平二たちが入っていった地下房室への入り口は、頑丈そうなドアの向こうに、梯子のように急な階段が真下へ伸びている。降り切ったところに電灯があるのか、奥底から光が漏れてくる。階段に沿って据えられた手すりを持って下がっていくと、煉瓦だった壁が岩肌に変わった。この地下室は、元から丘の上にあった岩を利用して作られたのだろう。

階段を降りるとまた扉がある。階段の入り口と同じく頑丈そうな木製の扉だ。周りが鉄製の枠で囲われている扉には、大ぶりな鉄の(かんぬき)が真横に通してある。扉の外側に閂が付いているということは、この扉は中に人を閉じ込めるためのものだろう。平二は鉄製の閂に手をかけて扉を開けようとするが、ビクとも動かない。

「ちょっと貸してみな、こうやるんだ」

グレゴリが閂の影に隠れた小さな取っ手に手を伸ばし、押し上げながら横にスライドさせる。すると扉が軋んだ音を立てながら開いた。

「扉の中にも太い閂があるんだ。開けるのにコツがいる」

グレゴリは開いた分厚い扉の側面を「ほら」と言って指差した。そこには大人の腕ほど太い木片が伸びており、すり切れた跡が黒く変色している。この扉自体が相当な年代物の証だ。

中は岩壁の狭い通路が奥へと伸びており、その左右には木製の扉がいくつも並んでいる。電灯が点いてはいるものの、申し訳程度の明るさしかないので薄暗い。

「相変わらずカビ臭いところだ。ここは昔の修道士が籠もったりするための部屋だったそうだ。俺たちは『勉強室』って呼んでいた。ここに閉じ込められて電気を消されると、もう怖くてさ」

グレゴリが話す声が地下室の中で反響する。すると奥のほうの部屋から、ベリンチョーニが顔を出した。

「先生!迎えに来た。聞いただろ、もうすぐここに悪魔が来るって。――丘の下の方じゃ、蛇がウジャウジャ出てきたり、車がひっくり返ったりで大騒ぎだ」

ベリンチョーニは、興奮気味でまくし立てるグレゴリの傍らに立つ平二を認めた。

「ヘイジ!大怪我をしたはずなのに、なぜここにいるんだ?」

ベリンチョーニは驚いた様子で平二の姿を見ている。

「どうも医者の見立てが大袈裟だったようで。お陰様で戻って来られました」

「そうか…、それは良かった。――しかしグレゴリ、ここには戻るなと言っただろうに」

「ネリーナに電話しても通じないし。とにかく心配なんだって。意地はらないで一緒に逃げよう」

「ベリンチョーニさんも、ネリーナから聞いているでしょう?今朝、私たちが相手をした悪魔が、あと三十分足らずでここへ来るはずです。奴らの目的は私とミケーレだけだ。だからできるだけ大勢を連れて、ここから降りてください」

「ああ、聞いている。ラブティ神父が来なければ、我々を殺すという話だろう。――コラッツィーニ神父はなんと言っている?」

平二は首を横に降った。

「聖秘跡省の指示に従うそうです。今、ミケーレが説得していますが、どうかあなたからも、彼と彼に従って残っている人たちを説得してください。あなたはここから一人でも多くの人間を連れてこの丘から降りるんだ」

「しかし…」

「意固地になってリスクを負う必要はない。あなたはここの修道院長だ。あなたが降りれば一緒に従って付いて来る者もいるでしょう。それにあなたがいると、グレゴリやネリーナも避難してくれない」

説得する平二の言葉に、ベリンチョーニは沈黙を返した。

ベリンチョーニは、経験の浅い者たちだけでも避難させるよう主張した。しかしコラッツィーニは反対し、また若い修道士、修道女たちもベリンチョーニが残るなら自分らも引かぬと言う。その場の雰囲気に流されて、結局サンタ・カーザ神殿にいる聖職者全員がここに残ることになってしまった。しかし平二の言う通り、まだ間に合うかもしれない、自分が降りると言えば――。

「わかった。もう一度コラッツィーニ神父と話しをしよう。わたしもここを出る。」

「もう時間がない、すぐに上に…」

その時、扉の軋む音とともに声が響いた。

「コールマン神父の命令です!あなた方はここにいてください!」

コールマンに指示されたアンジェロが、階段下の扉前にいる。彼が扉を力いっぱい引くと、扉は重たい音を響かせて閉じてしまった。

「おい、ちょっと待て!」

グレゴリが慌てて扉の方へ走るが遅かった。扉に触れる前に、(かんぬき)が扉を封じた音が聞こえる。グレゴリが扉を叩くが、答えは返ってこない。

扉を強く蹴飛ばしたグレゴリは「畜生!」叫んだ。

平二も慌てて扉に走り寄る。

「この扉は中から開かないのか?」

閉じた扉の前で愚痴るグレゴリの代わりに、歩み寄ってきたベリンチョーニが答えた。

「残念だが、中から開く方法は無い。まさか…こんなことになろうとは」

平二は扉を隈無(くまな)く見回した。扉を支える蝶番は鋼鉄製で、岩壁に太い釘で固定されている。扉の方も鉄の枠でしっかりと補強されていて、一見して中から開けたり、扉を外せるような箇所は見当たらない。

すると足元の方で影が動いた。扉の下に空いた隙間から、向こう側にいる者の影が見えている。扉を閉めた人物はまだそこにいる。平二は慌てて扉を叩いた。

「おい、そこにいるんだろう?返事をしてくれ!」

平二が扉を叩き続けるものの、扉の向こうから反応はない。

「いいか、悪魔と一緒に日本の魔物…物怪の芭尾が来る。そいつにはお前たちのすることは通じないんだ。このまま俺を閉じ込めておけば、お前たち全員殺されるぞ!」

平二の訴える声が暗い地下室の中に響く。すると、扉の向こうから声が返ってきた。

「…心配いりません。私たちにはロンギヌスの槍があります」

「……槍?」

「そうです。コールマン神父は、ロンギヌスの槍を持っています。それがあれば、我々は何者にも害されることはない」

平二はその言葉を聞いて唾を飲み込んだ。確かに聖遺物の中で、ロンギヌスの槍は最強の部類に入る品だ。その力があれば、芭尾のようなキリスト教に頓着しない物怪でも攻撃できるかもしれない。しかしそれは槍が本物であればの話だ。

ロンギヌスの槍は中世の頃から多くの偽物が氾濫している。寄進を募ろうと教会がでっち上げた、あるいは詐欺師が教会関係者を騙すためにそれらしく作ったものが巷に数多く出回ったのだ。

現在、槍は世界に三本存在している。一本はオーストリアの博物館が所蔵し、もう一本は北欧にある教会に、残る一本はバチカンの聖遺物保管庫に眠っている。バチカンの所蔵している槍は非公開とされており、年代検査などは行われていない。しかし別の2本との比較から、その形状がもっとも当時のローマ兵が持つ槍の形状に近く、本物である可能性が高いと言われている。

バチカンが所蔵するロンギヌスの槍の扱いは厳重かつ慎重だ。一介の神父が簡単に持ち出せるような品ではない。

「コールマンがなんで槍を持ち出せるんだ?あれはバチカンで厳重に保管されているはずだ」

「だからコールマン神父が持っているのは、その欠片です。バチカンにある槍から欠けた先端だけです。行方知れずであったものが我々のもとに返ってきた。だから、もうあなたの助けは…」

「…ちょっと待て。その欠片だが、俺はそれの在りかを知っているぞ」。

扉の向こうで話していたアンジェロを遮って、平二が声を上げた。

「槍の先端の欠片のことだろう?あれはバチカンの…、IEAの地下にある。ボロシェンコ神父が持っているはずだ」

平二も一度だけだが、それをムィシュコーの地下資料室で見た。フランス革命の混乱の最中に紛失されたロンギヌスの槍の欠片は、紆余屈折を経てムィシュコー・ボロシェンコの元に来たのだ。何度か貸してくれるよう強請(ねだ)ったが、「これだけはだめだ」と言って、どこかに隠してしまった。さすがに直接イエス・キリストに関わる品は簡単には貸してくれない。

平二が仮にカソリックに改宗したとしても、持ち出すことは絶対にさせないと言っていた。まさかコールマンが、ムィシュコーから借り受けたとは思えない。

「なんで…、なんでストランデットのあなたがそんなことを知ってるんです?」

アンジェロはそう叫ぶと、扉を強く叩いた。

「神の力は如何なるものにも通じるのです!コールマン神父は、槍の力で蛇の群れを退けた。あなたは嘘を付いている。私を騙して陥れるつもりだ!」

そう言ってアンジェロは口をつぐんだ。平二は必死に呼びかけるものの、それきり何も返答はない。やはりストランデットである自分では駄目だ。相手は端から話を聞く気ではない。それならば――。

平二は「糞っ」と小さくつぶやくと、ベリンチョーニに振り向いた。

「……ベリンチョーニさん、ネリーナは?」

「ああ、この奥の房で中から鍵をかけて閉じ籠もっとる。中からは祈りの声しか聞こえんよ」

不安そうな表情を浮かべながら、ベリンチョーニは通路の奥の扉を指差した。

「そうですか。――――彼女と話せますか?」

「扉越しに声をかければ聞こえるはずだ」

ベリンチョーニが扉に向かって歩いて行くと、平二はそれに続く。

平二はベリンチョーニが示した扉に耳を当てた。扉の向こうから、祈りの言葉を唱えるネリーナの微かな声が聞こえてくる。

「ネリーナ、平二だ。聞こえるか」

そう言うと平二は、また扉に耳を当てる。祈りの声は聞こえない。しばらく待つと中から小さな声が聞こえた。

「ヘイジさん、無事なのですか?大怪我をしたと聞いたのに…」

「ああ、ストランデットは怪しい術を使うんだ。まだ少し痛いが、もう平気だ」

「……冗談はやめて下さい。でも本当にもう回復しているなんて」

「本当さ、ここにグレゴリもいる。あいつもお前が心配で来てしまった。――もうすぐ、アンドロマリウスがここに来る。それまでに残った連中を連れて、神殿から離れるんだ」

「………申し訳ありません。私のせいでヘイジさんに大怪我をさせてしまった。全て私が未熟なせいです。バドロルシススはまだ私の中にいます。どうか二人には、心配しない様に伝えてください。悪魔に憑かれたまま、ここを出ることはできません。また誰かを傷つけてしまう」

「グレゴリはお前を置いてここを出ようとはしない。それにコールマンの手下に、外の扉を閉じられてしまった。ストランデットの話は信用できないらしい。だから、お前がそいつを説得してくれ」

「……」

ネリーナの返事はない。平二はそのまま話を続けた。

「お前はエクソシストだ。ここにいる人たちを助けることが、今の俺達が為すべきことじゃないのか?それともここに籠ったままで、みんなが悪魔に襲われるのを見過ごすつもりか?」

平二はしばらくネリーナが答えるを待った。

ネリーナは真っ暗な房の中で平二の声を聞いていた。今朝、この房に入ってから一度も電灯をつけていない。扉の隙間から漏れる微かな光が足元を照らしている。房と言っても、ここは使われなくなって久しい。雑多な品を保管する納戸として、または資料庫として使っている房もある。ネリーナが入った房には、沢山の椅子が積み重なって置いてあった。大きな行事の時に老人用に出す椅子だ。木製で硬いせいか、老人たちにはすこぶる評判が悪かった。そのため、もうずっとこの地下室に放り込まれたままだ。ネリーナはその内の一つに腰をかけて、ずっと祈りの言葉を唱えていた。

フィレンツェでは悪魔の気配すら感じられなかった。平二に助けられ、結局何も出来なかった。ロレートに来るまで悪魔に取り憑かれていたことにも気づかなかったばかりか、操られて平二に大怪我をさせてしまった。挙句にグレゴリやベリンチョーニまで巻き込んだ。

「ヘイジさん、どうか私を置いて行ってください。これ以上皆に迷惑をかける訳にはいきません」

「だから言っているだろう、お前なしでは皆ここを動かないんだ」

「私は外へは出て行けません。きっとまた悪魔に操られます。――ごめんなさい、ごめんなさい…」

何度も謝罪の言葉を繰り返すと、ネリーナはまた口を閉じた。

返事のない扉の前で途方に暮れた平二は、後ろに立って話を聞いていたグレゴリに振り向いた。

「グレゴリ、お前がネリーナを説得しろ」

「えっ?でも俺はエクソシストのことはわからんし…」

「ベリンチョーニさんは、俺たちが来るまでに散々説得したし、そして俺もだめだった。あとはおまえしか残っていない。――時間がない、急いでくれ」

「でも…」

「お前が思うままを伝えればいい。今あいつを一番想っているのはお前の筈だ」

平二はグレゴリの肩を叩いた。渋々と前に出たグレゴリは、ネリーナのいる房のドアの前に立つ。

グレゴリはじっとネリーナがいる房室のドアを見つめた。

今までネリーナは、グレゴリが悪魔やエクソシズムに関わることに強く反対してきた。それはきっと、グレゴリを巻き込みたくない一心だったのだろうと思う。だがグレゴリにとっては、ネリーナが自分を遠ざけているようで、寂しく感じることもあった。

ネリーナを追ってフィレンツェまで行った。ネリーナがIEAのエクソシストになって、フィレンツェからいなくなっても、宿を提供することで接点を保とうと必死だった。そんな自分の気持ちにネリーナは気付いていたと思う。そう思いながらも、ネリーナとの接点を失うことを恐れて、ずっと想いを口にしてこなかった。

グレゴリは今回のことで、エクソシストが過酷な務めだということを初めて知った。それでもネリーナの心の奥底にある苦悩を知ることはできない。結局、知っても知らなくても、自分がしてやれることは少ないのだ。

それでも平二の言う通り、ネリーナを想う気持ちなら誰にも負けることはない。ネリーナが辛いなら支えてやりたい、助けがいるなら手を差し伸べたい、必要な時にいつでも傍にいる。自分にできることはそれだけだ。

グレゴリは目の前の扉に額を押し当てると、ネリーナに聞こえるように大きな声で言った。

「ネリーナ、聞こえるか?」

中から返事はない。

「その、なんと言っていいかわからないが、お前は立派だと思う」

「……」

「お前が最初にエクソシストになりたいと言い出した時、正直、なんで女のくせにと思ったんだ。でも、自分のように悪魔に憑かれた人を救いたいからエクソシストになりたいって言っただろ。それでお前は本当にエクソシストになった。そういうお前を見て、俺も誰かのために頑張れたらって思った」

相変わらず中から返事はない。しかしグレゴリはそのまま言葉を続ける。

「俺は…その…お前の傍に居たくてフィレンツェに出たんだ。――それはお前のことが、ずっと好きでさ、一緒にいたいと思ったからだ。でも、それだけじゃだめだ。その、もし、誰かのために頑張るなら、俺はお前のために頑張りたい。誰かを助けるお前を助けたいんだ。頼むよネリーナ、ここを開けてくれ。俺もお前と一緒に戦わせてくれ。そして一緒に、みんなをここから助け出すんだ」

ネリーナは、グレゴリの声を真っ暗な房室の中で聞いた。じっと目を閉じて黙ったままだ。

グレゴリのいう言葉の一つひとつが重い。自分の惨めさを浮き彫りにされていくようだ。エクソシストになったのは、自分の中の悪魔を恐れたからだ。どれだけ神に祈っても、自分の中に悪魔がいるかも知れない不安は拭えなかった。そんな後ろ向きな事情を隠し、もっともらしい理由を並べてエクソシストになりたいと言ったのだ。

エクソシストになった今でも、その不安は消えなかった。記憶がないのに、悪魔に憑りつかれた事実は確信している。ベリンチョーニからその事実を聞いても思い出せないのに、悪魔に憑りつかれたことだけは自覚があった。ただ漠然と存在する不安を解消するために、ひたすらエクソシストになる努力をした。なのに何も変わらなかった。

これまで習い覚えてきたことなど,全て無駄だったと自覚せざるをえない。祈りを捧げても救われない。もう自分にはエクソシストでいる資格はない。

悲観にくれてうなだれるネリーナはじっと自分の足元を見つめた。微かに扉の隙間から漏れる光がすり切れた革靴のつま先を照らしている。

すると、ぽたりと何か液体が靴の上に落ちた。またぽたりと落ちる。扉の向こうから聞こえるグレゴリの声が,ずうっと遠くなる。どんどん垂れ落ちていく液体は、足元にたまりを作って広がっていった。視界が濁って目の前が暗くなっていく。手を目に当てると、液体は目から涙の様に流れ出していた。液体が視界を覆っていく感覚を感じて声をあげようとするが,体が自由にならない。

『そうだ、お前は正しい。お前は無力で惨めだ。』

体の中から声が聞こえる。体の中で反響する声の主は自分ではない。

『神はお前なんて見ない。祈りを捧げるお前の声を、聞こえないフリして無視してるのさ。その証拠に、お前は俺に取り憑かれたままじゃないか。エクソシストが悪魔に憑かれるなんて滑稽だ。』

(………その通りだ。)

『お前がドジなせいでヘイジは死にかけた。平気なフリをしているがあれは重症だ。』

(そうだ、私のせいでヘイジさんは…)

『だろう?なあ、もう死んじまえよ。役立たず。』

ネリーナの右手が自分の首をつかむ。徐々に指が食い込んで、喉を締め付けていく。爪が深く食い込んで皮膚を突き破り、床に血が滴り落ちる。苦しくても手の力は緩まない。自分の手であるはずなのに、己の首を容赦なく締め上げる。遠くで誰か呼ぶ声がするが、もうどうでもいい。

苦しさに思わず膝をついたネリーナはそのまま倒れこんだ。

『あのデブ…グレゴリと言ったか。ちゃんとお前と一緒のところに送ってやるから、安心して死ね。』

その時、ネリーナの心に言い知れない思いが沸き起こった。自分の中の悪魔を恐れたのとは違う、大切なものを失うことへの焦りと狼狽だ。バドロルシススはグレゴリの名を言った。自分の次は彼なのだ。その次は誰か、きっと自分にとって大切な人だ。

仰向けになったネリーナの視線に、今まで座っていた椅子が映った。真っ暗な部屋の中には、扉の隙間から漏れる程度の光しかない。なのに、その椅子の外観がぼんやりと見え始める。

背もたれの一番上、飾りの中央に彫られた十字の模様が、薄明かりを受けて光沢を放っている。ネリーナの眼には涙が溜まっていた。黒い液体を洗い流すように涙がこぼれ落ちていく。

ここでバドロルシススに屈するわけにはいかない。自分が死ねば、次は扉の向こうにいるグレゴリが狙われる。自分を助けたいと言ってくれたグレゴリを失いたくない。神はまだ私に力を貸してくださるだろうか、幾度も悪魔にかどわかされ、不信を持った自分に。

ネリーナは声にならない声でつぶやいた。

 

………………神よ

 

締めあげられた喉から声は響かない。もう肺の中の空気は吐き出しきってしまった。乾ききった唇はお互いが張り付いたままだ。しかしネリーナは、自分の声がそう言ったのを聞いた。

今は、はっきりと椅子の背もたれに刻まれた十字架が見える。遠のく意識の中で必死に左手を右手に据えた。食い込んだ指を左手で引き剥がそうと力を入れる。自分の手のはずが全く思い通りならない。それでも食い込んだ右手を左手で強く引く。ネリーナはもう一度声を上げた。

 

神よ!

 

房の中にネリーナの声が響く。振り絞るようなか細い声だが、今度こそはっきりと、自分の声を聞いた。すると締めあげていた右手は緩んで、あっさりと首から離れる。その拍子に後ろへ転げたネリーナは、大きく息を吸い込むと激しく咳き込んだ。激しい咳に混じって、ネリーナの口から黒い煙が噴き出していく。煙を吐き出しきると、ネリーナは酸素を取り込もうと激しく喘いだ。

息が落ち着くと、改めて椅子の背もたれに目をやった。しかし十字架が見えていたはずの場所は、もう真っ暗な闇だ。

部屋の奥から、まるで泥水のような重たい空気がゆっくりと流れてくる。積み重ねた椅子があるはずの奥に目を向ける。見えないがそこに何かがいるのを感じた。今朝マドンナ広場で感じたものと一緒だ。そこにバドロルシススがいるのだ。

自分の体から何かが出ていくのを感じたのは気のせいではない。バドロルシススの一部はネリーナの体から出て、すぐ目の前にいる。先刻まで手にしていたロザリオはもう手元にない。首に十字架のネックレスをかけていたことを思い出して、それに指を添える。

ネリーナは立ち上がって、気配のある方に向き直った。首のペンダントトップがその方向に向くように指で押さえる。

「バドロルシススよ、イエス・キリストはその力で無数の悪霊を退けた!神は私と共にあり、私はその力の仲介者。お前の言葉に私は惑わされない。さあ、この力の前にひれ伏し消滅せよ!」

もうそれは祈りの言葉ではなかった。ネリーナは思いの(たけ)をぶつける様に叫ぶ。

目の前の気配は、どんどん近づいてくる。

「この力はすべての信仰の敵を退ける!バドロルシスス、消滅せよ!」

ネリーナが投げつける言葉をよそに、目の前の気配は暗闇の中で凝縮を始めた。その気配は真っ暗闇の中で更に黒い塊になっていく。塊は細長い人の形を形成し始めた。ネリーナには、それがはっきりと見えないものの、すりガラスの向こうの人影の様には認識できる。平二が“とにかく長い”と言っていたのを思い出した。確かにそう形容するしかないだろう。手足から胴体まで棒を組み合わせたようだ。

その長く黒い人影はネリーナに近づくと、顔になる部分を寄せた。バドロルシススの顔の部分にある二つの点がグリンッと回ると、大きな漆黒の穴がそこに現れた。穿った黒い穴がネリーナの瞳の奥を覗く。しかし、ネリーナは目をつむらない。泣き叫びたい衝動を抑えて、じっとその穴を見据える。体中を悪寒が駆け巡り、足は痙攣したように震えている。

ネリーナはペンダントの十字架に添えた指先に力を込めて、一歩前に踏み出した。バドロルシススは見えない壁に突き飛ばされる様に後ろへ下がる。ネリーナはまた一歩前に出る。下がる後ろがないバドロルシススの影は拡散し、黒い粒子が広がっていく。

「バドロルシスス!神の御名において命ずる、その身を消滅させよ!」

ネリーナは叫ぶとまた一歩前に出た。長い人型をした影は部屋の暗闇に溶けるように崩れていく。それを形成していた黒い粒子の一つ一つが、泡が弾けるように消えていった。

ネリーナは黒い小さな粒子が弾けていく様子をじっと見つめた。それはずっと忘れていたあの時の光景をネリーナの脳裏に蘇らせる。

そこには鏡に映った自分がいた。眼から、鼻から、口から唾液や涙を流し、血走った眼で睨み付けている。顔中に皺を寄せて、神を呪う言葉を吐いて笑う。そんな様子であっても、鏡に映ったのが自分とわかっているのだ。

その自分の額に老神父が触れると、大きな叫び声が上がった。祈りの言葉に合わせてどんどん顔が歪んでいく。まるで人のものとは思えない真っ赤な舌を伸ばすと、顔の像が二重になった。自分の顔ともう一つ、黒い影が鏡の中にいる。ネリーナの姿に重なって見える黒い影は、今見たバドロルシススと同じように、霧散するように消えていく。消えていく影は轟くような叫び声を上げた。悪魔が放った断末魔の叫びで鼓膜を破られたネリーナは気を失った。

思い出した。あの時意識を失ってから、あの恐ろしい経験の全てを心の内に押し込んでしまったのだ。悪魔に憑りつかれた恐怖は消せないままに、記憶にある恐ろしい光景を、忘却の彼方に追いやった。いや、忘れたふりをしているうちに、忘れたと思い込んだのかもしれない。

ネリーナは、バドロルシススの最後の一粒が弾けるのを見届けると、背後の扉の方へと振り向いた。扉の向こうからグレゴリとベリンチョーニがどうしたのかと心配する声が聞こえる。

扉に近づいたネリーナは上着の袖で顔を拭うと、鍵に手を掛けた。

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