「ヘイジ!!おい、大丈夫か?!」

先程も目が覚めて一番に聞いたのはグレゴリの声だった。半開きの眼でみた天井は先程と同じだが、今度は様子が違う。辺りは大勢の人間が慌ただしく出入りし、複数の機械の電子音がけたたましく鳴り響いている。

ゆっくりと頭を横に向ける。違和感は残るものの、大して痛くない。どうやらここは病院の集中治療室のようだ。狭い部屋に押し込まれた高価そうな医療機器の他に、白衣を着た医者と看護師が何人かいる。平二が眼を覚ましたのを見ると、皆が揃って驚きの声を上げた。

平二は手足の末端から順に体を少しずつ動かしていく。さっき目が覚めた時に比べれば、ずっと痛みが引いていた。しかし左肩と右手は(しび)れこそ無いものの、自由に動かせるほど回復はしていないようだ。動くと痛い箇所はまだいくつもあった。体中いたるところで折れていた骨も、とりあえずくっついた程度だろうか。

「ヘイジ、すごい熱が出てるんだ、無理したら死んじまう」

グレゴリは悲痛な声を上げて、手足を動かし出したヘイジを制した。

「大丈夫、わかってる。自分でやったんだ、心配するな」

「は?自分でって…」

きょとんと惚けた顔のグレゴリをよそに、平二は手をついて体を起こした。肩まで掛けられたシーツがめくれて、平二の痛々しい姿があらわになる。服は脱がされて、体中に包帯とギプスが巻かれている。特に酷い左肩はギプスで固定されていて全く動かない。その上、色とりどりのコードが機械から体の各所に繋げられていた。傍らには氷嚢がいくつも転がっている。熱が上がった平二の体を冷やしていたのだろう。

平二の体中に刻まれた刺青が、ギプスや包帯の間から見え隠れしている。それを見たグレゴリが声を上げた。

「すごいタトゥーだな、体中にあるじゃないか。ヤクザの映画で見たことがあるぜ」

「これか。そんなかっこいいものじゃない――それより、もう三時だろ。行こうか?」

平二がそう言うと、グレゴリは首を大げさに横に振った。

「いや、三時をもう二十分ほど過ぎた。いくら声をかけても起きなくてさ」

「起こせと言っただろう?揺り起こすぐらいしろよ」

「無茶言うなよ、重症患者を揺さぶって起こすようなことができるもんか」

確かにグレゴリを攻められたものではない。

「それもそうだ。――それよりミケーレには会えたのか?」

平二がそう言うと、グレゴリが首を縦に振る

「ああ、会えたさ。…でもロレートを離れるつもりはないって言ってた」

「まったく、あいつの頑固なところは変わらんな」

本当なら頭を抱えたいところだが、ギプスで固定されているので体が動かない。

平二の言葉を聞いたグレゴリが笑っている。

「なんだ、なんで笑う?」

「ハハッ…いや、すまん。神父もヘイジのことを同じように言ってたからさ」

「そうか、それであいつはどうした?」

「いや、その…、ロレートを離れる気はないって…」

「まあいい。家にいるなら、まだましだ。――車で来ているんだろ?すぐ神殿へ行くぞ」

「ああ、修道院の車を借りて来た」

「そしたら、ここにいるお医者さんの方々に伝えてくれ、今からすぐに退院するって」

先程から医者と看護師たちは放心したように平二とグレゴリのやり取りを見ている。つい今しがたまで、全身骨折で運び込まれたアジア人が、高熱を出して危険な状態であったのに、急に眼を覚まして起き上がり、平然と会話までしているのだ。

グレゴリがイタリア語で何か伝えると、医者は急に叫ぶように話しだした。

「ヘイジ、医者は病院を出るなんてとんでもないって言ってるぜ。とにかく絶対安静だそうだ」

「お医者さんたちに、右眼が痛いと言っているって伝えてくれないか。そしたら、グレゴリは病室の外に出ていてくれ」

「…?」

「フィレンツェでやって見せたろう、あれをやるんだ」

そう言って平二は微笑んだ。早速グレゴリが医者にイタリア語で話すと、一人が平二に近寄った。

平二は右眼を医者に向ける。眼が赤い光を発し始めると、医者が「オゥ!」と声を上げた。様子に気づいた他の医者や看護師も平二に眼を向ける。部屋にいる全員の視線を確かめると、平二は右眼に意識を集中して鋭く緩慢な気を放った。右眼に注視していた医者や看護師は、金縛りになったように動きが止まる。一番近くで平二の右眼を見ていた医者が、止まった姿勢のままでその場にへたり込んだ。他の者達も順にその場に座り込んで、呆けたようにベッドに座った平二を見上げている。

「ヘイジ、もういいか?」

グレゴリが部屋の外から声をかけた。

「ああ、もう入ってきていい」

部屋へ入ってきたグレゴリは、全員同じ方を向いて座り込んでいる医者たちを見て、目を白黒させた。

「平二、この人たちは大丈夫なのか……?」

「勿論だ、心配ない。十分もすれば元に戻る。――それより俺の服はどこだ?」

「お前の服はこれで全部だとは思うが、服を脱がす時に、ほとんどハサミで切られちまった」

グレゴリが、ベッドの下から洋服が無造作に入れられたバスケットを取り出す。着ていたコートも含めて全部ズタズタにされてしまっている。コートの裏地に描かれた経文や曼荼羅は、わざわざ北インドに残っている密教寺院で描いてもらったものだ。勿体無いが、縫い合わせても、もう使えそうにもないほど乱暴に切られてしまっている。諦めるしかあるまい。

バスケットの中を探って、袈裟懸けにしていたカバンを見つけた。これだけは無事だったようだ。

「グレゴリ、この他に長くて白い棒というか、剣のようなものは知らないか?」

平二は集中治療室の中を見渡すが、それらしい物は見当たらない。

「いや、俺はお前が救急車に乗せられるとこも見ていたが、それは知らないな」

「……」

いくら咄嗟のこととはいえ、黙儒を手放してしまうのは怪我以上の失態だ。あの霊刀なしでは芭尾を退治することも叶わない。思いがけず不安な表情で押し黙った平二を見たグレゴリが口を開いた。

「なにか大事な物なら、きっとベリンチョーニ先生が持っていてくれているだろうさ。心配しなくても、誰も捨てたりしないって」

「電話で確かめることはできないか?」

「さっきからネリーナの携帯に電話してるが通じないんだよ。ベリンチョーニ先生は携帯電話持ってないし、他の番号は知らないし。あっちと連絡がつかないんだ」

確かに病院に運ばれた時に持っていなければ、あとはサンタ・カーザ神殿で探すしかあるまい。

「やはり急いだほうがいいな。その大事なものは俺以外が触るとすこぶる具合が悪いんだ」

「ふーん、そんなに高価なものなのかい?」

「いや、俺以外の人間が触ると怒るんだ」

「…?」

グレゴリは訳がわからないという風に両肩を竦めて見せる。

「とにかく早くサンタ・カーザ神殿に行こう。すまないが、車までおぶってくれないか?」

グレゴリは「おう」と応じると、ベッドに腰掛けている平二に背を向けるように膝をつく。急激に体力を消耗した平二にとって、いまは歩くこともつらい状況だ。平二は体中にくっついているコード類を無造作に引き剥がすと、グレゴリの背中におぶさった。

「あと、すまんがそれをとってくれないか?」

指差した方向には、平二のために用意された点滴剤がぶら下がっている。平二の容態が急変したために結局使われなくなっていたものだ。グレゴリがそれを取って平二に渡すと、平二は使える左手と歯でその封を切って飲み始めた。

「おい、そんなもの飲んで平気なのか?」

「ああ、ただの栄養剤だからな。どうせ体の中に入れるんだから、飲んだって平気だろ」

グレゴリは平二を背中に載せて部屋を出た。部屋から続く廊下の端には緊急外来用の入り口がある。出口近くの受付にいた看護師に呼び止められるが、平二が目線を合わせると、先の医者たち同様に黙ってしまう。

病院の救急用搬入口らしい扉を抜けると、救急車が止まっている広い場所に出た。グレゴリは、救急車と並んで止めてあったフィアット・パンダに向かって歩いて行く。

平二は車の助手席に座っている男性を見た。

「おい、グレゴリ。なんでミケーレが乗っているんだ?」

車の中で、ミケーレは笑顔を浮かべて座っている。

「すまん。連れて行けってしつこくてさ。――神父さんの頼みは断れないって」

グレゴリも元は修道院で学んだ身だ。確かに相手が神父では、逆らうことは出来まい。

グレゴリの背から降りた平二は、車の窓に顔を寄せた。すると窓が開いて、中からミケーレが顔を出す。

「平二サン、お久しぶりデス」

ミケーレは日本語で平二に話しかけた。

「ミケーレ、俺は逃げてくれと伝えたはずだ。グレゴリから事情は聞いただろ」

「ええ、もちろんデス。だから来まシタ。――それに、あなたが私の故郷に来たのに、顔も合わせないなんてことはできまセンヨ」

「……」

日本語で会話する二人を、グレゴリは眼を丸くして見ている。ミケーレが日本語を喋るとは思っていなかったのだろう。

平二は運転席側に回ると、座席を大きく前へ寄せた。ギプスで動きにくいながらも、何とか後部座席へ入り込む。

これまた大柄な体には狭すぎる運転席に収まったグレゴリが、後ろを向いて言った。

「おいヘイジ、大丈夫か?すまんね、狭くて」

「いくらなんでも、この車は小さすぎないか?」

「仕方ないだろ。修道院には、こいつの他は大勢で移動する時用のバスしかない。そのバスの方は、バチカンから来る人達のお迎えに出払っちまってるんだ」

コールマンらを迎えるための車が出ているということは、既にロレートへ到着しているのだろか。

平二はグレゴリに向かって言った。

「グレゴリ、神殿へ行く途中で前にどこか食べ物と水が買える場所へ寄ってくれないか?」

「ああ、構わんぜ。駅の方なら、でかいショッピングモールが…」

「いや、余り無駄な時間を使いたくない。できれば道中で、会計で並ばずに済む店がいい」

「それなら神殿の丘を登る前に小さな商店があるから、そこへ行こうか?」

「そこらで服も買えるか?」

「並びに紳士服屋がある」

「それじゃ、頼む」

グレゴリが車を発進させると、ガタガタと揺れながら車が走り出した。小さいだけでなくオンボロらしい。ギアを入れると、ブレーキでもかかったかのように車が跳ねて、平二は座席から転がり落ちた。平二が呻くと、グレゴリが「すまん!」と声を上げる。

しばらく車の走りが安定したところで、平二は助手席に座っているミケーレに向かって話しかけた。

「ミケーレ、芭尾がお前を狙っている。そのことは聞いたか?」

「おおよそのことは聞いていマス。このロレートにいるのでショウ?」

「そうじゃない、騙されたんだ。――すまない。俺のせいでミケーレの居場所が芭尾に知られてしまった。お前を狙って、芭尾と悪魔がサンタ・カーザ神殿に来る」

「なら平二サン、ついに芭尾を倒す機会が巡って来たんデスネ」

「だから、そういうことじゃない。俺たちは奴らの罠に嵌められた。――とにかくお前はここを離れてくれ、いいな」

「なぜデスカ?私はエクソシストですヨ。あなた一人では、とても荷が勝ちすぎると思って手伝いに来たのです。――罠であろうとなかろうと、今サンタ・カーザ神殿とこの町の人たちに危険が迫っているのデス。もし私が行かなければ、芭尾も悪魔も、私を連れて来いと言って、きっと他の誰かを傷つけるのデショウ?」

ミケーレは平然とした顔で、平二を説き伏せる。

「だから俺が神殿に行って、時間までに全員あそこから追い出してくる。俺が一人で奴らを相手にすれば、誰も犠牲になるまい」

平二は話しながら、体に付いている絆創膏やらを外していく。

「……平二サン、あなたが犠牲になるじゃないデスカ。それを私が了承するとでも思うのデスカ?」

「俺なら平気だ。心配するな」

「相手は西欧圏の悪魔もいるのデショウ?あなたには私が必要デス」

そう言ってミケーレは、皺だらけの顔で微笑んだ。

平二は大きなため息をつく。ミケーレは実年齢で平二より十歳年上だ。しかし見掛けのせいなのか、平二の人格は昔からあまり変わらない。その反面、ミケーレは年相応に成熟した貫録を持っている。こうして老人のミケーレと話していると、まるで平二は無鉄砲な若者扱いだ。

このまま言い争っても、ミケーレが折れることはないだろう。平二がどれだけ言っても、ミケーレはついて来る気になっている。追い返すのは無理だ。

ミケーレと平二の会話が途切れると、グレゴリが興味深そうに平二に訊いた。

「なあヘイジ、いったいお前の体はどうなっているんだ?今朝、救急車で運び込まれたとは思えないほどピンピンしてるじゃないか?」

「ネリーナから聞いただろ、俺はストランデットだ。怪しい術を使って蘇ったのさ」

「そううそぶくなよ。ストランデットっていうのは魔法使いじゃないだろう?俺は今日初めて奇跡を見たんだ。冗談抜きで教えてくれ。今朝、全身の骨を折って病院へ担ぎ込まれたお前が、なぜ今こうして元気なんだ?」

カソリック教徒であるグレゴリの言う「奇跡」は特別な意味を持つ。それは偶然起こった幸運ではなく、神によって導かれた稀有な結果なのだ。確かにグレゴリにとってみれば、平二の超回復は奇跡に見えるだろう。

「ヨーガで、体の代謝速度を上げる方法があるんだ。チャクラという体にある気の流れを調節するポイントを目覚めさせる。習得するのに長い時間がかかるが、誰にでもできる」

「そうなのか?じゃ俺にも覚えられるってことか?」

「ああ、ただ習得するには、ほぼ一生かかるがね。死ぬまでに出来るかどうかっていう術だから」

「それじゃ意味が無いじゃないか、覚えてもすぐ死ぬんだろ」

「別に長生きするために覚える術じゃない。修行する過程で手に入れていく成果みたいなもので、本来の目的はもっと別だ」

「で、その習得するまでに一生かかるはずの術を、なんで若いヘイジが使えるんだ?」

グレゴリは平二の年齢まではネリーナから聞いていない。

「俺は本来の目的は無視して、過程の部分だけ利用させてもらっているんだ」

「フーン、よくわからんが、すごいのは確かだな」

グレゴリは感心しているが、体が元通りになったわけではない。骨が折れた箇所は、かろうじて癒着した状態で、落ちた時に下になった左肩と頭を庇った右手は、まだまともに動かせる状態でない。それに体力を消耗しすぎた。汗で流した水分と消費した熱量を取り戻さなければ。

グレゴリが平二を質問攻めにしている間に、車は丘の麓までやってきた。一軒の小さな店の前に車が止まる。

「で、何を買ってくるんだ?ここには大した物はないが」

「すまんが暫くの間お金を貸してくれ。グレゴリはいくら持ってる?」

ズボンの後ろポケットを探って財布を取り出すと、グレゴリは中身の勘定を始めた。さほど持ち合わせが無いらしい。財布を探っているグレゴリに、ミケーレが自分の財布を差し出す。

「この中に二千ユーロ入っています。必要なだけ使ってください」

「おお」と言って財布を受け取るグレゴリをよそに、平二はミケーレに言った。

「すまん、後で返す」

「いいですよ、どうせ使う当てもないお金です。それより、平二サンの服は私が買ってきます」

「助かる。それじゃ、男物なら何でもいい。それとグレゴリは水を二リットル、カロリーの高い炭水化物の食品を沢山だ」

「カロリーの高いものっていってもな、なんでもいいのか?」

「ああ、糖分と脂肪分と炭水化物が一緒になったものがいい」

「……それは、初めて聞く注文だな。一体どこの国の食べ物だ?」

「例えば、ドーナツなんかがいいんだが」

「この店じゃ、そんな洒落たものは無いぞ。料理しないと食えないものばっかりだ」

確かに店構えからして、小さなコミュニティ向けに食材を提供している個人商店だ。この際なんでもと平二が思った矢先にグレゴリが言った。

「この、ちょっと先にピザ屋があるからそれでもいいか?」

「ああ、十分だ」

「それじゃ、ラブティ神父は服を、俺は食い物を買ってくる。――なあ、俺の分も買っていいかな?」

「いいよ、それと…」

平二が眼を向けると、ミケーレは首を横に振った。

「…ああ、食べ物はそれでいい。あと、すまないが携帯電話を貸してくれないか?」

「オッケーだ」

グレゴリは胸ポケットから、体に似合わず小さな携帯電話を平二に差し出すと、走って行ってしまった。ミケーレも車から降りて、道向こうの洋品店に入っていく。

エンジンの止まった車の中は静かだ。運転席の時計はもう四時前を指している。平二は携帯電話を手に、片手で番号を押していく。電話を耳に押し当てたまま、二十回程度も呼出音を鳴らすと、やっと相手が電話に出た。

『………』

「ムイシュコー、俺だ。平二だ」

『…平二か?知らない番号なんで驚いたぞ。』

電話口で話すムイシュコーの声は、雑音が交じる上に元々しゃがれた声なので、余計に聴きづらい。

「芭尾と一緒にいた男が誰なのか分かった。アンドロマリウスとかいう悪魔だ」

『なにっ?』

ムイシュコーが電話の向こうで叫ぶ。平二は思わず電話を耳から離した。

『それで、アンドロマリウスに遭遇したのか?』

「ああ。と言うより、どうやらフィレンツェからずっとつけられていたらしい。――それより、時間がないんだ。その、アンドロマリウスってのはどんな奴なんだ?」

『ソロモン七十二柱の伝説ぐらい知らんのか?いいか、アンドロマリウスは柱の七十二番の悪魔だ。』

ソロモン七十二柱に関しては、最も古くは古代イスラエル王国の第三代王であったソロモン王自身が著したと言われる魔術書「レメトゲン」に記されており、そのソロモン王が使役した七十二の悪魔のことを言う。天使や悪魔を数える際は「人」ではなく「柱」で数える。それ故に「ソロモン七十二柱」と呼ばれている。

この七十二の悪魔はそれぞれが違う能力を持ち、自身の眷族である魔物を率いている。彼らには序列があり、力が強いものがより高い階級にあり、各々が地獄における爵位を持つと言われている。序列の一番目は地獄の王にして剣術の達人バアルだ。別名、蝿の王バアル・ゼブブとも呼ばれる。

『ソロモン七十二柱の序列の末席、三十六の軍団を率いる地獄の伯爵だ。盗人を捕らえ、盗品を取り返す、盗まれたものの在り処を発見する、その他に盗人の罪を暴き、不正を罰する悪魔だ。その姿は悪魔の中では珍しく、ただの蛇を持った男なんだ。文献ごとに姿が変わる悪魔もいるが、こいつだけは、なぜかあまり変わらない。』

電話の向こうで、せわしなく本のページをめくる音がする。

ムィシュコーの話を聞いた平二は、訝しい顔を浮かべた。

「言ってはなんだが、それのどこが悪いんだ?聞く限りすこぶるいい奴じゃないか」

『そうだな、しかしアンドロマリウスは、謀略や策略に長けた悪魔だ。盗品を自分のものにしたり、隠された財宝を横取りしたりしてしまう。ようは盗人が盗んだものを、また盗むようなやつだ。』

「地味だな、序列の末席なだけに」

『馬鹿言っちゃいかん。ソロモン七十二柱と言えば、どれもが伝説級の悪魔ばかりだ。地味などと侮っていると酷い目に遭うぞ。――いいか、少ない代価で最大限の利益を得るのがこの悪魔の能力だ。盗み云々というのは、所詮そうした能力の副産物でしかない。』

平二は、ムィシュコーの言葉に首を傾げる。

「…いまいち良くわからないな。もう少し具体的に教えてくれ」

『要するに、マッチ一本でフェラーリ一台を騙し取れるほど、頭が切れる悪魔と言うことだ。』

ムィシュコーの言葉に、平二が「ほう」と感心したような声を上げる。

『こいつを召還した者は、その知略と能力によって、他者から何もかも奪い尽くすことができる。ところが召還者はその能力を借りた代価として、得た富や財産を根こそぎ奪われてしまうんだ。』

中世のヨーロッパでは、過熱したオカルト・ブームに乗って、多くの魔術書や悪魔に関する書物が著された。そのほとんどは悪魔を呼び出して使役したり、能力を借りたりするための指導書の類である。当然その中には,アンドロマリウスを呼び出す方法も書かれていただろう。

「代価ってのは、魂でないのか?」

『このレベルの悪魔になると、人の魂だけでは満足しない。高位な悪魔ほど、貪欲で即物的だ。――言っただろう、アンドロマリウスは少ない代価で大きな利益を得る悪魔だ。召還し、契約した者も当然ながらその対象になる。そうして全てを失った召還者には、他者を陥れた罪だけが残るわけだ。そして罪人となった召還者の魂は,悪魔と共に地獄行きだ』

「要はケチな盗人だな」

電話口から、ムィシュコーが呆れたように大きなため息を吐く音が聞こえてくる。

『ふうっ、これだけ説明しても、まだ事の重大さがわからんらしいな。――いいか、アンドロマリウスは、元々盗賊の神として崇められた異教の邪神だと言われている。他者から奪うことに力を貸す邪な類だ。どういう経緯でソロモン王が使役したのかわからんが、いずれにせよ、イエス・キリストが誕生する以前からいる悪魔であることは間違いない。』

魔物の力は、それが存在する年数に応じて強くなっていく傾向がある。平二が相手をする魔物でも、千歳を超えることはまずない。今回は古代イスラエルのソロモン王に使役された悪魔だ。ゆうに三千歳は超えている。アンドロマリウスに本気を出されたら、今日の怪我程度では済まないだろう。

『それで、アンドロマリウスと芭尾は、一緒に行動しているのか?』

「多分。日没の頃に、揃ってサンタ・カーザ神殿に来ると言っていた」

『………』

「どうした、何かアドバイスはくれないのか?」

無言のムイシュコーに、平二が急き立てる。

『平二よ、これは私の憶測だがな…』

暫く黙っていたムイシュコーが喋り出した。先程までと違って、ゆっくりと慎重に話す。

『アンドロマリウスと芭尾、奴らの関係は、お前とミケーレのそれと似ている』

「…?」

意味の分からない平二は、無言のまま次の言葉を待った。

『おまえとミケーレは、それぞれ質の違う力を持っている。そして、庇いあうように互いの弱点を補ってきた。だから世界中、どこの魔物と相対してもある程度の対応はできたし、退治もできた。今でも、お前の行く先々でエクソシストが同行するのは、そういう理由もあるわけだ』

ミケーレのようなエクソシストの力は、キリスト教に対峙する悪魔らを祓うには、効果を発揮する。しかし芭尾のようなキリスト教に頓着しない相手には、影響を及ぼすことができない。そうした時は、平二が黙儒を振るって退けてきた。ムイシュコーの言う通り、お互いの持たない部分を補い合っていたことは事実だ。

『本来、悪魔や魔物というのは自己顕示欲が強く、縄張り意識も高い。大抵は単独行動が基本だ。にも拘らずアンドロマリウスが日本から来た物怪の芭尾と行動を共にするのは、何かしら目的があってのことだろう』

「その目的ってのは…?」

『当然、お前やミケーレが狙いなのだろう。そのために奴らは共闘しているんだ。』

平二は、軽くため息をついた。

確かに、平二は今朝、アンドロマリウスとバドロルシススに大怪我を負わされたばかりだ。だとすると、ミケーレや他の聖職者は芭尾の担当ということか。

奴らは、平二がミケーレを案じてロレートへ来るように仕向け、それを追ってきた。アンドロマリウスが策士というのは間違いないだろう。平二は実際にその術中に嵌り、踊らされている。

おおよそ知りたいことを聞き終えた平二は、アンドロマリウスの話を聞こうと食い下がるムイシュコーをなだめながら、早々に電話を切った

奴らの目的は自分とミケーレ、二人まとめて殺すつもりか、あるいはまだ企みがあるのか。次々に疑問は浮かんでくるが、唯一わかっていることがある。芭尾がこの町にいる。長年追い続けた仇にやっと手に届くところまで来ている。

百五十年前、甲斐の国から横浜まで追い詰めた。横浜の外国人居留地に逃げ込んだ芭尾は街を焼き、船で海の向こうへ逃げ遂せた。それからずっと芭尾を捜し続けている。なんであれ、今度こそ芭尾を殺す。その目的を叶える機会がやっと巡ってきたのだ。

だがこのままではミケーレの身が危うい。バチカンにおける最高のエクソシストとまで言われたミケーレだが、老いが遅いとはいえ百八十歳を越えた肉体は、悪魔と戦うには衰えすぎている。

それにグレゴリやネリーナ、そしてサンタ・カーザ神殿にいる大勢の人達も巻き込むことになりかねない。キリスト教の聖職者である彼らは、芭尾を退けることはできないだろう。

「平二サン、何を考えているんデスカ?」

話しかけられた平二は慌てて顔を上げた。考え込んでいた平二は、ミケーレが窓の外にいたことに気が付かなかった。ミケーレの後ろには、洋品店の店主らしき男が大きな袋を両手に持っている。男は車の後ろに回ってトランクスペースへ丁寧に袋を載せると、ミケーレに礼を言って去っていった。

助手席に座ったミケーレに平二が声を掛けた。

「……最後に会ったのは、前教皇の即位式典だったか」

平二が言った。

「そうデス、ヨハネ・パウロ二世が教皇になられた時以来デス」

「お前、顔の皺が増えたな」

平二がミケーレの顔を覗き込んだ。

「ええ、もう歳ですカラ。当たり前デス。――あなたが、変なんデスヨ」

「そうか」

「そうですよ。私はもう老人なんですカラ」

「ところでお前、日本語が下手になってないか」

「もう何十年も使っていないのですから、仕様がないでショウ。それより、あなたの英語は随分と上達しまシタ。――苦労して教えた甲斐がありマス」

「ああ、さすがに百年近く使ってれば、下手なイギリス人よりはうまくもなる」

「それよりイタリア語はどうなんデスカ。相変わらず勉強中なんでショウ?」

「ああ、自己紹介ができる程度には覚えたぞ」

「…それじゃ、三十年前に会った時と変わらないじゃないデスカ」

ミケーレの言葉にひとしきり笑った平二は、改まった口調で言った

「なあ、お前、本気で来る気か?」

「ここは私が生まれた町デス。外国人のあなたが戦うのに、私が逃げることはできまセン」

「……芭尾と悪魔らは日没にサンタ・カーザ神殿に来ると言っていた。だがまだたくさんの人が残っている。相手は強い。俺でもこのざまだ。このままじゃみんな殺されてしまう」

「…それは参りまシタネ」

「だから上に着いたら、できるだけ大勢を連れて逃げてくれないか?エクソシストであるお前の言うことなら聞くかもしれない」

「それで、残ったあなたはどうするのデス?」

「ムィシュコーから結構な聖遺物を借りて来た。それがあれば一人でやれる」

「……」

「わかってくれ。これ以上、奴らの思い通りにはさせられない」

平二は、首を縦に振らないミケーレに食い下がった。

「嫌だと言うなら、今ここで右眼を使う」

「…わかりまシタ。そこまで言うなら、あなたの言う通りにシマス。――とは言っても、皆さん私の言うことを聞いてくれるでショウカ」

「いざとなったら、それこそ右眼を使って全員追い出すさ」

アンドロマリウスは、日没までサンタ・カーザ神殿に残った者は皆殺しだと言っていた。それは冗談ではあるまい。あれだけの力を持った悪魔なら不可能なことではない。平二を残して全員がサンタ・カーザ神殿から逃げてくれれば面倒がないが、場合によっては右眼を使わざるを得まい。下手に邪魔されるより、気を失ってくれていた方がずっとやりやすい。

しばらくして、グレゴリが平たい段ボールでできた箱を幾つも重ねて持ってきた。箱にはアメリカのピザチェーン店のロゴが印刷されている。

「ほら、お望みの高カロリー食だ」

グレゴリが箱を後部座席の平二に手渡す。

「それとこれもカロリーが高いと思って買ってきたぜ」

そう言って、ミネラルウォーターのペットボトルとコーラのペットボトルを差し出した。

「イタリアにもこのピザチェーンが進出しているとは知らなかったよ」

「そりゃあるさ、イタリア人だって安くて早いのがいいんだ」

今は何より早いに越したことはない。グレゴリが正解だ。平二は「そうだな」と相槌を打つと、箱を開けて中身を食べ始める。車の中にピザのにおいが充満すると、グレゴリも手を伸ばしてきた。

「このまま、サンタ・カーザ神殿へ向かってくれ」

「食べ終わるまで待たなくて大丈夫か?」

グレゴリが、二枚目を頬張りながら言った。

「俺を送ったら、グレゴリもミケーレと一緒に神殿から離れるんだ。そのために早く到着したい」

グレゴリが三枚目に手を伸ばしながら言う。

「まさか俺まで逃げろと言う気か、フィレンツェからここまでずっと一緒だったのに。今だって役に立っているだろう?」

「お前だけじゃない。ネリーナやベリンチョーニさんたちも、他にも大勢いる。全員連れて逃げてくれ。――逃げろと言ったら逃げる約束だ」

グレゴリは不服そうに相槌を打ちながら、ピザ一箱をあっという間に平らげてしまった。平二よりグレゴリのほうが食べる量が多い。グレゴリは平二に渡したコーラとは別に自分の分も買ったらしく、ピザをどんどん胃袋へ流し込んでいく。グレゴリの体格がいいのも頷ける。

平二は腹八分目程度まで食べると膝の上にあった箱をグレゴリに渡した。腹いっぱいまで食べると思考が鈍る上に動きづらくなる。

腹が膨れたグレゴリは前に向き直ると、自動車のエンジンを掛けた。

平二もミケーレが買ってきた洋服に手を伸ばす。中身を探ると、黒い革のコートが入っている。袋の中身は、平二が着ていたものとおおよそ同じものばかりだ。

「ミケーレ、すまないが、包帯やらギプスを取るのを手伝ってくれ」

平二は簡易ギプスで固定された左肩をミケーレの方へ差し出した。ギプスとは言え石膏で固めたようなものでなく、応急処置用のパッドをベルトで固定するタイプのものだ。

ミケーレがベルトを外しにかかる。平二もその間に手や足に巻かれた包帯を解いていった。

「うへぇ、ちょっとまだダメじゃないか?」

ギプスの外れた左肩が現れると、バックミラーで様子を見ていたグレゴリが唸った。肩は所々腫れ上がり、背中側に大きな赤黒い痣ができている。痣の色が、皮膚に彫られた刺青と混ざって余計に痛々しい。右手も腫れ上がって皮膚が赤黒く変色している。平二はその手をゆっくりと動かしてみる。頭を庇って複雑骨折をしていた手は、辛うじて指先が動く程度までは回復している。腕は痛みがあるものの、思いの外すんなりと持ち上がった。これならなんとかなりそうだ。

「おい、動かして平気なのか?」

体中、痣に覆われた平二を見て、グレゴリが目を細めている。

「まあ、なんとか」

全てのギプスが取れると、平二の体中に彫られた刺青が露わになった。隙間なく体を埋め尽くした刺青は、ファッションとは無縁の幾何学模様や経文ばかりだ。それは全て、芭尾との戦いに備えて、長い間に施したものだ。

平二が服を取ろうと後ろのトランクスペースに手を伸ばすと、バックミラーに映った平二を見て、グレゴリが声を上げた。

「その背中の傷、それも今日怪我したのか?」

平二の背中に重なるように交差した二つの刀傷は、いずれも痛々しい跡を残している。

「違うよ、古傷だ」

コートを羽織って、病院から持ち帰ったカバンを袈裟懸けにかけると、ほとんど今朝と見掛けが変わらない。全てサイズもぴったりだ。

「ミケーレ、よく俺の服のサイズを覚えていたな」

「当然デス。何年あなたと一緒にいたと思っているのデスカ」

着替え終わった平二を見て、ミケーレが微笑んだ。

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