オールトは、呆けて突っ立っていた船員たちに向けて叫んだ。雇い主の声で気を取り戻した者たちが、次々と顔を上げる。
「ごほっ、ご、ごほっ、――オ、オールトさん、やめてください!」
尻餅をついたミケーレが、激しく咳き込みながら叫ぶ。
ミケーレの声に反応したオールトは、一瞬動きを止めたものの、銃を下げようとはしない。船員たちの手元からも、撃鉄を起こす音が次々と聞こえてくる。
オールトの小銃が再び火を吹くと、甲板に倒れた平二の体が跳ねる。
「やめて! やめてください、お願いだから!」
悲痛な叫びを上げて訴えるミケーレをよそに、オールトと船員たちは、平二の体に次々と銃弾をめり込ませていく。
何十もの銃弾を浴びた平二の体は、一寸も動かなくなった。
「ああ、平二サン…平二サン…」
動かなくなった平二の姿が、涙でぼやけて見える。その体から流れ出る血が、甲板の上に大きな溜りを作っていく。ミケーレは、湧き上る失望感でめまいさえ覚えた。
「フウッ…死んだか」
いつの間にか半身を起こした芭尾が、安堵のため息を漏らす。
「オールト、次は奴だ。ミケーレも殺せ!」
顔に笑顔さえ浮かべた芭尾が、ミケーレを指差して叫んだ。
仕草で察したか、オールトは手に持った小銃をミケーレに向けて構える。その顔に躊躇の色はない。すると他の船員たちも銃を構え直す。
円狐も救えなかった。そして平二も。こんな無残な死に方をさせないために、平二を追ってきたはずだった。なのに、ただ自分の無力さを思い知っただけだった。
幾つもの撃鉄を起こす音が聞こえてきた。いよいよ死を覚悟したミケーレは、胸元で十字を切ると、固く両目を閉じる。
しかし、銃声よりも早く、一目が立ち上がった。
ミケーレを庇うように立ち塞がった巨躯に、銃弾が容赦なく撃ち込まれていく。鉄の弾が肉にめり込む音が、間断なく聞こえてくる。
その音に紛れて、ミケーレは一目がつぶやくのを聞いた。
「…物怪が、そう簡単に死ぬかよ」
顔を上げたミケーレは、一目の視線を追った。その先には、倒れた平二がいる。
「立てぇ、平二っ!」
一目の怒声が、辺りの空気を震わせる。
すると、その声に呼応するかのように、平二の体が持ち上がった。
何十もの銃弾を浴びたはずの平二が立ち上がる。もう息絶えたと思っていたはずの平二が、体中から血を噴き出させながら、転げるように芭尾へ飛び掛かって行く。
これだけ傷ついて、なおも追い縋ってくる平二に、芭尾は恐怖の叫びを上げた。
それに構わず芭尾に抱きついた平二は、その首筋に歯を突き立てた。暴れる芭尾に喰らい付いた平二は、引きちぎる様に首を振る。首筋から頬にかけて、皮膚が肉ごと剥がされる。
芭尾が甲高い悲鳴を上げた。 取り付いた平二を引き剥がそうと、必死で芭尾は抵抗するものの、平二もまた剥がされまいと、必死で腕に力を込める。
そこへ、オールトが銃床で平二に殴り掛かった。一瞬体が離れるが、なおも平二は、芭尾の髪をむんずと掴んで自分に引き寄せる。
血塗れた芭尾の頬に手を伸ばした平二は、更に皮膚を剥がす様に指を喰い込ませ、力いっぱい引いた。鮮血を飛び散らせながら、皮膚がべりべりと剥がれていく。
「その顔――それはおゆうのもんだ!」
真っ暗な甲板の上で、芭尾の悲痛な叫び声が響き渡る。逃げようと体を捻るものの、有らん限りの力を込めて芭尾を掴まえている平二からは逃れられない。
銃声が響いた。平二の腹に押し付けられた銃口が煙を上げている。オールトが、平二の腹部を至近距離で撃ったのだ。
それでも平二は芭尾を離さない。大きく仰け反りながらも、片手で芭尾の髪を握りしめている。
しかし芭尾は、その機を逃さず頭を大きく振った。すると頭皮がべりべりと剥がれ、平二が握っていた髪も抜けていく。
呪縛から逃れた芭尾がその場で転げると、再びオールトの銃が、平二に向けて火を吹いた。そのまま後ろへ数歩下がった平二は船縁に当ると、後ろ向きに海へと落ちていく。
「平二サン!」
叫んだミケーレを一目が抱え上げた。平二が落ちた方へ走ると、船縁を飛び越える。
十月の冷たい海に落ちた平二は、船上から降ってくる銃弾の音を聞いた。その音は、体が沈むにつれて遠退いていく。そしていつの間にか、全くの無音になった。
体は沈んでいくのに、どちらが上で下なのかさえ分からない。海の底へ引きずり込まれていくような感覚に動揺しながらも、体の自由も利かず、もがくことさえできない。真っ暗闇に包まれた平二は、今度こそ死を確信した。息もできず、体も動かない。自分が眼を閉じているのかさえ分からない。
おゆうの仇を討てず、顔を取り戻してやることもできなかった。頼まれた円弧の分を賄える程、芭尾を痛めつけてはいない――
芭尾は逃げて、俺は死ぬのか
海に沈んで消えていくのか
死んでいくというのは、こうも心残りがあるものか
覚悟していたとはいえ、死ぬのは怖い
いいことをすれば、罪も帳消しになるのだと言われた
しかし、いいことなんて何一つできなかった
おゆうは天国に行っただろうが、俺はやっぱり地獄行きだ
悔しい、 このまま死んでいくのは悔しい
円狐も悔しかっただろう
芭尾のせいで蔑まれ、俺たちのせいで住む場所をなくした
やっと、恨みを晴らせるはずだったのに
芭尾はこのまま逃げ遂せるのか
おゆうの顔を面のようにかぶって
また、人を喰うのか
許せない、 おゆうは何も悪くない
おゆうの姿で芭尾が悪事を働けば、おゆうが憎まれるのだ
あの優しかったおゆうが憎まれるなど、あってなるものか
心の底で小さな怒りと悲しみが芽生えた。遠退いて行く意識の中で、微かに生じた感情の揺らぎが、平二の右眼に明かりを灯す。
真っ暗な闇の中で儚げに浮かび上がる、小さな赤い光。ぼうっと光る、蝋燭の炎のような光。その光は明滅しながら、ゆらゆらと海の中で揺れている。
何かが平二の足を掴んだ。ぐっと引き寄せられる。
二本の手で抱きかかえられた平二は、もう気を失っていた。
※
眼を覚ました平二の目の前には、真っ青な空が広がっていた。
右眼は、まじないの書かれた布で隠れている。
体を動かそうとすると、あちこちが痛い。動かせないほどでないものの、体中に激痛が走る。
すると、視界の外から声が聞こえた。そちらに目を向けると、ミケーレが座っているのが見えた。平二を笑顔で見下ろしている。
「平二サン、大丈夫デスカ? 無理はしないでくだサイ」
そう言われるものの、様子が気になる平二は、ゆっくりと首を動かして、ミケーレの方を向いた。ミケーレの後ろには砂浜が続いており、ぼんやりと大勢の人がいるのが見える。
「……ここは?」
「砂浜デス。街から少し離れた場所デス」
「あれから…、どれだけ経った?」
「もう丸一日が経ちまシタ。今は、お昼ぐらいだと思いマス」
突然、平二の視界が暗くなった。上から一目が覗き込んだのだ。
「海に落ちた時、一目サンが助けてくれたんデス。平二サンが見つからなくて、何度も、何度も潜って探したんデス」
一目の右腕は、肘の先からなくなっていた。傷口は撒かれたさらし布で隠れているものの、その姿は痛々しい。
平二は肘を立てると、ゆっくりと上半身を起こした。痛む体を見下ろすと、銃で撃たれた所が治療されている。あちこち弾を取り出した跡が、丁寧に縫い合わされていた。
「フランス人の医者が、治療してくれたんデス。港に迷い込んだ日本人が銃で撃たれたって言ったら、何の疑いもなく治療してくれました。他の医者も、怪我をした日本人を治療してイマス」
ミケーレが振り返った。向こうに大勢の人々が見える。皆、焼け出された人たちだ。その間を幾人かの異人が行き来している。
ふと伸ばした手の先に、固いものが触れた。目をやると、そこには黙儒が横たわっている。船上で手放してしまったはずだったが、ミケーレたちが拾ってくれたのだろうか。たしか誰でも触れる代物でないはずだが。いずれにせよ、それは平二の傍らにある。
ミケーレは、懐から白い布包みを取り出した。それを平二の目の前に差し出す。
「…?」
怪訝そうに眺める平二に、ミケーレが言った。
「平二サンが握っていた髪の毛デス。これは…元々おゆうさんのものでショウ?」
ミケーレが布の包みを開くと、長い髪の毛が十数本入っている。確かに平二は、芭尾から髪の毛をむしり取った。それが手の内に残っていたのだろう。ミケーレの言う通り、この髪も芭尾がおゆうから奪ったものだ。
ミケーレは布を恭しく包み直すと、平二に手渡した。
受け取った平二は、それをそっと手の内に包み込む。
「……芭尾は?」
ミケーレは口をつぐんだ。黙ったまま下を向く。
「…逃げられたか」
「私たちが飛び降りた後、船はそのまま行ってしまいまシタ。――聞いた話では、船は澳門に行く予定だったそうデス」
聞き慣れない地名に、平二は顔をしかめた。
「清国の一部で、今はポルトガル領になっている土地デス」
「……」
教えられても、よくわからない平二には答えようがない。眉間に皺を寄せている平二に向けて、ミケーレが言葉を続けた。
「私は三日後に、澳門に行く郵便船に乗って、芭尾を追いマス」
「俺も行く」
すかさず言った平二に、ミケーレは首を横に振った。
「平二サン、あとは私に任せてくだサイ。あなたはもう元の暮らしに戻るんデス」
「それは無理だ。俺は女房殺しでお尋ね者になっている。それに、役人だって殺したんだ。いずれは捕まって、首を刎ねられる。それなら、お前と異国まで芭尾を追う方がいい」
ミケーレは何も答えない。
「俺がやらなきゃだめだ。頼む。おゆうの仇も、円狐の頼みも、まだ何もしてないんだ。頼むから俺を連れてってくれ」
ミケーレはじっと黙ったまま、首を横に振り続ける。
「ミケーレ、頼む」
平二が念を押すように言うと、ミケーレは下を向いてしまった。そのまま平二も黙って、ミケーレの返事を待つ。
「……私は一つ、分かったことがあるんデス」
ミケーレが顔を上げた。
「芭尾が十字架の前に膝を着いた時、確信しまシタ。神は、私たちを救ってくださったのデス。あなたや一目サンを救いたいという私の願いを、神が聞き入れてくださったのデス」
ミケーレの言葉に、平二は首を傾げた。
「円弧サンが言ったように、芭尾には神の力が通じ難かったのかも知れまセン。ですが、神が私たちを救う力には、抗うことができなかったのデス」
「……俺には、良くわからんな」
「救われた命を粗末にしてはいけナイ。あなたを救いたいと思う者がいる以上、あなたは命を大事にしなくてはいけないのデス」
平二は身延で日嘉に言われたことを思い出した。平二が救われたことを、おゆうは喜んでいるはずだと。平二が救われることがおゆうの望みであったならば、無駄には出来ない命なのかもしれない。
手の内にあったおゆうの髪を握りしめた平二は、黙ったまま頷いた。
「…郵便船の船長に話をしてみマス。私の従者と言うことにすれば、きっと大丈夫デス。でも、日本の幕府に知られたら大変ですから、絶対に内緒デス」
平二は頭をうな垂れると、つぶやくように言った。
「すまない。恩に着る」
聞き取れないほどの小声に、ミケーレは微笑みを返した。
ふと、ミケーレは振り向いて一目の方を見た。一目はどうするのだろうか。
「一目サン、あなたは…」と言いかけたミケーレに対して、一目が言った。
「俺は帰るよ」
そう言って、踵を返した一目は、人のいない方へ向けて歩き出した。引き留めるミケーレの声をよそに、一目は離れていく。その背中に向けて平二が言った。
「太秦坊に伝えてくれ! こいつは――黙儒は、俺がしばらく借りる」
平二は傍らに置かれていた黙儒を取り上げると、一目から見えるようにかざした。
振り向かない一目の左腕が上がった。大股で歩く一目は、いつの間にか見えなくなっていく。
「腹が減ったな」
平二は急に空腹感を思い出した。横浜に着いてから何も食べていない。腹が減っていることを意識すると、突然に空腹感が襲ってくる。居ても立ってもいられなくなった平二は、辺りを見回すが、食べられそうな物は何もない。
するとミケーレは、着ていた着物の懐から、見覚えのある竹の皮の包みを取り出した。
「円狐サンが残してくれたものデス。海に入ったとき濡れたはずなのに、中身は大丈夫でシタ」
広げた包みの中には、以前と同じように握り飯が二つ入っている。平二はそのうちの一つを掴むと、口いっぱいに頬張った。ミケーレの言う通り、濡れた様子がないどころか、まるで炊きたてたばかりの米で握ったようだ。暖かいし、ほんのり塩っぱい。
「うまいな」
そう言って平二は、もう一つ手に取った。口の中のものを咀嚼するたびに、平二は自分が生きていることを実感する。円狐が言っていたように、腹が減るのは生きている証拠なのだ。
握り飯を食べ終えた平二は、竹皮の包みを丁寧に畳んで、ミケーレに返した。
高く上った太陽の光が、目の前に広がる海を照らす。波に反射してきらきらと眩しい。
この海の向こうに芭尾がいる。
平二は眼を細めると、輝く地平線を睨み付けた。
※
慶応ニ年(西暦一八六六年)十月
横浜関内で発生した火災は、開港七年目の横浜のほとんどを焼き尽くしてしまった。この火災の死傷者は五百人以上とも言われ、日本人街だけでなく、外国人居留地にまで燃え広がった。
居留していた各国大使は、当初この火事を日本人による凶行だとして幕府を非難したが、被害の大半が日本人街であったこと、外国人に死傷者がいなかったこと、そして何より、外国人たちの避難を、多くの日本人が手助けしたこともわかり、いつしか日本側を非難する声はなくなった。
後にこの火事は、港崎遊郭の南にあった豚肉屋鉄五郎宅から出火したものとされ、「豚屋火事」と呼ばれるようになった。
(つづく)