神殿のある丘を登る坂へ差し掛かろうかというところで、路上に人だかりができていた。近づくと路線バスが道を塞ぐように横転していて、そこに黄色いワゴン車が突っ込んでいる。その様子を人々が遠巻きにして見ていた。警察もいるようだが、野次馬と一緒になって事故現場には近づかず、遠くから眺めているだけだ。幾筋もの赤いタイヤのスリップ痕、そして黒い帯状の物が道路にこびり付いている。いずれにせよこの道は車で通れそうにもない。

車にミケーレを残して、平二とグレゴリが野次馬の中にいた警官に近づく。

「おまわりさん、一体何があったんだい?」

グレゴリがイタリア語で声をかけた。

「ああ、路線バスが坂でスリップして、そこに宅配便の車が突っ込んだんだ。幸い、軽いけが人だけだがね、それにしても………」

「…?」

「見てみなよ。路線バスは、あれのせいでスリップしたんだ」

警官が事故現場の地面を指さす。赤く伸びたスリップ痕の上でカラフルな編み紐のような物が、大量にのたうち回っている。蛇だ。

「なんだかすごい数の蛇なんだ。しかも見たこともないような色のまでいる。きっと密輸業者とかが落としていったんじゃないかと思うんだが」

若い警官は合理的な理由を必要としているのだろうか。しかし聖母の家ぐらいしか見るものがない地方の小さな町に、爬虫類の密輸業者など存在するはずがない。

「いずれにしてもここは通行止めだ。今、応援を呼んでいるが今日中に通れるようにはならないだろうな。いかんせん蛇が…」

警官は憂鬱そうに言った。蛇を捕獲するのは彼ら警察の役目だからだろう。

「ヘイジ、これってなんか悪魔と関係あるのか?」

平二は、ムィシュコーの言っていたアンドロマリウスの姿のことを思い出した。片手に蛇をもった男だと言っていた。今朝、自分を空中で突き飛ばしたのも大きな蛇だった。

この道路一面に湧きでた蛇は、アンドロマリウスが差し向けたものだろう。神殿に登る別の道も同じような状態に違いない。奴らは神殿を周囲から孤立させる気だ。

「多分、関係あるだろうな。俺は歩いて上まで登る。お前とミケーレはここから引き返してくれ」

一緒に行くとごねるグレゴリを無視して、平二は坂の上に行く道を探す。道路は路線バスが歩道まで完全に塞いでしまっていた。

あたりを見回していた平二は、すぐ横に黄色いジャンパーをきた男がいるのに気づいた。ぶつかった宅配便のドライバーだ。

「…グレゴリ、行く前に一つ頼みがある。あそこにいる宅配便のドライバーに、ネリーナ宛の荷物を運んでいないか訊いてくれないか」

平二の素っ気ない態度に仏頂面で返しながら、グレゴリはドライバーに尋ねる。

「ネリーナ宛に荷物を積んでいるってさ。フランスのルルドからの荷物だって。それを届けるのにこの坂を上がろうとしたら、この有様だって」

「それは俺がバチカンで頼んだ品だ。ここで荷物を受け取りたいと伝えてくれ」

グレゴリが話をすると、ドライバーが肩を竦めながら困った表情で答えている。

「渡しても構わないが、荷物は車の中だから蛇が怖くて取ってこられないってさ」

車の周りには数十匹の蛇がとぐろを巻いている。平二は「分かった」と応えると、車に向けて歩いて行った。足元でのた打ち回る蛇を蹴り飛ばしていく。中には飛びかかって噛み付こうとするのもいるが、構わず蹴り飛ばして、人一人が通れる程度のスペースを開けた。側面の扉を開けて車の中に入るといくつかの小包がある。そのなかで一番大きな箱のラベルを見ると、ネリーナの名前があった。

その場で箱を開いて、梱包材替わりに入っている丸めた新聞紙を取り除く。すると中には、大量の小さなペットボトルが整然と並んでいた。無色透明の液体が詰まった、百ミリリットル程度のペットボトルには、ラベルも貼られていない。ムィシュコーが手配したルルドの泉の水だ。土産物屋で売られている水のペットボトル詰めを送ってきた。大きなタンクを送られるより、このほうが使い勝手がいい。

平二が入るだけカバンにペットボトルを詰めていくと、グレゴリが宅配車の中へ入ってきた。

「荷物はあったのか?――なんだよ、それ?」

「ルルドの泉の水さ。バチカンにいる古い友人に送ってくれるよう頼んでおいた。人間にとっては聖なる水だが、悪魔にとっては高濃度の硫酸より厄介な液体だ――ほれ」

そう言うと平二はペットボトルの中身を車の外にいる蛇の群れに向かって掛けた。すると蛇が液体を避けて勢いよく飛び退く。

「蛇はルルドの水が嫌いらしいな。やっぱり、悪魔と関係があるんだろう」

ルルドはピレネー山脈の麓にある聖母出現の聖地である。十九世紀半ばにベレナデッタという少女がこの土地の洞窟で「光る小さな貴婦人」を幻視したことが発端となっている。この貴婦人がカソリック教会から聖母であると認定され、ルルドはキリスト教信者の巡礼地となった。洞窟内でベルナデッタが発見した泉からは今でも渾々と清水が湧き出ており、その水を飲み、身を浸すことで癒しを受けたという人が後を絶たない。

平二は箱から片手に持てるだけペットボトルを掴むと車の外に出た。そのボトルを先ほどの警官に差し出して受け取らせる。

「グレゴリ、彼に伝えてくれ。この蛇が人を襲うようなら、この水で追い払えと。ただ無駄遣いはだめだ。貴重な水だからな」

グレゴリが警官に平二の言葉をイタリア語で伝えると、平二がまたペットボトルを振って蛇に向かってルルドの水を掛けた。すると水を嫌って蛇の塊がザザァーっと引いていく。警官は唖然としながらも、平二に向かって理解したという風に頷いてみせた。

「グレゴリ、あそこのドライバーには、ネリーナの名前で受取にサインしてやってくれ。残った水はお守り代わりに持っておくよう言ってくれ」

そう言って平二は、また上に行けそうな道を探して辺りを見回す。そこへグレゴリが、平二に食い下がった。

「ヘイジ、あれ全部お前が必要なんだろ、怪我したお前の代わりに、俺が一緒に行って…」

「逃げろと俺が言ったら逃げる約束だろ。ここから先は危険なんだ」

「でもベリンチョーニ先生も、ネリーナもまだ上にいるだろ。俺は心配なんだ。俺は役に立たないかもしれない、でも何かできることはあると思うんだ。――ここは俺が育った町だ。先生には修道院に入った十歳の頃から世話になってる。修道士を諦めた今だって、あの人は変わらず俺の父親面してるんだ。ネリーナだってずっと一緒にここで育ってきた。それに他のみんなも家族みたいなもんさ。頼む、俺にも手伝わせてくれよ」

グレゴリは喋っている途中から固く目を閉じている。

「なんで目を閉じてるんだ?」

「だってお前の眼を見たら、またアレをやられるから」

グレゴリは、さっき病院で見せた右眼の力を警戒しているのだ。

「…やらないよ。本当はそうしたいところだが。俺よりお前の方がここには詳しいからな。足止めしたって、来たければ自分で来るだろ。だからちゃんと説得しなけりゃならん」

「説得したって無駄だ。俺は俺の家族を守りたい」

眼の力を使わないと平二が言ったことで安心したのか、グレゴリは平二の眼をじっと見つめて話す。

「駄目だ。もう素人がどうにかできるような状況じゃない。グレゴリは上に行くな。俺が行って、皆を説得する」

「お前、イタリア語もできないのにどうするつもりなんだ。お前には俺が必要だ」

「……グレゴリ、そういうのをお人好(ひとよ)しっていうんだ。人のためにどれだけ自分を犠牲にしても死んじまったら元も子もない。――とにかく、あの爺さんを連れてどこか遠くへ行ってくれ!」

「嫌だ!――お人好しは悪いことじゃない。自分を犠牲にするのは間違ったことじゃないはずだ。俺はお人好しでいい。連れてってくれ」

「……」

平二は押し黙ってしまった。ずっと昔に、同じようなことをおゆうから言われた気がする。お人好しというのは、いいことなのだと。

その時、グレゴリの背後からミケーレの声が聞こえた。

「平二サン、あれほど言ったのに、まだ一人で行くつもりですか。――ここに置いていかれても、私は勝手に行きますよ」

ばつが悪そうに平二は頭を掻いた。話を聞かれていたらしい。

「彼にも、グレゴリにも来てもらいましょう。――我々には、まだ彼の助けが必要です」

「そうだ、俺はこの神殿のある丘で育ったんだ。ここから上まで登るのだって、地元の奴しか知らない道も知っているんだ」

平二は頭を掻きながら、どうしたものかと考える。確かにグレゴリの言うとおり、ルルドの水は全部必要なのだ。カバンに入るだけの量ではとても心許ない。それに、ここから神殿まで登っていく道のりが分からない。とにかく丘の頂上を目指せばいいのだろうが、迷って時間を無駄にしたくない。何より、ここで言い争っているうちにどんどん時間は過ぎていっている。

「上に着いたら、ミケーレと一緒にネリーナや他の人達を連れて丘を降りてくれ。時間がない、すぐに行く」

その言葉を聞いたグレゴリは、「おう!」と返すと、宅配車に乗り込んで箱を取りに行く。

平二は傍らで立っているミケーレを睨んだ。

「本気か?あいつは元修道士でも、今はホテルの雇われオーナーだぞ」

「いざとなれば聖母の家に入りましょう。あれは家丸ごとが聖遺物です。皆を守ってくれます」

「あれは、それほど大きい家ではないはずだ。全員入れるか?」

「平二サン、志ある若者の進む道を塞ぐのは、年長者がする最も恥ずべき行為ですよ」

ミケーレの言葉に、平二はわざとらしく大きなため息をついた。

傾き始めた日差しを隠すように曇天が濃くなっていく。暗雲が重なって周囲を暗くしていく様子を見た平二は、決着をつける時が近いことを感じていた。

 

マイケル・コールマン神父と五人のエクソシストたちを乗せた小型バスは、平二達とは別の坂で立ち往生していた。

列車でロレートに到着してから迎えに来た小型バスに乗り込んだものの、すぐに行く手を阻まれた。道路一面に広がった蛇の群れに渋滞が起こっている。

コールマンの所属は(いま)だIEAだが、一緒にいるのはバチカンの聖秘跡省から派遣された者たちだ。

芭尾討伐のためにとコールマンに集められた彼らは、行先も聞かされず、ただ待機するようにと言い付けられていた。芭尾の居場所が知れているはずなのに、コールマンは出発準備をするよう申し付けただけで、全く動こうとはしなかった。

それが今朝になって急に慌ただしくなった。サンタ・カーザ神殿の教会堂から、悪魔が現れたという連絡がきた。ヘイジ・イノウは、悪魔と対峙した折に大怪我をし、一緒にいたネリーナ・モランディも悪魔に憑かれたのだという。これを聞いたコールマンは聖秘跡省のカブリエーレ枢機卿に進言し、すぐさまロレートへと向かうことになった。悪魔と対峙したのが、あのストランデットであるヘイジ・イノウだったことで、コールマンの進言はすぐに許諾された。

討伐隊の面々は、少なからずコールマンに対して不信を抱いていた。芭尾の討伐を目的に集められたはずなのに、違う目的でロレートまで来ている。質問をしても、コールマンはそのことに関して理由らしいことには触れようともしない。結局、何の説明もなしに、ここまで連れて来られてしまった。

コールマンは止まったままのバスから道路の先を眺めた。外は曇り空のせいか、酷く暗い。長く車が連なった先には、大勢の人だかりができている。

座った椅子の横に会った大きめの書類カバンを手にしたコールマンは、無言で立ち上がった。

「コールマン神父、どちらへ」

座っていた若い神父が訊いた。

「アンジェロ神父、私は徒歩で行く。――君たちも一緒に来てくれないか?」

そう言ったコールマンは、鞄を持ってバスから降りてしまった。すたすたと坂を上っていくコールマンに遅れまいと、他の者たちも荷物を持って立ち上がった。我先にとバスから降りた一行は、人だかりのある方へ近づいていく。

「コールマン神父、どうされるのです?この先は通行止めに…」

先ほどのアンジェロが訊いた。

「サンタ・カーザ神殿には、悪魔に怯える者たちが待っている。通行止めなど、我々が立ち止まっていい理由にはならない」

そう言ってコールマンは、列を作った車の間を進んでいく。その後をアンジェロらが並んで付いて行く。

列の先頭の方では人々が車から降りて、大量の蛇を遠巻きに眺めている。皆の顔は憂鬱そうだ。この道を迂回しようにも、後からくる車で道が塞がれて後戻りもできなくなった。蛇が発生しているのはここだけではないらしく、警察もまだ来ない。

群衆をかき分けて前に出たコールマンたちは、目の前に広がる蛇の群れを認めた。それは群れというにはあまりに多い。灰色のアスファルトが覆い隠され、まるで黒い絨毯を引いたような光景だ。

それ見たアンジェロは思わず生唾を飲み込んだ。道の横にある歩道にも蛇は溢れている。蛇を踏まぬように歩くことは出来そうにない。

「さあ、来なさい」

コールマンは躊躇なく道の真ん中を進んでいく。その足取りに恐れはない。

あと一歩で蛇の中へ足を踏み込もうというところで、コールマンは立ち止まって振り向いた。

「早く!私の後に続いて!」

コールマンは立ち止まったままのアンジェロたちを一喝した。しかし足がすくんで動けないアンジェロたちは、恐るおそる近づくことしかできない。その様子を見て、呆れたようにため息を漏らしたコールマンは、右手を蛇の群れに向けた。アンジェロたちからは見えないものの、その指先には小さな金属片を持っている。

コールマンの足に触れようかというほど近づいていた蛇は、まるで反発する磁石のように、その場から飛び退いていく。

固唾をのんでコールマンの様子を見守っていた群衆が一斉に歓声を上げた。今まさに目の前で神父の一人が、群がる蛇を退けたのだ。

更に歩を進めるコールマンの足元から次々と蛇は飛び退いて、そこに道が出来ていく。

「さあ、早く!」

コールマンが言うと、アンジェロたちは慌ててその後に追い縋った。

「おお、コールマン神父、これは奇跡です。まさに…」

アンジェロの言葉をよそに、コールマンはどんどん先へと進んでいく。

コールマンたちが蛇の群れの中を渡り切ると、群衆から再び歓声が沸いた。しかしできた隙間には再び蛇が押し寄せて、また道が塞がれてしまった。結局通れたのはコールマンたちだけで、見ていた者たちは、まだそこに立ち往生している。

「先を急ぎましょう」

手に持っていた金属片を恭しく布に包んでポケットに入れると、コールマンは歩き出した。一行はコールマンを先頭に、坂を上っていく。

アンジェロは、先を歩くコールマンの背中に無類の力強さを感じた。そして彼に、比類なき信頼を抱いた。今はもう一縷の不審もない。強硬な態度と発言を繰り返すコールマンは、それに見合う力を持っている。

しかし、憧憬の眼を向けるアンジェロには、青い光を湛えるコールマンの瞳は見えていなかった。

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