きくため息をついた。

「まあ、ミケーレも死んだし、芭尾も殺してしまった。貴様にしてみれば、今さら寝返ったところで、何も旨みがないな。―いいだろう、新しい条件をくれてやる」

 アンドロマリウスは手を差し出すと、平二の目の前で広げた。その手の平には薄汚れた布切れのようなものが載っている。それを見た平二は眼を見開いた。

 平二の両腕が、自分の意思とは関係なしに持ち上がる。アンドロマリウスは、平二の開いた両手の上に布切れのようなものを置いた。

 平二は手の上にあるそれをじっと見つめる。それは、先ほど芭尾から剥がれ落ちたおゆうの皮膚だ。

「芭尾に殺された貴様の女房を生き返らせてやる。俺たちなら、この皮膚の欠片からでも生前と寸分違わぬ姿に再生できるぞ。どうだ、これなら文句はあるまい?」

 平二は手の上に乗ったおゆうの皮膚をそっと握ると、アンドロマリウスを見上げた。その右眼は赤い光を放ち始めている。

「…今さらおゆうが生き返って、俺が…喜ぶとでも思ったか?」

 怒りの感情が、平二の右眼を光らせる。

「何をそう感傷的になっている? 人の生き死になど、貴様にはどうでもいいことじゃないか」

「……どういう意味だ?」

「貴様が化け物だということさ。貴様は俺たちと同じだ。―よく見てみろ、その自分の姿を。『人』がそれだけ傷ついて、生きていられるか?」

 アンドロマリウスが、口元をにやつかせながら、平二の体を眺め回す。その姿は全身が血と傷だらけで、折れた骨のせいで体のあちこちが盛り上がっている。その半死半生の姿で、唯一生気が感じられるのは、光を放つ右眼だけだ。

「貴様はその右眼があるお蔭で、『人』としての命を使い果たした今も、その魂を肉体に繋ぎ留めている。ようするに、今はその眼がヘイジ・イノウの死体を操っているようなものだ。」

 黙ったままの平二に、アンドロマリウスが言葉を続ける。

「魔物の眼に生かされている死人のお前が、生き返った女房と仲良くやるのに、何の躊躇がある? お互いの入れ物が違うだけで、魂の在りかは同じだ。―どうせ化け物と疎(うと)まれるなら、その利点を享受してもよかろう? 長い人生を楽しく…」

 その時、平二の背後で声が響いた。

「駄目です! 悪魔の言うことなど聞いてはいけません!」

 鼓膜の破れた耳には、遠くから叫んでいるようにしか聞こえない。それでもその微かに聞こえた声が、ネリーナのものだとわかった。

「アンドロマリウスよ! ヘイジさんから離れなさい。神の家からすぐに出て行きなさい!」

 ネリーナは、手にしたロザリオを前に突き出した。

「会話の途中で割り込むのは、行儀が悪いと教わったことがないのか?」

 嫌悪感を隠そうともせず、アンドロマリウスはうんざりとした表情で言った。

 それでもネリーナは片足を引き摺りながら、アンドロマリウスへと近づいて行く。

「黙りなさい! ヘイジさんは化け物なんかじゃない。この人は優しい人です! ヘイジさんは…」

 アンドロマリウスが、勢いよく手を横に振った。その風圧で平二が転げる。しかしネリーナは、少し姿勢を崩しただけで倒れはしない。

 ネリーナは片手にロザリオを、そしてもう一方の手は、首から下げたヨハネ・パウロ一世のストーラに触れている。それは決して古いものではない。しかし身に着けているだけで、アンドロマリウスに対する恐怖が和らいでくる。まるで何かに守られているかのような安心感がある。

 苦々しい顔でネリーナを睨みつけるアンドロマリウスの股間から、赤黒い蛇が頭をもたげた。それが一直線に伸びて、ネリーナへと襲い掛かる。

 しかし、蛇がネリーナに触れようかという瞬間に、見えない壁にぶつかったかのように弾かれた。蛇はもんどりを打って床の上に落ちると、アンドロマリウスの脚の間に引き戻っていく。

 その様子を、腕組みして眺めていたアンドロマリウスが立ち上がった。不機嫌な様子でネリーナを睨み付ける。

「…このアバズレが。調子に乗るなよ」

 片足を少し持ち上げたアンドロマリウスは、足元を軽く踏み付けた。

 すると、強烈な衝撃と共に地面が揺れた。瓦礫の山が崩れると、ネリーナに向かって大きな石の塊が転がる。それを避けよう後ずさったネリーナは、その場で尻餅をついた。

 石はネリーナの目の前で止まったものの、脚に怪我を負っているネリーナは、すぐに立ち上がることができない。

 アンドロマリウスは、仰向けに倒れた平二を見下ろして言った。

「無粋な邪魔が入った。―いずれまた会おうか。さっきの話に興味があるなら、その皮膚は処分しないでおくことだ。持って来れば、いつでも再生させてやる」

 アンドロマリウスは踵を返すと。折り重なった瓦礫に上った。倒れたままの平二は、目だけ動かしてアンドロマリウスの方を見るが、その姿はぼやけて見えるだけだ。

「ああ、一つ教えておこう。ストランデットと呼ばれている者のうち何人かは、既に我らの軍門に下った。―貴様も早めに考え直せ。そう長くは待たないからな。」

 振り向いたアンドロマリウスが平二を一瞥する。しかしそれは、倒れた平二には見えていない。視界の端にアンドロマリウスの影があるだけだ。

 その影が、瓦礫の向こう側に降りて見えなくなると、先程まで辺りを包んでいた威圧感が消失した。

 一気に緊張が解けて、横たわった体から汗が噴き出してくる。

「…ヘイジさん」

 尻餅をついて座っていたネリーナが平二に声を掛ける。しかし、その声は平二に届いてはいない。

 平二は手を伸ばすと、傍らに落ちていた皮膚の欠片をつまんだ。砂ぼこりにまみれて薄汚れてしまったものの、まだ薄赤い肌色の部分を残している。平二はそれを丁寧に指で広げて汚れを掃った。おゆうの体の一部であったものは、まだいくつも落ちている。

 その場に両手を付いて、這うようにその破片を集めていく。

 芭尾から剥がれ落ちたおゆうの皮膚を拾い上げて、手の中に納めていった。体中の骨が折れて痛みを訴えている。流れ出る血が汗と混じり合って滴ってくる。それでも平二は、必死で床に散らばった、おゆうの破片を拾い上げていった。

 手の届くものをあらかた拾い集めた平二は、それを胸前で抱きしめた。拳を強く握りしめた平二は、祈るように頭を垂れる。

「…おゆう、すまなかった」

 平二はそうつぶやくと、そのまま前のめりに倒れて気を失った。


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