十二、復讐

 

平二はサンタ・カーザ神殿に向かう途中で、男子修道院に寄って荷物を取ってきた。これから相対する悪魔用に用意した物は、グレゴリに持たせた箱いっぱいのペットボトルだけではない。

平二たちが丘の上のマドンナ広場に到着すると、そこには誰もいなかった。普段なら観光客で溢れかえるはずの場所は静まり返っている。クリスマス前の今頃に並ぶ広場横の土産物の屋台はどれも閉じられていた。

人の気配のない広場へ出た平二は意識を集中させる。悪魔や魔物が現れるような禍々しい気配は感じられない。

「まだ大丈夫みたいじゃないか。さあ教会堂の方へいこうぜ、あっちにネリーナとベリンチョーニ先生もいるから」

「くれぐれも言っておくが、すぐに神殿の敷地の外へ出るんだ。いいな」

「ああ、わかってるって」

平二は腕時計の時間を確かめる。時間は午後四時を回っている。丘の麓で車を乗り捨てた平二とミケーレ、グレゴリの三人は、グレゴリが案内する裏道を抜けて神殿まで上がってきた。裏道と言っても民家の裏庭を抜けたりと、子供の頃から長くここで暮らしているものでなければ到底分からないような順路だ。おかげで思った以上に早く辿り着いた。

教会堂に入ると、身廊に整然と並べられた椅子にはニ十名程の修道士や修道女、そして司祭服をきた神父らが座っていた。それぞれ会話する者、聖書を読む者もいる。平二たちが教会堂に入ってくると、その全員が一人残らず目を向けた。皆、事情を知ってここにいるのだ。それにしては表情に緊迫感がない。これから起こるかもしれない事に現実味がないのであろう。敬虔な聖職者であろうと、唐突に悪魔が来ると言われて疑心を抱くのは当然だ。

来訪者をじっと見つめる者たちの中から、奥の祭壇前にいた神父が平二たちに近づいてきた。今朝、平二を教会堂で出迎えたコラッツィーニだ。険しい表情で歩いてくるコラッツイーニを認めたグレゴリが平二に耳打ちをする。

「やばいぞ。俺、勝手に車を拝借しちまったんだった、スペア・キーを黙って持ち出してさ。あの様子だと、ばれているかもしれん」

コラッツィーニはグレゴリに向かって、流暢な英語で言った。

「グレゴリ・ダレッシオ、久しぶりですね。昨年、フィレンツェから戻られた時にお会いしました。――それで、なぜあなたが修道院の車を持ち出すのです?過去にここの修道院の人間であったからといっても、あなたが勝手に車を乗り回していい理由はない」

浅黒い肌に白髪をたたえた姿は、もう中年を超えて老年に差し掛かっている頃だろう。コラッツィーニは固まったように張り付いた笑顔のままで、口から鋭い指摘と抗議の言葉を吐き出していく。

「あの、その…」と、答える言葉を選びあぐねているグレゴリをよそに、平二がコラッツィーニの前に出た。

「ミスター・イノウ、あなたは大怪我をしたと聞いたのですが、もう退院しても大丈夫なのですか?」

「ええ、大怪我っていうのは、医者が大袈裟だったんでしょう」

「そうですか――それで、ここへは何を?」

確信をずらす様に尋ねるコラッツィーニに対して、平二は単刀直入に切り出した。もう腹の探り合いをしているような時間はない。

「ここにいる人たちを神殿の外へ逃して欲しい。IEAのエクソシストであるネリーナ・モランディから聞いているはずだ。日が暮れる頃には、アンドロマリウスという悪魔が仲間を連れてここに来る。悪魔はIEAが相手をするから、あなたたちはここからできるだけ離れるんだ」

平二の言葉にコラッツィーニは、ほんの少し眉間に皺を寄せた。

「その事なら、バチカンの聖秘跡省へ連絡済みです。聖秘跡省のコールマン神父たちがもうすぐここに到着する。それまで聖職者と関係者は誰も教会堂の外へは出ないようにと指示も頂いています。わざわざご足労いただいて申し訳ないが、あなたが心配するようなことは、ここには一切ありません」

張り付いた笑顔のまま話すコラッツィーニの眼は笑っていない。平二の言うことを聞くつもりはないらしい。平二は苦々しい感情を隠そうともせず顔をしかめた。

その時、平二の背後からミケーレが声を上げた。

「コラッツイーニ神父、どうか彼の話に耳を傾けていただきたい」

平二とグレゴリの間を割るように、ミケーレが前に出た。

「ラブティ…神父……」

ロレートに住むエクソシストである以上、コラッツイーニも当然ミケーレと面識がある。ごく稀に会う程度ではあるが、知らない仲ではない。過去に数回、悪魔に憑かれたという人を紹介している。

「平二サンは私の古い友人です。聖秘跡省がなんと言っているのか知りませんが、彼は信頼に足る人物です。どうか彼の言葉に耳を傾けて欲しい」

「いきなり来て、そのようなことを言われても困ります。私はヘイジ・イノウの言うことは一切聞かない様に言い付けられているのですから」

「それは何かの間違いでしょう。平二サンはIEAの協力者として、我がカソリック教会に対して多大なる貢献をしてきた。彼は我々を害するような人物ではない」

「しかし聖秘跡省は…」

二人の会話に平二が割って入った。

「今はそんな話をしている場合じゃないんだ。――もう時間がない。とにかく奴らの本当の目的がわかるまでは、ここから避難して欲しい」

「それは無理な相談でしょう。異教徒であるあなた――ストランデットでしたっけ――ともかく、あなたの言うことを聞き入れて、聖秘跡省の指示を無視するのは妥当とは言えない。――そもそも悪魔が本当に姿を現すというのなら、是非とも見てみたいものです。」

この教会堂にいる者たちは、ネリーナが伝えたことを信じていないのか。平二は目を細めると、声色を低くして言った。

「…お前、神父だろう、悪魔は存在するのが信じられないのか?」

「あなたは我々を惑わす。そう聖秘跡省の方に言われました。悪魔の存在を信じるかどうかはともかく、あなたの言葉は信じられません」

顔から笑顔の消えたコラッツィーニは、平二を睨みつけるようにして話す。

「それと会うなり出ていけというのは、あまりに不躾(ぶしつけ)だ。年輩者に対しての口の聞き方というものを覚えたほうがいい」

平二は軽くため息を漏らすと、睨むコラッツィーニを見据えて答えた。

「年齢なら、この中では俺が二番目だ」

「…?」

「もういい、とにかくネリーナとベリンチョーニさんに会わせて欲しい。グレゴリと一緒に避難させる」

平二はそう言うと、立ちはだかったコラッツィーニの横をすり抜けて行く。グレゴリもそれに続いた。

「ちょっと待ちなさい!」

止めるコラッツイーニの声をよそに、平二たちは祭壇の方へ歩いて行く。

「グレゴリ、お前の言っていた地下室ってどこから入るんだ?」

「あそこだ、祭壇の横、側廊の奥の方に下に行く階段があるだろう?」

そう言ってグレゴリは進行方向の右手をさした。アーチ状の飾りで区切られた側廊の奥にドアが開いている。そこが階段への入口だ。

ドアの中に消えていく二人を追いかけようとするコラッツイーニを、ミケーレが呼び止めた。

「コラッツイーニ神父、お待ちなさい」

その声に振り向いたコラッツイーニは、険しい顔で立つミケーレを見た。

「……」

「バチカンの聖秘跡省は、平二サンのことをあなたに話しましたか?」

「ええ、ストランデットという異教徒で、信用がならぬと」

「しかし彼は、IEAで最も経験のある人物です。彼があそこまで焦っているのは、それだけ相手が強大だからに他ならない」

「……聖秘跡省は、あなたのことも言っていました。ミケーレ・ラブティは異教徒と結託し、秘跡たるエクソシズムを辱めてきた。ストランデットのような存在を容認し、エクソシズムの崇高さを台無しにしているのだと」

「それは…」

ミケーレは驚きを隠せずに狼狽えた。ミケーレを裏切り者だと言い捨てるコラッツイーニは、侮蔑のこもった眼を向けている。

「…あなたは私をよくは知らないから、聖秘跡省の言うことを信用せざるを得ないでしょう。それは世間と隔絶した生活を送ってきた、私自身の責任でもあります」

ミケーレはコラッツイーニに一歩近付いた。

「でもどうか、偏見のない眼で平二サンやグレゴリたちを見て欲しのです。彼らは身を挺してここへ来た。あなたを含めた、ここにいる人たち全てを助ける為にです」

「なんと言われようと、聖秘跡省の言うことを無視はできません」

ミケーレは自身が首に下げていたロザリオを手にした。

「コラッツイーニ神父、あなたはなぜ、自分の内なる神の声を聞かないのです?神は、あなたを命がけで助けようという者を無下に追い返せと言いますか?」

コラッツイーニは反論する言葉を失った。確かに自分は辛辣に応対しすぎたのかもしれない。事の真偽はどうあれ、彼らがここにいる者たちを助けに来たことには変わりない。

腕を伸ばしたミケーレは、黙ってままのコラッツィーニの胸に指先で軽く触れる。

「我々の神はどこにでも存在する。大抵はこの胸に、あるいは別のどこかに。いつもそばにいて我々を見守っていてくださる。――ただ一つ確かなのは、他人の口の中に神はいないということです」

ミケーレは触れていた手を降ろすと、コラッツイーニに微笑んだ。

「あなたが不安なのはわかります。ですがそれは、あなたの信仰心が強固であるが故のことです。――自信を持って、あなたは自分の内なる神の声に耳を傾けるのです…」

ミケーレの言葉が途切れようという時、扉が軋みながら開く音が響き渡った。その耳障りな音に、ミケーレは思わず振り向いた。

黒いキャソックに身を包んだ男性たちが、開いた扉から入ってくる。その先頭にいるのはマイケル・コールマンだ。がっしりとした体格のせいで、キャソックの胸元がはち切れそうに張っている。

「コラッツイーニ神父はおられるか?」

大きく張りのある声でコールマンが言った。ミケーレの言葉に聞き入っていたコラッツイーニが我に返って返事をすると、コールマンが近づいて来る。

「IEAのマイケル・コールマンです。それと一緒にいるのは、聖秘跡省から派遣されたエクソシストの面々だ」

「ああ、私がヌンツィオ・コラッツイーニです。――あの、コールマン神父も聖秘跡省の方なのでは…」

「いや残念ながら、私はまだIEAという組織に属している。いずれは聖秘跡省へ移籍するのですが」

そこへミケーレが近づいて来た。その姿を認めたコールマンが眼を見開いた。

「初めまして、コールマン神父。私がミケーレ・ラブティです」

「…ああ、よく知っていますよ、初代。あなたがここにいるとは思っていませんでした。あなたも悪魔を迎え撃つために、ここにおられるか?」

「…いいえ、私はここにいる皆を救いに来たのです。ここに残った人たちを神殿の外へ逃がすために」

「おっしゃる意味がよくわかりません。エクソシストであるはずのあなたが、なぜ悪魔と戦わない?」

ミケーレは、コールマンの言葉に首を横に振って応じた。

「コールマン神父、我々エクソシストは戦士や兵士ようなものではない。あなたもIEAにいるのなら、そのことは良く知っているはずでしょう?」

コールマンは答えずに一瞥を返すと、コラッツイーニに向いた。

「ヘイジ・イノウとネリーナ・モランディは?」

「…あの、祭壇横にある地下房室にいます」

それを聞いたコールマンは、後ろに振り向いて言った。

「アンジェロ神父、その地下室の扉を閉めて、中にいる者たちを閉じ込めるんだ。――異教徒に邪魔はさせない」

「えっ!」

驚いたアンジェロたちに向けて、コールマンは畳み掛けるように言った。

「急げ、時間がない。鍵がなければ、適当なもので扉を押さえておけ。――別の者は、ここにいるミケーレ・ラブティ神父を丁重に保護するんだ」

狼狽えるミケーレをよそに、コールマンは一緒に来た者たちに指示をする。

ミケーレはコールマンに詰め寄った。

「コールマン神父、事情も聞かずに閉じ込めるというのは、一体どういうつもりなのですか?」

「あなたは秘儀たるエクソシズムを、私的な利益と願望に利用した疑いがある。偏執的かつ利己的な行為を咎める為に、あなたの身柄は一旦拘束させていただく」

冷たく言い放ったコールマンは、追い縋るミケーレをよそに、その場を立ち去って祭壇の方へと向う。男性神父二人に両腕から抱えられたミケーレは、身動きが取れなくなった。教会堂にいる者たち全員が、その只ならぬ様子を見守っている。

祭壇前に立ったコールマンは、教会堂にいる者たちに向かうようにして立つと、胸元から丁寧に布で包まれた物を出した。ゆっくりと布を広げると、その中から一つの金属片を取り出す。

「聞いて欲しい。今、このサンタ・カーザ神殿に悪魔がやってくる。――そこにいるミケーレ・ラブティが異教徒と結託して呼び込んだ悪魔だ」

そう言ってコールマンは、ミケーレを指差した。皆の顔が、一斉にミケーレに向く。張りつめた空気の中で、皆に緊張が広がっていく

「だが、恐れることはない。我々にはこれがある」

コールマンは手に持った古びた金属片を高く掲げた。その鉄色の表面は所々赤く変色しながらも、磨きこまれたように光を照り返している。

「聖なる槍――――ロンギヌスの槍だ」

その言葉を聞いた瞬間、教会堂にいた全員からどよめきが沸き起こった。

ロンギヌスの槍とは、イエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架に架けられた際に、ローマ兵ロンギヌスがイエスを突いた槍のことだ。その槍はイエスの血を浴びて、聖なる力を宿したとされている。かつてその槍は幾人もの手にわたり、聖遺物として様々な伝説を残している。その最たるものが所有者に勝利をもたらすという力だ。

一〇九八年、聖地エルサレム奪還のために派遣された第一次十字軍は、遠征先のアンティオキアで、ムスリム連合軍に対して圧倒的劣勢のまま包囲されてしまった。篭城を余儀なくされた十字軍は、一行の中にいた修道士に導かれ、地中から「ロンギヌスの槍」を発見する。そして槍の下に士気を回復した十字軍は一気に形成逆転し、劇的な大勝利を収めたというのである。

どよめきの中でコラッツィーニが声を上げた。

「コールマン神父、しかしそれはあまりに…」

「あまりに…小さいと?」

コールマンはコラッツィーニが言うより先に、彼が口にしようとした疑問に触れた。

「ええ、聖槍は我々の二の腕ほどの長さの筈です。そのように小さなものでは…」

コールマンはコラッツィーニが言うのを聞きながら、金属片を布でくるんでいく。

「バチカンにある槍は、先端が欠けているのをご存知か?」

コールマンの言葉を聞き漏らすまいと、教会堂にいる全員が口をつぐむ。

「その欠片は今から二百年あまり前、革命前のフランスに持ち出された。当時のフランス王朝が貸し出しを願い出たのだ。彼らは失った民衆の信頼や羨望を、聖遺物を示すことで取り戻そうとしたのだろう。そして欠片は案の定、フランス革命の混乱の中で行方知れずになってしまった」

「初めて聞く話です」

そう言うコラッツィーニに同意するように、何人かの者たちも頷く。

「積極的に喧伝(けんでん)される話ではないから、知らないのも致し方ない。しかし幾つかの聖遺物の研究書物にも書かれていることだ。実際に、バチカンの宝物庫に眠っている槍の先端は欠けている」

コールマンは、布に丁寧にくるんだ槍の欠片を恭しく両手に包むようにして持つと、それを前に差し出した。

「それが我々の手の内に戻った。これがあれば、悪魔など恐れるに足らない」

一同の声はどよめきから歓声に変わった。ただ一人を除いては。

「コールマン神父!」

ミケーレが両腕を抱えられながら、声を上げた。

「それをどこで手に入れたのです?ずっと行方知れずになっていた品が、なぜあなたの手にある?」

「世界の果てから来た魔物にキリスト者の祈りが通じないというのは、大きな勘違いであることを証明したい、そう考える者はバチカンにも大勢いる。この槍の欠片は、真実を求める者たちによって私に託されたのですよ」

「そ、それは…それは違う」

「ラブティ神父、そうまで神の力を卑下する理由がわからない。我々はこうして力を得て、如何なる世界の悪魔や魔物にも対抗しうることができるのだ」

「そうではないのです、コールマン神父!」

全く聞く耳を持とうとしないコールマンに、ミケーレは声を荒げた。

「神の力はあまねく全てに対して等しく影響を持つ。我々の祈りは何者に対しても届く。それは世界中どこにいても同じです。だが勘違いしていけない。神の力は……」

「ええい、うるさい!貴様が神を語るな!我々が異教徒に劣るなどあってはならない。貴様の言うことは全て間違いだ!」

コールマンの怒号が、ミケーレの言葉を掻き消した。怒鳴りながら、足早に寄ってきたコールマンは、両腕を押さえられたミケーレの胸倉を掴む。

コールマンは、怒りの形相をミケーレに突きつけた。その顔は酷く歪んで、皺という皺が深い溝を刻む。眉間を強く寄せて、鋭い眼つきで睨み付けている。それはまるで聖職者とは思えないほどの激しい感情表現だ。

コールマンが顔を更に近づけた時、その眼から何かが落ちた。ミケーレの胸倉を掴んでいたコールマンの手の上にそれが落ちる。それは青く色づいたコンタクトレンズだ。顔中の筋肉をこわばらせた拍子に落ちたのだろう。しかしミケーレが見たのはそのコンタクトレンズだけでなかった。レンズが外れたほうの眼に、見覚えのある青黒い光がある。蝋燭(ろうそく)の炎のように、瞳の奥で瞬く光。

「コールマン神父、その眼は!」

コールマンは慌ててミケーレから手を離すと、眼を覆い隠した。

その時、ミケーレは背後から強烈に冷たい空気が押し寄せるのを感じた。まるで氷の塊に押し付けられでもしたかのようだ。その気配に振り向くと、開け放たれた教会堂の入り口に、三つの人影が見えた。ミケーレは一目で悟った。それらは人の形をしているものの、どれも人ではない。

雪崩(なだれ)のように押し寄せる強烈な気配に圧倒されて、教会堂にいる者たちが次々に卒倒していく。ミケーレの腕を抱えていた者たちも、その場に崩れ落ちてしまった。

平二が言っていた通り、招かざるものたちが来た。ミケーレは自由になった手で、胸に下げたロザリオを握りしめた。

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