扉が閉まると同時に踵を返した平二は、ミケーレのもとに駆け寄った。胸から大量に血を流しているものの、まだ息はある。

平二は、傷ついたミケーレが着ているキャソックのボタンをはずして、刺されている傷を露わにした。服を脱がすとミケーレが呻く。深く刺された傷から血が湧き出している。幸い急所は外れているが、年老いたミケーレにとっては致命傷も同然だ。傍らに黙儒を置いた平二は、その傷口を覆うように両手を当てた。

「ミケーレ…死ぬな、俺のせいで…。お前は、こんなことで死んだら駄目だ」

大量に血を流したせいか血色も悪い。平二はミケーレの体に手を当てたまま、ネリーナに振り返った。アンドロマリウスの気に当てられたか、崩れ落ちた姿勢のままで固まっている。

「ネリーナ、他の怪我人を確認するんだ!」

ネリーナは平二の言葉に顔を上げるものの、呆然と見つめ返すだけだ。

「ネリーナ!しっかりしろ。救急車なんて呼んでも来ない。俺たち以外にはいないんだ!」

その声で我に返ったネリーナは、頷くとゆっくりと立ち上がった。そのままグレゴリたちのいる地下室の方へと歩いて行く。彼らの手を借りるつもりなのだろう。平二は両手でミケーレの胸を押さえながら、ミケーレの名前を連呼する。

ネリーナに呼ばれたグレゴリたちが地下室から出てきた。扉の向こうにいたアンジェロも一緒だ。皆、倒れた者たちに駆け寄っていく。平二の視界に、先ほどまでバドロルシススに取り憑かれていた男性が立ち上がるのが見えた。ストーラを首に巻いている。あの状態で立てるのなら問題なかろう。

あらかた教会堂にいる者たちの意識が戻ったところで、ネリーナが平二のもとへ来た。

「ヘイジさん、二人も…亡くなっています。その他にコラッツィーニ神父が酷い怪我を…」

「相当に酷いのか?」

「息はあるのですが、手足の骨が折れているようです。気絶したまま、眼を覚ましません」

ネリーナは、ミケーレの胸に乗せた平二の手を見た。先ほどからずっと平二はそうしている。それにしても、その平二の手とミケーレの胸の間から薄ぼんやりと光のようなものが見えるのは気のせいだろうか。不思議な光景にネリーナは眼をこすった。

「あの、ヘイジさんの手が光っているように見えるのですが…?」

「こいつがよく言う霊力というものだ。見るのは初めてか?」

その問いかけに頷いたネリーナに、平二が言葉を続けた。

「霊力、妖力、魔力、他にもいろいろ言い方はあるが、要は生命力だ。腹が減ったらこれも減るし、腹が膨れれば強くもなる」

「…それで今は何を?」

「ミケーレの傷を塞いでいる。俺の霊力で部分的に体の新陳代謝を上げているんだ。――それより何か、枕の変わりになるものはないか?」

ネリーナはあたりを見渡すが、それらしいものはない。自分の上着を脱いだネリーナは、それを丁寧に畳んで手頃な大きさにすると、それをミケーレの後頭部に差し入れる。

「この方がミケーレ・ラブティ神父ですよね」

「ああ、思い出したか?」

「…はい、私を助けてくれたのはこの方です」

「そうか」

平二はネリーナの問いかけに答えるものの、視線を上げようとはしない。その額から玉のような汗が滴り落ちる。幾分呼吸も荒い。

「…先ほどの話は断るつもりですよね」

ミケーレに向いたままの平二に、ネリーナが念押しするように訊いた。

「俺が受けると思うか?」

「ここにいる人たちを救う為に、受けてしまいそうな気がします」

「……」

平二は黙った。ここに残った者たちを救うには、アンドロマリウスを退けるしかない。しかしそれは、先ほどの状況からしても不可能に近い。平二との力の差は歴然としている。ネリーナにもそれはわかるのだろう。

「……へ、平二サン、彼女の言う通りです。絶対にだめですよ」

ミケーレが眼を覚まして、平二を見上げている。

「おい、喋るな。――傷は深いんだ」

「い、いえ……もう大丈夫ですから。それより…聞いてください」

ミケーレは平二の手を持つとそれを押しのける。

「おい、駄目だって…」

「いえ、平二サンのおかげで、もうだいぶ回復しました」

そう言いながら、ミケーレは体を起こす。

「アンドロマリウスはあなたとの約束を守りませんよ、芭尾を裏切ったように」

「聞いていたのか。――わかっている。でも、どうやってあんな化け物を倒すんだ」

「ここには、たくさんの聖職者がいるじゃないですか。それにエクソシストもいます」

ミケーレはネリーナに視線を向けた。

「…ネリーナ、私を覚えているかい?」

嗄れた声で言ったミケーレは、ネリーナに笑いかけた。

「はい、ラブティ神父。――全部わかりました。私が忘れていたことも、そして、見失っていたことも」

「…良かった。では何をすべきか、分かりますね?」

ネリーナはその言葉に強く頷いた。

「平二サン、私の頼もしい後輩が、あなたの力になりますから」

平二は不服そうな表情を隠さず言った。

「いや、奴の狙いは俺だ。他の奴らまで危険な目に合わす訳には…」

ミケーレが首を横に振った。

「相手はキリスト教の流れを汲む悪魔です。彼らは我々を、神を信じる者を恐れる。ここはあなたの出番ではない」

ミケーレはそう言って咳き込んだ。平二が慌てて手を差し出して、前のめりになったミケーレの体を支える。ミケーレが咳をするたびに口腔から血が飛び散る。肺が傷付けられたのだろうか。

「…ゴホッ…とにかく、あなたは何でも一人でやろうと思わないでください。――――それとそこにもう一人私の後輩が…、コールマン神父がいます。彼を元に戻してあげて…ゴホッ、ゴホッ……」

「わかったから、もう休むんだ」

ぜいぜいと荒い息を繰り返すミケーレの背中を支えながら寝かせると、平二は着ていたハーフコートを脱いで、ミケーレの体に掛ける。ミケーレの息が落ち着いてきたのを確かめた平二は、離れた所に横たわったコールマンを見下ろした。

「こいつのせいだ。――こいつが俺たちを地下室に閉じ込めたりしなければ、こんなことには…」

平二は鞄にあったペットボトルを取り出すと、その中身をコールマンの頭に掛ける。涙と(はな)水で汚れた顔が水で洗い流されると、コールマンが意識を取り戻した。

平二は瞼を開いたコールマンの両目を見た。その片方の瞳に、青黒い光が瞬いている。

「こいつ…!」

平二は仰向けのコールマンの胸に飛び乗った。足で両手を押さえつけ、手で頭を挟むように持つ。

「ヘイジさん、やめて!そんなことをしても…」

ネリーナが平二に向けて叫んだ。周りにいた者たちも、様子がおかしいのに気づいて近づいて来る。

「違う!こいつ、芭尾に操られてやがる」

「どういうことですか?なんで…」

「知るか、それよりこいつを元に戻すから、周りの連中を下がらせろ!」

意識を取り戻したコールマンが唸り声を上げて暴れ出した。それを見た周りの修道士や神父たちが騒ぎ出す。状況のわからない者には、コールマンが平二と争っているようにしか見えないのだろう。

「おいストランデット、コールマン神父から離れろ!」

コールマンと共に来たエクソシストの一人が声を上げた。それに呼応するように、平二を止めようと皆が集まってくる。ネリーナが制止するものの、皆聞く耳を持とうとはしない。

そこへグレゴリもやってきた。

「ネリーナ!一体どうしたんだ」

「コールマン神父が魔物に操られているって。それでヘイジさんが…」

一人の修道士が、平二に掴みかかってコールマンから引きはがそうとする。ネリーナがそれを止めようとするより先に、グレゴリが割って入った。すると今度は、他の者がグレゴリを止めようとする。

どうにもならない状況にネリーナが叫んだ。。

「ヘイジさんはコールマン神父を助けようとしてるのよ!お願いだから、彼をそんなふうに呼ばないで!私たちだって彼に助けてもらったのに!」

教会堂中に響きわたる甲高い叫びに、そこにいた全員が固まった。そのままネリーナは両手を大きく広げて、平二を守るように立つ。その様子に圧倒されたか、もう誰も手を出そうとしない

静まった中で、平二が声を上げた。

「ネリーナ、一緒にこいつの頭を押さえてくれ。頼む」

暴れるコールマンは、首を左右に振っている。ネリーナはコールマンの頭上に座ると、その頭を両手で押さえた。

平二はコールマンの双眸を除きこんだ。光が見えるのは右側の眼だけだ。光のない方は瞳の色が濁っている。よく見ると、目玉の上に何かが被さっているのがわかる。

「コンタクトレンズを付けてやがる。まさか、この程度のことでごまかされるとは思わなんだ。――ネリーナ、こいつを外すから、頭をしっかり押さえてくれ」

平二は人差し指でコールマンの目玉に乗ったレンズにそうっと触れると、ずらすように横へ指を動かた。目の端に寄って、少し浮き上がったレンズをつまんで持ち上げる。

レンズの下から出てきた瞳には、やはり青黒い光が見えている。

「ヘイジさん、コールマン神父の眼が…」

「芭尾の瞳術にやられると、こうなるんだ。心の奥に踏み込まれて、意思もなにも乗っ取られる」

先ほどミケーレが、コールマンを元に戻せと言っていていたのは、これのことだろう。

平二は、先ほどバドロルシススを倒す時に使った数珠を取り出すと、それを手に巻きつけた。数珠を握りしめた手をコールマンの額に押し付けると、もごもごと経文を唱え始める。

平二が唱えるのは、陀羅尼と呼ばれる経文で、サンスクリット語で書かれた仏典の原文を音写したものだ。神仏に対して、癒しや救いを懇願するために唱えるものだが、平二が唱えることで、霊的な術を打ち消す効果を発揮する。それに、芭尾は日本の物怪だ。その術を打ち消すのに効果があるのは、やはり日本の仏教や神道になる。

経文を唱えるに連れて、平二の右眼の光が強くなっていく。それに反比例して、コールマンの眼の光が徐々に薄らいでいく。

コールマンの眼の光が完全に消え去ると、平二は手を降ろした。尻の下にいるコールマンは、ぼうっと平二の顔を見上げている。

平二はコールマンの上から降りると、傍らに腰を下ろした。

「コールマン、気分はどうだ?」

「……」

やはり、ぼうっとしたままで平二を見つめているコールマンは、何が起きたのかわからないという顔をしている。

「時間がないから手短に言うぞ。お前は芭尾に操られていたんだ。しかもご丁寧に、こんなものまで付けて、俺に気付かれないようにしていた」

平二は、手の平に乗せたコンタクトレンズをコールマンに見せた。

「まさか、こんなもので俺の眼が誤魔化されるなんてな」

コールマンが着けていたのは、カラーコンタクトレンズと呼ばれる類のものだ。瞳の色を変える為に使うが、本来は視野を確保するために、中央部分が透明になっている。しかしコールマンが付けていたものは、瞳の中が見えないように全体が濃く青に色付いている。これでは、ほとんど見えていなかっただろう。

コールマンはそれを平二の手から取り上げると、力強く握りしめる。

「……私は、一体何をした?」

「わからん。思い出したら教えてくれ。操られていた間の記憶はあるだろう?」

コールマンは眼をつむると、その場で涙を流し始めた。何かに必死で耐えるように、歯を食いしばっている。

「コールマン神父…」

口を開きかけたネリーナの肩に平二が手を置いた。何も言うなということだろう。平二に振り返ったネリーナはそのまま口をつぐんだ。

コールマンはいつから芭尾に操られていたのだろうか。彼は随分前からストランデットを嫌い、異教徒の助けなど必要ないと訴えていた。ネリーナが彼に師事していた頃には、事ある毎に、それを口にしていた気がする。それが、日本から来た魔物に操られ、目の仇にしていたストランデットの平二に助けられた。それは一言で言い表せぬほどの心情なはずだ。下手な同情も、ましてや慰めなど彼を傷つけるだけだ。

必死で嗚咽を押し戻すように深く深呼吸したコールマンは、体を起こすと平二に向き直った。

「……操られて、ラブティ神父の居場所を捜した。IEAが解体されるよう仕向けた。芭尾に関する資料も相当処分してしまった。――他にいくつも、芭尾や悪魔に利することをしてしまった」

「いつからだ?」

「良くは覚えていないが、多分、半年ほど前からだと思う。――その頃からの記憶がばらばらだ」

「なら、バチカンで芭尾の居場所を知っていると言ったのは?」

「…君を焦らせて、陥れるための嘘だ。そう言わされた」

コールマンは俯くと、また嗚咽を漏らし始める。這いずるようにして、横たわったミケーレの傍らに来ると、その場で跪いた

「本当に…申し訳ない。私の…せいで…」

荒い息を繰り返すミケーレは、コールマンに言った。

「…あなたのせいではありません。心の弱い部分を芭尾に利用されてしまった。それは残念ですが、でも、もう済んだことです」

コールマンはその言葉に唇を噛んだ。

「今は悪魔を退ける為に、力を合わせましょう」

「しかし…、私は芭尾に操られるような弱い人間です」

「あなたの力も必要です、コールマン神父……ゴホッ、ゴホッ…」

咳で咽たミケーレは、胸を押さえながら荒い呼吸を繰り返す。しばらくして落ち着きを取り戻したミケーレはコールマンに微笑んだ。コールマンもそれに応えるように頷く。

振り向いたコールマンは、平二に向かって口を開いた。

「君にも…申し訳のないことをした。本当にすまない」

「……ミケーレが構わんなら、いいさ」

平二は持ってきた自分のボストンバックから白い儀礼服を取り出した。

「今はとにかく緊急事態だ。多少体は辛いだろうが、無理をしてもらう」

取り出した儀礼服を、コールマンへ差し出した。

「ヨハネ・パウロ一世のものだ。これはあんたに預けておく。汚すなよ。――それとネリーナは、あっちの男性が首に巻いていたストーラを付けてくれ。――それだけ付けていれば、まずアンドロマリウスは、お前たちに手出しできない…と思う」

平二はグレゴリに振り向いた。

「持ってきたルルドの泉の水を、ここにいる皆に配ってくれ。一人一つだ。余った分は、コールマンとネリーナに渡してくれ」

グレゴリは「おう」と答えると、ペットボトルの詰まった箱を取りに走る。

「それと…」

平二は教会堂の扉に目をやった。そこへ近づいていくと、扉に触れる。扉に付いた取っ手を動かすが、びくとも動かない。やっと地下室から出られたと思えば、また閉じ込められた。扉に耳を当てても外の様子は全く聞こえない。まるで無音だ。扉が分厚いせいだけではないだろう。何かの力で、この教会堂は外と隔絶されているのかもしれない。

「ネリーナ、扉の前に長椅子を積み上げるよう皆に言ってくれ。できるだけ時間を稼ぎたい」

ネリーナが声を掛けると、ぼうっと見守っていた修道士や神父たちが次つぎに動き出す。そんな中で、コールマンが平二に近づいて来た。

「少しいいだろうか?ミスター・イノウ」

かしこまった様子で言うコールマンに、平二が答える。

「ヘイジでいいよ。――なんだ?」

コールマンは手に持った布包みを取り出すと、それを平二の前で広げていく。

「これが使えないだろうか。――ロンギヌスの槍…その欠片だ」

ベルベット調の光沢のある紫の布を広げると、コールマンは明らかに古そうな鉄の欠片を取り出した。平二は「いいか?」と訊くと、それを片手で取り上げる。何度か裏返して、その欠片をまじまじと見る。

「……コールマン、残念だがこれは偽物だ。古いものだが、ほとんど霊的なものが感じられない」

間違いない。ムィシュコーのところで見た物とは明らかに違う。

「これをどこで手に入れた?」

「良くは覚えていない。誰かから受け取ったのは間違いないのだが…」

マイケル・コールマンが芭尾に籠絡されたきっかけは、多分これだ。聖職者がそう簡単に魔物に操られることはない。生活上の欲を極力排除し、清貧な暮らしを是とする者たちには、およそ付け入る隙がないからだ。

それでもコールマンほどの者が芭尾の瞳術にかかったのは、このロンギヌスの槍という、目に見える力への欲求に付け入られたのだろう。コールマンは、平二のようなストランデットに対して強い嫌悪感を抱いていた。それはストランデットの持つ端的な力への嫉妬の裏返しだったのであろう。それが芭尾に見抜かれ、この聖遺物の偽物で浮き彫りにされたのだ。

「全く…情けない。私は偽物を振りかざして、まやかしの力に酔っていたのか」

コールマンは歯を食いしばって、込み上げる悔しさに耐えている。

「そう悲観するな。聖遺物の偽物なんて珍しいものじゃない」

「だが私は無力だ。君のような力はない。どうやってあの悪魔らに対抗したらいい?」

「……なあ、イエス・キリストは、悪魔と戦うために地上に降りてきたわけじゃないだろう?」

平二は落ち着いた声でそう言うと、コールマンを見据えた。その言葉に少々むっとした様子でコールマンが答える。

「当たり前だ。イエスは人々に救いを与える為に我々の前に現れた。悪魔を退けようとも、それは人々を救うためにされたことだ。その偉大な力は…」

そこまで言って、コールマンは何かに気付いたようにはっとした顔を見せる。

平二はその表情を見て微笑んだ。

「ああ……、そうだ。私はなんて愚かだったんだ。――私は信仰の力を戦う武器のように考えていたのか。違う、違うじゃないか」

「俺が聖遺物を使うのは、信仰心がないからさ。それなしじゃ神の力を借りられない。――だけど、あんたらは違うだろ」

コールマンはまた涙を流し始めた。しかしそれはもう先ほどまでの苦悩に満ちた涙ではないだろう。

心の奥に巣くった嫉妬心を見抜かれて、芭尾の術中に落ちた。しかしコールマンは元々敬虔な聖職者であり、IEAのエクソシストだ。ネリーナも言っていたように、力と才能もある。こうしてまた自分が縋るべきものの本質に気付けば、何度でもやり直せるはずだ。

「ヘイジ、君のような若者に諭されるとは思いもしなかった」

「ミケーレの受け売りだ。それとお前、俺のことも調べたんだろう?俺の歳がいくつか思い出せ」

「…そうだった、君は私の祖父より年上だったな」

その言葉に平二が笑う。するとコールマンは笑顔を浮かべたものの、すぐにその場で泣き崩れた。平二はその傍らに座り込んで、コールマンの肩に手を掛けた。そのまま嗚咽するコールマンを、平二はじっと見守った。周りにいる者たちは、遠巻きにしながらその様子を見ている。

いつの間にか扉の前には長椅子が積みあがっていた。内側に開く扉なので、もう人の手では開くことはできないだろう。その椅子の山を見ながら、平二はコールマンに言った。

「コールマン、一つ頼まれてくれないか」

 

サンタ・カーザ神殿の教会堂から離れたアンドロマリウスは、マドンナ広場にある噴水の縁に腰かけた。芭尾は地べたにうつ伏せで寝そべったままで動けない。体に巻き付いた蛇がぎりぎりと芭尾を締め上げる。漏れてくるうめき声を聞いたアンドロマリウスは、その様子を見て蔑んだように薄笑いを浮かべた。

「貴様、裏切るのか!」

芭尾がアンドロマリウスを見上げるように顔を上げた。恨み言を吐いた口を歪ませると唾を吐く。アンドロマリウスは、足元に唾を掛けられたのも構わず平然としている。

「おい、綺麗ごとを言うなよ。俺を利用するために呼び出したのはお前だ」

「契約はどうした。まだ何も履行されていないぞ」

「そうだな、その通りだ。しかしバドロルシススはあっさりと負けてしまった。全く、期待値にも届かなかったぞ」

「あれは貴様が、何度も平二の奴に見せたからだ。あれだけ見せれば対策ぐらいされて当然だ」

アンドロマリウスは芭尾に顔を寄せると、説き伏せるようにゆっくりと喋った。

「それじゃあ、駄目だ。――お前の知識と技術なら、国、地域、宗教を問わず、あらゆる相手の攻撃が効かない魔物を作れるということだったろう?」

「それはバドロルシススのことじゃない。全て契約どおりにすれば、それを作る方法をくれてやると言ったはずだ。」

「いや、もう必要ない。ヘイジの方がいい。――人間と魔物の融合だ。結果的に我々の求めるものを奴は兼ね備えている」

アンドロマリウスは芭尾に向けて口を開けると、長く赤い舌を出した。それは人のそれとは違って先が割れている。まるで蛇の舌だ。その舌先が伸びて、芭尾の顔に触れた。

「我々は、かなり前から人間と魔物の融合体を作ろうとしていたのさ。お前に出会うずうっと前からだ。錬金術における人造人間のホムンクルスも、そもそもは我々のそうした探究から生まれたものを、人が進化させたものだ。お前が提供してくれた外法とかいう東洋の技術は、大変興味深かった。我々とは全く違うアプローチで魔物を作り出すプロセスは、大いに参考になったよ。しかし、参考にはなったが結果が伴わない。バドロルシススは呆気なくやられてしまった。あれでは何の役にも立たん」

アンドロマリウスは、芭尾を見下ろしながら小ばかにしたように鼻で笑う。それに向けて、芭尾はまた唾を吐きかけた。その飛沫を顔に受けたアンドロマリウスは、両手で顔を拭う。

「あまり、汚いことはするな。下品な女はイタリア男でも嫌うぞ」

そう言って立ち上がると、アンドロマリウスは芭尾の頭を踏みつけた。

「とにかくお前は用済みだ。悪いが、最後に景品として役立ってくれ」

芭尾は踏みしだかれたまま、黙って聞いている。

「おい、もう恨み言はないのか?」

冷たい視線で見下ろしながら、アンドロマリウスは足をひねった。ごりっという音をさせて、芭尾の頭が石畳に擦られる。

「……アンドロマリウスよ、『金枝篇』という本を知っているか?」

「さあ、知らんな」

「十九世紀末に、ジェイムス・フレイザーというイギリス人が書いた本だ。世界中の風俗、風習、特に魔術や呪術に関して解説をしている」

足の下で話す芭尾の声はくぐもって聞こえづらい。

アンドロマリウスは芭尾の話に興味を持ったのか、足を降ろした。芭尾が顔を上げると、その額は割れて、血が滲んでいる。

「話を続けろ」

「…その本には、面白い記述があってな。『神殺し』という風習だ。特にどこと言う訳でなく、似たような話が世界中にある。――ある者を神に仕立てて、皆で殺してその肉を喰う。祭司や神の権化たる存在を殺し、その体の一部を喰って、その者になり変わる」

「それが、どうした?」

「ここまで言ってもわからないのか?だから貴様らは、バドロルシスス程度のものも作れないんだ」

腕組みをして話を聞いていたアンドロマリウスは、バビの言葉に舌打ちを返した。芭尾が何を言わんとするのかが分からない。回りくどい物言いに苛ついたアンドロマリウスは、薄ら笑いを浮かべる芭尾の首元を掴んで引き上げた。

「獣野郎が!だから、どうしたと訊いているだろうに」

アンドロマリウスを目の前にした芭尾が、唾を吐こうと口をすぼめる。すると、その両頬を強く締め付けるように手で押さえられた。芭尾の顔が歪み、すぼめていた口がだらしなく開くと、引き攣った口の端から、アンドロマリウスの手に涎が垂れる。

「あまり汚いことをするなと言ったはずだが」

アンドロマリウスは、芭尾の両頬を押さえた右手に力を入れる。ぎりぎりと締め付ける指が頬に食い込むと、その痛みで芭尾が呻いた。

「フッヒヒヒヒヒヒ…いいざまだな、芭尾よ。その醜い面構えは、まったく悪魔からしても不快だ。――俺のような三千年生きた悪魔が、貴様のような畜生と取引すると、本気で思って………」

その時、下卑た笑みを浮かべるアンドロマリウスに向かって、半開きになった芭尾の口から何かが飛んだ。黒くて長い蚯蚓(みみず)のようなもの、巫蟲だ。

数匹の巫蟲はアンドロマリウスの顔を這いまわって、鼻や口から体内に侵入しようとする。アンドロマリウスは慌てて芭尾を突き飛ばすと、自分の顔に纏わり付いた巫蟲を引き剥がす。しかし一匹、鼻から体内に潜り込んだ。

「何だこれは?」

「前に見せてやっただろう?巫蟲だよ。そいつは人だけでなく魔物も喰う」

アンドロマリウスは、喉元に違和感を覚えて首を掻いた。その感触は、喉から胸を伝って、腹に落ちる。体内に入った巫蟲には、手の下し様がない。しきりに吐き出そうとえずくものの、出てくるのは唾液だけだ。

「妖力がなくて、作るのに苦労した。だが、その分しっかり貴様を食うよう躾けてある。――さあ、もうそろそろお前の中身を喰いだす頃だ」

「このっ…!」

上気した顔のアンドロマリウスは、転がっていた芭尾の頭を思い切り蹴り上げた。その一撃で芭尾が十メートル近くも飛んだ。その体は広場を囲む建物の壁に打ちつけられる。

巻き付いていた蛇が、頭をもたげて芭尾に噛みついた。それは蛇とは思えないほどの力で、芭尾の肉を引きちぎっていく。

アンドロマリウスは腹部に自分の手を突っ込んだ。皮膚と肉が破れて、体の中に手がめり込んでいく。それが引き抜かれると、その手一杯に巫蟲が握られていた。

蛇は芭尾を絞めつけたまま、放そうとはしない。蛇に噛まれれながら、芭尾は体中から血を噴き出させている。

痛みに耐えながら壁にもたれかかると、芭尾はそれを支えに立ち上がった。視線の先には、体中に穴を開けて、巫蟲を引きずり出しているアンドロマリウスがいる。蛇が肉を引きちぎっていくのにも構わず、芭尾はアンドロマリウスへと近づいて行く。

アンドロマリウスが自ら開けた体の穴から巫蟲がこぼれ落ちる。それを見た芭尾が言った。

「さすがに餌が伝説級だと、増えるのも相当に早い」

芭尾は狼狽えるアンドロマリウスの顔に向けて、大きく口を開いた。頬の皮膚まで破れる程大きく裂けた口で、アンドロマリウスの顔に噛り付く。上下の歯で、アンドロマリウスの顔の肉をこそげ取るようにすると、咀嚼もせずに飲み込んだ。

一瞬の出来事で抵抗もできなかったアンドロマリウスは、その場に崩れ落ちた。

芭尾は自分に巻き付く蛇を引きちぎると、その破片を石畳の上に放り投げる。アンドロマリウスの頭に再び噛りついた芭尾は、今度は口の中の肉をゆっくり咀嚼して、味わうように食べた。

「さっきの話の続きだが、『神殺し』というのは、神を食べることでその力を自分に取り込むことさ。私が貴様を喰えば、貴様の力が私のものになる。一度試してみたかったが、なかなか機会がなかった。――もともと貴様を呼び出したのも、喰うためだったんだがね」

芭尾は話しながら、アンドロマリウスの肉を引きちぎっては喰らっていく。

「刺さったままの刃のせいで体は弱り、妖力も常に枯渇していた。おかげで、すぐには手出しが出来なかった。――でも、こうして準備をしてきた甲斐はあったよ」

巫蟲は、アンドロマリウスの体を喰らうことで、凄まじい勢いで増えていく、既に増えすぎて、体の外へ漏れ出てきているほどだ。

芭尾はアンドロマリウスの胸の上に手を置くと,力を込めた。すると巫蟲が押し出されるようにアンドロマリウスの体中の穴から外へ這い出ていく。

無残に喰われたアンドロマリウスの体は、既に全身血だらけだ。所々に穴が開いて、内臓も露出している。それでもまだ息がある。呼吸に合わせて胸が上下し、あばら骨の隙間から覗く内臓が、震える様に蠢いている。

芭尾はアンドロマリウスの顔に手を伸ばすと、その眼に爪を突き立てた。爪が食い込んだ眼球から、透明な液体が流れ出す。ぶちぶちと音をさせて、それをつまむように引き出す。眼孔から取り出したアンドロマリウスの眼を舌先で一舐めすると、芭尾は言った。

「この今の私こそが、お前らが求めていた結果だ。物怪が悪魔を喰らい、両者を超越した存在になる。こうやって色々な種を取り込んでいけば、いずれ私に手出しできるものはいなくなる。平二でさえ、もう私には敵わない。――とはいえ、もう聞こえていないだろうねぇ」

既に血だるまになったアンドロマリウスの体を撫でながら、芭尾は目玉を口に入れた。咀嚼すると、口腔内に甘露のごとき味が拡がっていく。『人』のものに比べてずっとその味は濃い。咀嚼した歯触りは軽く、あっさりと噛み切れる。噛み切った目玉の破片は舌の上を軽やかに流れ、喉を潤しながら腹の中へと落ちていく。芭尾はその何とも言えぬ味わいと喉ごしに夢中になった。

もう一つの目玉に手を伸ばす頃には、芭尾の体にあった傷は完全に癒えていた、先程つけられた額の傷も消え、噛み切られたところも肉が再生して傷が塞がっている。そして、顔と頭の皮膚も再生し、徐々に百五十年前の姿を取り戻していく。

芭尾は教会堂の方を振り向いた。あの中には、稲生平二とミケーレ・ラブティがいる。手に持った眼玉をなめまわしながら、芭尾は元通りなった口で笑みを浮かべた。

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