天狗の眼(上)   一、天狗の眼  1幕  2幕  3幕








 俺の右目は天狗の眼 人に見えないものを見る










 一、天狗の眼

 

 平二はまどろむ意識の中にいた

 

 体の五感は無く、ただ意識だけがある

 宙に浮いたような心地よさが、思考を鈍らせる

 一体どうしていたのだったか…

 あやふやな記憶が断片的に思い出されるだけだ

 

 意識はあるが、肉体の感覚がない

 例えれば、魂だけになったような感覚だ

 思い浮かぶ断片を頼りに、記憶を紡ぎ合わせていく

 

 俺は何だったか

 俺は誰だったか

 俺はどうしたのか

 

 俺は…

 百姓の家に生まれた

 いつも腹を空かせていた

 おとんとおかんは、いつの間にかいなくなった

 はやり病で死んだのだ。

 

 食べる物も尽きても、誰も助けてくれなかった。

 だから山へ入った

 とにかく、毎日腹が空いていた

 

 山菜を獲って、近くの村へ売りに行くと良い値で売れた。

 獣を獲って食った。余ったら干して冬に備えた

 でも時々、山を通る旅人を襲って、金目の物を奪った

 

 そのうち仲間ができた

 お上が、年貢を増やしたのだという

 皆、腹を空かせていた

 仲間が増えてから、旅人を襲うことが増えた

 殺しをする者もいた。でも誰も止めなかった

 獣も獲らず、山菜も採らず

 人から奪うだけの山賊になった。

 

 派手にやりすぎたので山狩が来た。

 山に大勢の役人や侍が来た

 必死で逃げた

 山賊仲間とはそれきりだ

 逃げる途中で、大きく背中を切りつけられた

 

 三日三晩彷徨(さまよ)って、山の中で倒れた

 

 

 ――あれから、どうしたっけか

 

 

 そうだ、助けられたのだ

 力尽きて倒れた俺は、彼女に助けられた

 俺はおゆうに助けられたのだ

 

 そうだ、おゆうだ。

 

 おゆうを助けられなかった

 化け物に襲われて、おゆうは食われてしまった

 おゆうは皮を剥がれて、はらわたを食われて死んでしまった

 

 あの化け物はどこだ

 獣の姿をした化け物。釣りあがった目、裂けた口、尖った耳

 狐の化け物だ

 

 おゆうを喰った、あいつはどこだ

 

 

  

 平二は、徐々に戻る意識の中で、自分とおゆうに起こったことを思い出した。

 突然襲いかかってきた狐の化け物。長い鼻面に全身粟色の毛に包まれた化け物は、人のように二本足で立っていた。両手の指には長く鋭い爪を持ち、血走った眼で平二を()めつけた。

 その視線の奥に青い光を認めたとき、押さえつけられたように体の自由が利かなくなった。硬直したまま、まぶたも閉じられない。化け物が尻についた尾を振ると毛が逆立って、芭蕉の葉のような、太く波打つ形になった。

 それは平二の女房、おゆうの皮を剥いで、その肉を食らった。

 着物の前をはだけて、胸から腹へとおゆうの腹を割くと、中身を美味そうに咀嚼しながら食った。

 おゆうの体のあちこちに、鋭い爪で切れ込みを入れていき、肉から皮を剥がしていく。おゆうが食われている間も、皮を剥がれている間も、平二は指一本動かすことができなかった。

 化け物は、おゆうを皮と肉塊に分けると、いよいよ平二に向かってニヤリと笑った。

 恐怖で叫ぼうにも、喉からは碌に息も吐けない。

 おゆうが殺されるのを見ていながら、平二は何もできなかった。化け物が皮を剥ぐ間、座り込んで小便を漏らすしかできなかった。痛い痛いと泣き叫ぶのを聞いても、声一つ出すことができなかった。

 化け物は大きな口を開いて、甲高い声で笑った。平二の姿が滑稽なのだ。

 自分の女房が殺されるのを見ていながら何もできない平二を、化け物は(あざけ)るように笑った。

 化け物は血走った眼を益々見開くと、自分の頬に爪を立てた。食い込んだ爪が頬の皮を摘まみ上げると、己の皮を引き剥がす。苦悶の声を漏らしながら、化け物は体中の毛皮を自ら剥いでいった。

 化け物の手に血だらけの何かが、だらりとぶら下がっていた。黒く長い毛が(まと)わりついているそれを、臭いを嗅ぐように鼻に近づける。それを両手で拡げると、頬ずりするようにして自分の顔に押し付けた。毛皮が剥がれた血だらけの顔に張り付くと、化け物の顔が見る見るうちにおゆうの顔になっていく。化け物が持っていたのは、おゆうから剥いだ皮だ。

 血だらけのおゆうの顔が、平二の目の前で笑っている。舌なめずりをしながら微笑むそれは、朴訥(ぼくとつ)で控えめだったおゆうとは思えない、下卑(げび)た笑みだった。

 おゆうの皮を着た化け物は、いやらしい目つきで平二を見つめている。化け物の鼻面が近づくと、獣の臭いが鼻の中に入り込んでくる。その双眸(そうぼう)は変わらず青い光を湛えている。まるで蝋燭(ろうそく)の火のように、ゆらゆらと眼の奥で輝いている。平二はその光に魅せられたように動けない。

 化け物はおゆうの手で、平二の腹に指先を突き立てた。

 鋭い爪が、着ていた野良着もろとも平二の腹を縦に割いた。避けた傷口からぼとぼと音を立てて、血とはらわたが落ちる。

 それでも平二は声が出せない。身を裂かれる痛みにもかかわらず、指一本動かせない。そしてその尖った爪が、今度は右眼にあてがわれた。つぷりと爪が食い込むと、目玉ごと引きぬかれる。ぶちぶちと何かが引きちぎれる音が頭の中で響く。

 動けない平二は、血に濡れた自分の右眼が食われるのを見た。くちゃくちゃと音を立てて咀嚼(そしゃく)するおゆうが、口端から赤い雫を垂らして平二を見下ろしている。

 痛みさえ感じないほどに麻痺した意識の中で、このままなぶり殺しされるのだと諦めた。おゆうの姿をした化け物に、このまま食われて死ぬのだ。

 そう思った刹那、小屋の中に突風が吹いた。化け物は咄嗟(とっさ)に飛び退く。下がった化け物に追いすがる影が見えた。赤く光る双眸と赤銅色に染まった肌。風のように飛び込んできたそれは、化け物を突き飛ばす。

 転げた平二の体は、呪縛から解き放たれた。今まで味わったことのない激烈な痛みが脳天を突き抜けた瞬間、喉の奥から、今までせき止められていた叫び声が飛び出した。肺に残っていた空気と一緒に、全ての叫び声が出し尽くされると、平二はそのまま気を失った。

 

  

 全てを思い出した。腹を割かれ、右眼を食われた。しかし、痛みの無いのはどうしたことだろうか。あれは全て夢だったのか?

『そろそろ、目を覚ましたようだ』

山ン本(さんもと)、これは良くないよ。やめなよ。』

『だが()()が逃げたのは、私の所為だ。』

『だからってさ、『人』を助けるなんて、あたしは納得出来ないよ。』

 遠くから誰か喋る声が聞こえてきた。男が一人、女が一人。

『芭尾はこの男の女房の皮を被って逃げた。いずれ臭いも消えるし、見た目ではもうわからん。』

『山ン本は見たんだろ。なら、あんたが行けばいいじゃないか。』

『儂はこの山を出られん。そのぐらい知っとるだろうが。わしらはこの男に頼るほかない。この男は自分の女房の顔も、芭尾のことも見ておる。』

『でも、死にかけた『人』を助けるなんてさ…。』

『芭尾を追ったものは返り討ちにされた。わしでさえ手こずるのだ。こうなっては、人の手を借りてでも奴を退治せねば…』

『だから、あたしが行くよ。『人』の助けなんていらないよ。』

 女が声を荒げる。

 すると今度は、平二の真上から男の声が降ってきた。

『おい坊主、お前の名は?』

 名前を聞かれても答えられない。声を出そうにも、自分の体があるのかさえわからないのだ。そう考えていると、続けて男の声が聞こえてきた。

『まだ薬が効いておろう。体が自由にならんのなら喋らんでいい。――名は?』

 平二が自分の名前を意識の中で反芻すると、男が答えた。

『ヘイジ…平二か。で、平二よ。お前は芭尾の姿を見たかよ』

(バビ…芭尾ってあの狐の化け物のことか?)

『そうよ、妖狐の芭尾。尾っぽが芭蕉の葉のようだから芭尾という。』

(芭尾…)

『あれはな、逃げ出したところで、おまえさんたちを襲ったんじゃ。』

(逃げた?)

『封印から逃げた。封印したのは儂だ。奴は何百年もかけて封印を解いてしまった。』

(………)

 そこへ先ほどの女の声が聞こえた

『山ン本のせいじゃないよ。運が悪かったんだ。』

 男は女の声を意に介さず、平二に向けて話を続けた。

『平二よ、お前に頼みがある。芭尾を追って、奴を退治して欲しい。』

(どういうことだ)

『あれは、お前の女房の皮を被って逃げた。そうなると、見た目には人間と変わらなくなってしまう。お前の女房の顔を知っているのはお前だけだ。だからお前が行くしかない。』

 あれは夢ではなかったのか。狐の化け物に襲われたのも、おゆうが死んだのも現実か。

『そうだ、全部本当のことだ。お前が女房の仇を討ちたいのなら、飛び出したはらわたも戻してやるし、目ん玉もくれてやる。』

(……やる。俺に芭尾を殺させろ。あれは俺が殺す…)

 その時、女が言った

『目ん玉をやるって、どうするのさ。腹は塞いで縫っちまえばいいだろうけどさ。』

『儂の目ん玉をくれてやる。そうでもしなければ傷は治らんし、芭尾にも敵わん。』

『山ン本、それはだめだ。あたしらが人間を助けたりすることだって、やっちゃいけないんだろ。その上、あんたの目玉をくれてやるなんて。』

『もう決めた。』

 すると平二のまどろんだ意識の中で、どこかにある自分の体に誰かが触れたような、不確かな感覚を覚えた。何か暖かいものが押し当てられる。何かが自分に触れる感覚が近づいてくる。

 平二の右眼あたりに押し当てられたものが、するすると眼孔へと入り込んでいく。すると平二の五感が唐突に回復した。右眼が熱い。燃えるような熱さが、眼の奥から体中を焼き尽くしていく。その熱さが背筋を抜けてつま先まで到達すると、体が汗を吹き出して、手足がばたばたと跳ねるように震え出す。裂かれた腹の痛みが戻ってきた。気を失いそうなほど強烈な痛みと、体中を駆け巡る熱さで、気絶と覚醒を繰り返す。耐え切れないほどの苦痛の連続に、平二は声を上げ続けた。

 平二は左眼を開いた。意識を失いそうな激痛に耐えながら見たのは、厳しい表情をした老人だった。やせ細り、禿げ上がった老人が、片目をつむって見下ろしている。

 老人は手を伸ばして、平二の右の眼の辺りに触れると、まぶたを指で広げた。

 そこには失ったはずの右の眼があった。

 まぶたを開かれた平二は、今度は両眼で老人の姿を見た。

 右の目で見た世界は真っ赤だった。燃える炎のように全てが揺らめいて、はっきりと残像を残さない。左眼で見る世界と、右眼で見える世界は別物だ。右眼に映る老人の顔の輪郭が、徐々にくっきりとしていく。その顔は左眼で見たものとは全く違う。頬は盛り上がり、皮膚はつややかな光沢を放つ。顔は皺一つ無く、張り出た顎には立派な髭がある。そして、顔の真中にある大きな鼻。手で握れそうなほど長く大きな鼻が、まっすぐ平二の顔を見下ろしていた。

 

 ――天狗だ。

 

 平二は、今度こそ完全に気を失った。

 

  

 見慣れない部屋の中で、平二は目を覚ました。

 十畳ほどの広さの部屋の中央には、大きな囲炉裏(いろり)がある。部屋の四方は木戸で遮られていて、家がこの部屋だけでないことがわかる。

 辺りを見回すが人の気配は無い。体は泥に浸かったように重いが、意識ははっきりとしていた。恐るおそる自分の腹に手を触れる。裂かれたはずの腹は塞がっていた。夢を見ていたのかと思ったが、触れた腹にはむごたらしく傷跡が残っている。自分に起こったことが現実であったことに、軽い失望感を覚えながらも、あれだけの怪我が一眠りしただけで回復していることに驚きを感じていた。

 平二は、自分の頭に布が巻かれているのに気づいた。その布は右の眼を隠すように、頭の後ろで結わかれている。それの結び目は固く、簡単には解けそうもない。

 自分の右眼に布の上から触れた。赤く燃えるような光景の中にいた化け物は、聞き知ったままの形相、まさに天狗であった。

 平二は重い体を持ち上げて、ゆっくりと体を起こす。腹は少し痛むが動けなくも無い。

「起きたな」

 背後からの声にびくりとして、平二は振り向いた。そこには、禿げ上がった頭をした老人が胡座を掻いて座っている。左眼で見た老人だ。この老人が、右眼では天狗に見えたのだ。

 平二は何も答えずに、ぼうっとしたまま老人の顔を見ている。老人もまた、平二を見据えたままで何も言わない。

 老人は、黒い眼帯で右眼を覆っている。茶碗の蓋を細工したような眼帯は、老人の禿げあがった頭に紐を食い込ませていた。

 お互いに何も言わずに、そのまま相手を探るように見ている。

 長い沈黙を経て、平二は口を開いた。

「………ここは?」

「山の中だ」

「……この家は?」

「儂の家だ」

 要領を得ない答えにもめげず、平二は質問を続けた。

「…あんたは?」

太秦坊(たいしんぼう)。山の者たちには山ン本と呼ばれる」

「俺はなんでここにいるんだ?」

 その時、女の声が平二を怒鳴りつけた。

「なぜここにいるのですか、だろうが!」

 驚いた平二が声のした方を向くと、すぐ傍に女が座っている。全く気配がなかったのに、いつの間にか正座して座っている。紫の着物に真白い肌、濃く引いた紅が浮いたように唇を目立たせている。女は長く垂らした前髪の隙間から、平二を睨みつけている。

「山ン本と話すときは言葉を選べ。――それとも、選べるほどの学がないか? それなら貴様は用無しだ。大体…」

(えん)()、黙っとけ!」

 太秦坊が一喝すると、円狐と呼ばれた女は口を閉じる。しかし睨むことはやめない。

「平二といったか、お前には、この円狐と共に芭尾を追ってもらう。望み通り、芭尾を殺させてやる」

 平二はその言葉に顔を上げた。

「一体、芭尾ってのは何なんだ? そもそも、お前らは何だ?」

 平二は、一方的に話を進める太秦坊に向かって声を荒げた。すると、円狐が立ち上がって、平二に掴み掛かろうとする。それをまた太秦坊が手を上げて制した。

「『人』であるお前にも理解できるよう、儂の目玉をくれてやった」

 平二は、自分の右眼の辺りに手を触れた。頭半分が布で覆われた平二は、自分の眼がどうなっているのかわからない。首筋辺りにある結び目に手をかけて布を外そうとするが、きつくて外れない。その様子を太秦坊と円狐は黙って見ている。

「円狐」

 太秦坊に呼ばれた円狐が立ち上がって、四苦八苦する平二の頭に手をかけると、乱暴にその布を引っ張った。女の力とは思えない勢いで、平二の体が放り投げられる。

 部屋の隅まで転げた平二が顔を上げると、円狐の手には布が握られていた。

「ほら、右眼を開けて周りをご覧よ」

 平二は上下が張り付いた目蓋を手でこすると、恐るおそる右の眼を開いた。

 右眼で見た光景はやはり赤く、左の眼には映らないものを見せる。部屋の四方を囲む木戸の隙間には、左眼では見えなかったおびただしい数の眼が見えた。それが全て平二の方を向いている。

 恐ろしさのあまり、平二は右眼を手で隠した。

「お前の右眼は、ここにいる山ン本がくれたもんだ。千年生きた天狗の眼だ。『人』のお前にも物怪(もののけ)がよく見えるだろうに」

 啖呵(たんか)を切るような口調で話す円狐は、持っていた布を平二に向けて乱暴に投げつけた。

「山ン本の眼は妖力(ようりょく)がべらぼうに強い。だから、普段はこの布を巻いておきな」

 平二は、目の前に投げられた布を手にとった。眼に当たる辺りに、墨で何かが書いてある。

「それがないと、山ン本の妖力に耐え切れずに死ぬよ。――だから芭尾を見つけるまでは、その布を巻いておくんだ、いいね」

 ふと、平二は顔を上げて右眼を開けた。先程から金切り声を上げている円狐が、一体何なのかが気になったのだ。

 そこに立っていたのは、狐の化け物だった。長い鼻面、上に向かって尖った耳、胸元をはだけた着物の肌は金色の毛で覆われている。――あの時に見たのと同じ化け物だ。

 平二の右眼が、赤黒い光を放ち始める。恐怖と怒り、恐れと憎しみ、感情の高ぶりに伴って、平二の右眼はどんどん光を強くしていく。光の強さと比例して、平二の意識はどんどん遠のいていく。右眼から炎が燃え広がっていくかのように、どんどん体が熱くなる。

「うおおぉぉぉぉぉっ!」

 雄叫びを上げて、平二は円狐に飛びかかった。素早い動きに円狐は避けきれず、平二の右手がその首元を掴む。凄まじい勢いで平二が体をひねると、円狐の体がなぎ倒されて、床に押し付けられた。平二が右眼を開けてから、ほんの一瞬の出来事だった。

 円狐の首を両手で絞めていく平二の顔は、焼けた鉄の如く赤銅色に変わり、大きく開いた口から獣のように舌を出している。だらりと伸びた舌から、円狐の顔に唾液が落ちる。

「ぐっ……」

 呻く円狐が必死に平二を振りほどこうとするが、平二は石のように重く円狐にのしかかり、びくとも動かない。全身が赤銅色になった平二は、大量の汗を体中から滴らせながら、何度も咆哮(ほうこう)を上げた。

 そこへ強烈な突風が横薙ぎに吹いて、平二と円狐を吹き飛ばした。芭尾に襲われたときと同じだ。しかし、今の平二にはそれを知る由もない。

 平二の体は木戸をぶち破り、隣部屋の障子をも突き破って、家の外に放り出された。

 外は雨が降っていた。どんよりと雨雲が陽を遮って、辺りは薄暗い。大した手入れのされていない庭は、雑草が生い茂っている。敷地を囲う塀は無く、庭らしきところからすぐに竹林が続いている。竹林の奥は真っ暗な闇だ。

 平二は竹林を背に立ち上がった。自意識のない平二は、歯を剥きだして向き直る。いつの間にか、平二の目の前には太秦坊が立っていた。

 太秦坊は、平二のみぞおちに掌打を食らわせる。石のように硬くなった平二の皮膚に、太秦坊の平手が食い込んだ。

「この餓鬼が! よくもあたしの顔にっ…!」

 立ち上がった円狐は、太秦坊の一撃で膝をついた平二に詰め寄って行く。その右手には、真っ白い棒状の物が握られている。

 その二尺五寸ほどの長さのそれは、先端に向かって緩く反り尖っていく。刀のようではあるが刃が付いておらず、その刀身は白い。柄尻の辺りには細かい模様が施されている。

 円狐は、剣を片手で構えた。すると青白い火花が散って、刀身に落ちた雨粒を弾き飛ばす。

「円狐、やめんか!」

 太秦坊が語気を強めて言うが円狐は止まらない。うずくまる平二に向かって剣を振り下ろした。

 鈍い音を立てて、剣が平二の肩に食い込んだ。ところが火花を散らしていた刀身は、平二の肩の上でしんと静まり返っている。

「なっ…?」

 円狐が一瞬動きを止めた隙に、平二が腕を伸ばして剣を掴むと、剣ごと円狐を突き飛ばした。家の縁側まで飛ばされた円狐は、先程突き破った障子の上に転げる。

 平二は、徐々に意識を取り戻していた。雨に打たれて体が冷やされたからか、円狐に打たれたせいか。皮膚は徐々に元の色を取り戻し、右眼は光を失っていく。

 転げた円狐に目を向けた平二は、その傍らに太秦坊が立っているのを認めた。そして縁側に並ぶ、おびただしい数の異形の化け物を見た。獣のような毛を全身に蓄えたもの、天井を突き破るほどに大きいもの、胸まで届く程の牙をむきだしたもの、全てのものが平二を見ている。

 抑え切れない恐怖に、平二が悲鳴を上げた。湧き上がる恐怖心とともに、右眼が光を取り戻す。平二は居並ぶ物怪らに背を向けると、脱兎のごとく竹林の中へ駆け込んだ。

 縁側にいた物怪の幾つかが、平二を追おうと庭へ飛び出した。太秦坊がそれを一喝して止める。

「放っておけ!」

 太秦坊は円狐に向き直った。円狐は剣を握ったまま立ち尽くしている。

「山ン本、黙儒(もくじゅ)が…。あの餓鬼、黙儒で打たれても平気だった…」

「……」

 太秦坊は、平二が逃げっていった竹林を振り返った。そこには道はない。生い茂る竹林の中には真っ暗な闇が続いている。

 どうせ林を抜けたところで、人里に戻る場所はない。

 どこまで逃げても、ずうっと闇の中だ。

  次へ
  次へ

天狗の眼(上)   一、天狗の眼  1幕  2幕  3幕