カフェ・グランデは、ロレートの街の中心にある広場に面しており、晴れた日には、広場にテーブルを出して営業している。小さな町で客は多くないが、それでも昼頃には、出した十二のテーブルが埋まることもある。夜はテーブルを片付け、ネオンを点けてバーとして営業する。娯楽の少ない田舎町では、酒の飲める店が人々の憩いの場所になる。この店は、比較的若い者たちのたまり場のようになっていた。

それが今日に限って、昼になっても店が開いていない。広場に面した店の窓にはカーテンが引いてあり、中を窺い知ることさえできない。

いつもなら、店の主人が淹れるコーヒーの香りが漂い、ウェイトレスがテーブルからテーブルへと忙しく立ち回っている頃だ。にも関わらず、その前を行き過ぎる地元の人々は、誰も気に留めない。誰もそこへ近づこうとはしない。

陰鬱な気が立ち込めるそのカフェは、知らずと人を遠ざける。皆、無意識に見て見ぬふりをしている。

狭い店内のテーブルには、キャメル色のコートに毛皮のマフラーを巻いた東洋人の女性が、足を組んで座っている。肌は透けたように白く、軽くカールした黒髪は胸元まで垂れている。

しかし、その髪に隠れた左の横顔は、まるで頬を引っ張り上げたかのように、引き攣っていた。

それは、かつて横浜から海外へ逃げ延びた芭尾だ。その引き攣った左側の顔には表情こそないが、その顔色から随分と憔悴しているのが見て取れる。

芭尾の向かいには、テーブルを挟むようにして男が座っている。サンタ・カーザ神殿の広場で、平二らを襲ったアンドロマリウスだ。皮のパンツに肩口から袖のないTシャツとライダースジャケット。その剥き出した右腕には、腕に巻きつくように描かれた蛇の刺青が彫られている。しかしそれは刺青とは思えないほど緻密に描かれており、遠目には、まるで本物の蛇が巻き付いているようにも見える。

カフェの中には、狭いカウンターとテーブルが三つしかない。カウンターの奥には大小さまざまな酒瓶がずらりと並んでいる。カフェとはいえ、売上の大半は夜に酒を出す方で賄っているからだ。

まだ日が高いはずなのに、店の中は暗い。立ち込める陰気が空気の色まで濁しているようだ。窓のカーテンを閉め切っているせいだけではあるまい。

その暗い店内の中には、芭尾と男以外に数人の男女がいる。しかし奇妙なことに、全員が壁の方を向いて突っ立っており、お互いに声を掛けることもない。

カウンターの上には、バドロルシススが座っている。平二を襲撃した時と同じ、若い女性の体に取り憑いた姿のままだ。

「それで…ちゃんと、奴には伝えたんだな?」

片側だけ口角の下がった芭尾が、億劫そうに訊ねると、アンドロマリウスが答えた。

「ああ、予定通りだ。自分が尾行されていたことを知った時の顔は、稀に見る焦りぶりだった。お前にも見せてやりたかったよ。――しかし、少し痛めつけすぎたかもな。あれでは死んでしまったかもしれない」

それを聞いた芭尾が、眼を細めた。

「死んでなんの不都合がある?元々そういうつもりではなかったのか?」

口端から唾の飛沫を飛ばしながら芭尾が言うと、アンドロマリウスはそれを避ける様に、大げさに体を仰け反らせた。

「おい、唾を撒き散らすほど興奮するようなことじゃないだろ。――平二のことは俺に任せてもらう約束だ。どのみち今のお前では、奴をどうにもできないだろう?」

そこへバドロルシススが近づいて来た。手には透明の液体の入った小ぶりなグラスを持っている。それを差し出すと、アンドロマリウスが受け取った。アンドロマリウスは、グラスを口に付けると、それを一気に喉に流し込む。

液体を飲み干したアンドロマリウスがグラスを置くと、辺りにアルコールの臭いが立ち込める。

「お前も飲むか?」

アンドロマリウスの問いに、芭尾は首を振った。

「これはウーゾっていう酒だ。ローマ帝国の時代から同じようなのがあってな。まあ長い間に製法も変わった。正直言って、酒としては今のが美味い。――本当にいらないのか?」

芭尾は答えず、嘲る様にニヤついているアンドロマリウスを睨みつけた。

横浜で平二にはぎ取られた頭皮は再生していない。仕方なく残った皮を手繰り寄せて穴を塞いだ。おかげで顔半分が引き攣ったようになってしまっている。この状態では飲み物を口にしても、端から垂れてみっともないことになってしまう。アンドロマリウスは一度その様子を見て以来、都度、厭味たらしく飲み物を勧めてくる。

無視する芭尾に聞こえる様にアンドロマリウスがため息を吐く。そこへバドロルシススがもう一つグラスを持って来た。芭尾が受け取らないので、アンドロマリウスが仕方なくグラスへ手を伸ばす。

「――芭尾よ、お前が提供してくれたこいつは、随分と役に立つな」

アンドロマリウスは仰々(ぎょうぎょう)しく腕を広げながら、テーブルの向こうにいる芭尾に向けて言った。

「貴様の知識、外法とかで作ったこいつは、俺の意のままによく働く。しかも坊主どもの祈りも効かず、屁とも思わん。素晴らしいよ、俺の軍団の悪魔の誰よりも。――まさに常識を覆す存在の誕生だな」

その言葉に、バドロルシススが下品な笑い声を上げた。その様子を一瞥した芭尾が口を開く。

「買い被りすぎだ。――効かないとは言っても程度による。こいつはそこまで万能ではない。しかも、こうやって一人の人間に取り憑いたままにすると、すぐに中身を喰って殺してしまうぞ」

「だからこうしてストックは用意してあるだろうに」

そう言ってアンドロマリウスは、壁に向かって立っている者たちを一瞥する。

「問題はいつ喰い終わるかだ。宿主の人間が死ねば、外に出て行かざるをえない。そうなると、こいつは完全に無防備になる」

「でも煙のようになれるだろう?そうなれば誰も手出しできない。無敵じゃないか」

「…だから、それは買い被りすぎだ」

「現にイノウ・ヘイジは手出しできなかった。しかも二度続けてだ」

「……」

機嫌よくしゃべるアンドロマリウスは、忠告を聞こうともしない。芭尾は苦々しい表情で、軽くため息をついた。

「…とにかく、こいつはまだたくさん作れるわけじゃない」

アンドロマリウスは「はいはい」と面倒くさそうに答えると、改めて芭尾に向けて身を乗り出した。

「それで芭尾よ、お前の方はうまく進んでいるのか?」

「ああ、今日の夕刻にはここに到着する」

「全て計画通り――だから言っただろう、俺は企みに長けた悪魔だと」

アンドロマリウスは腕組みをして胸を張った。芭尾は、その様子を見て眉を寄せる。この悪魔らの大げさで驕った態度は、全く理解も共感もできない。

「必ずミケーレ・ラブティはサンタ・カーザ神殿に現れる。怪我して動けなくなったヘイジの代わりに来る。――そうしたら奴に、お前に刺さったそれを抜かせるだけだ」

アンドロマリウスは芭尾の左の胸元を指差した。そこはコートに覆われてわかりにくいものの、乳房とは違う脹らみがある

それはミケーレに刺された太刀の(やいば)だ。横浜で平二たちに追いつめられた芭尾は、命からがらに逃げ切った。しかし、その時に刺されたこの太刀の刃は引いても抜けず、びくとも動かない。しかも刺された傷は塞がることもなく、開いた傷から妖力が漏れ出していく。

おかげであの時に打たれ、斬られた傷を塞ぐだけで、数十年の時間を要した。行く先々で『人』を喰っては身を隠し、海を越えて追ってきた平二たちから逃げ回った。『人』に引かせれば抜けるかと、幾度か試しはしたが駄目だった。

試行錯誤の末に芭尾が出した答えは、刺した者に抜かせることだった。あの時、ミケーレ・ラブティはカソリックの神父であるにも関わらず、日本の妖怪である芭尾の操る巫蟲を撃退し、その手にした十字架で芭尾を潰さんばかりに押さえつけた。きっとあの男が特別なのだ。

そうして芭尾は、ミケーレ・ラブティに近付く機会をずっと狙ってきた。バチカン市国にいる聖職者を監視するのは至難であったが、目立たぬよう、ローマの貧民街に隠れてじっとその動向を見張った。老いさらばえて、碌に抵抗もできなくなる頃まで待った。物怪である芭尾にとって、人が死を迎えるまでの時間を待つのは、さしたる苦労でないはずだった。

しかし、ミケーレ・ラブティは一向に老いることなく、平二と共に百年以上も生きた。そしてある日、忽然と姿を消してしまった。それまでの苦労が水の泡になったと、芭尾は途方に暮れた。それが八十年も前のことだ。

それからは、胸に刺さった太刀の刃を抜く方法を探し求めた。さまざまな文献を読み漁り、ありとあらゆる宗教に属する知識を得た。だが初めに考えた通り、刺した者に抜かせること以上の答えは導き出せなかった。

しかし、そうして得た知識によって、西欧の錬金術や悪魔学、シャーマニズムや魔術など、新たな理解を深めた。自分が知っていた物怪の外法とは別のやり方が、世界中に存在することを知ったのだ。いずれも根本は同じだ。媒介物は人や獣の血肉と魂を使う。それに自分の妖力が加わることで、面白いように術の効果は倍加する。

そうした過程で芭尾は、目の前にいるアンドロマリウスを召還した。

芭尾が眼にした魔術書の多くに、悪魔を召還し、使役する方法が記されていた。召還するための魔方陣の描き方、捧げる供物や唱える呪文。そのほとんどが中世から近代のヨーロッパで書かれたもので、大衆の好奇心を誘うオカルト的素養に満ちた出鱈目ばかりであった。

しかし稀に本物もある。誰が書いたかは知れないが、物怪である芭尾にとって、それらを見分けることは容易であった。

そうした本物に書かれた知識を使って、芭尾はアンドロマリウスを呼び出した。目的は自分を追う稲生平二を殺すためだ。他にもいくつか考えはあったが、まずはあの男を殺すことが先決だった。

横浜での一件以来、平二の力には到底敵わないことはわかっている。しかも時間を追うごとに、芭尾にとって相性の悪い仏教や神道、他にもアジア圏の宗教の退魔術を身に着けていった。その男が自分を探して追ってくる。心中穏やかでないばかりか、常に逃げ回っていなければならない。

だからこそ、平二の術が通じない悪魔を呼び出した。キリスト教の類が芭尾に影響を及ぼさないのと同じく、西欧の悪魔には仏教の類は意味を為さない。平二を相手にするなら、アンドロマリウスの方が芭尾よりも有利だ。

そのアンドロマリウスから、ミケーレ・ラブティが存命であり、エクソシストとしてイタリア中を転々としていることを教えられた。彼らの間でも稲生平二とミケーレ・ラブティは良く知られた存在になっていた。芭尾を追う道程で、相当な数の悪魔を退治してきたらしい。

だからアンドロマリウスにとっても、芭尾の申し出は渡りに船のようなものであったようだ。少なからず見返りは求められるものの、存外、芭尾が望む通りに事を進めている。

芭尾はバチカンの聖職者を瞳術に掛けた。そうして、いくつも情報を手に入れたものの、肝心なミケーレ・ラブティの居場所だけがわからなかった。そこでアンドロマリウスは平二を誘き出して、ミケーレの元へと行くよう仕向ける計画を立てたのだった。

計画は思った以上にうまく行っている。復讐心に燃える平二は、芭尾が姿を見せただけで冷静さを失い、何の疑いもなしにこのロレートまでやってきた。

こうして今、準備した仕掛けが動き始めた。ミケーレ・ラブティに刃を引き抜かせ、稲生平二を亡き者にするために。

カウンターの上に座ったバドロルシススは、胸に残った片方だけの乳房を持ち上げて噛みついている。バドロルシススは顎に力を入れて、力任せに肉を引きちぎった。鮮血がしたたり落ちて、カウンターと床を汚す。とは言え、既にあちこち血だまりが出来ているので、今さら気になるものでもない。

バドロルシススは、芭尾が得意とした巫蟲の術と錬金術にある人造人間――ホムンクルスの生成法を応用して作られた新しい魔物だ。芭尾の作った巫蟲がその血肉となって、細かい粒子の集合体を形成している。そしてアンドロマリウスのような強い悪魔の血が混ざることで、意思を持つ魔物になった。その性格や性質は、血を与えた者を引き継ぐと同時に、血の繋がりを裏切らない。血の提供者である使役者に対して絶対服従する。しかも芭尾の妖力とアンドロマリウスの魔力の両方を擁するバドロルシススは、それぞれの特性を兼ね備えている。言わば、アジア圏とヨーロッパ圏の宗教的な攻撃から、それぞれ半分程度の影響しか受けることがない。

だが、妖力が枯渇している芭尾は、目の前にるバドロルシススを生み出すだけでも相当な時間を掛けている。思った以上の出来に、アンドロマリウスからは複数体提供することを求められたが、これまでに作り出せたのは未だこの一体だけだ

「芭尾、その刃が抜けた暁には…」

アンドロマリウスが口にした言葉を遮るように、芭尾は頷いて答えた。

「わかっている。契約はちゃんと守る」

これを聞かれるのはもう何度目であったか。西欧の悪魔は契約に絶対的な重きを置いている。約束に対しての報酬が彼らの全てだ。日本の物怪と違い、長らく階級社会を形成している悪魔にとって、こうした取引は一定のルールの下に行われており、ギブアンドテイクが基本なのだという。芭尾は、こうしたまどろっこしいやり取りに辟易としていた。

カウンター上では、耐え切れなくなった女性の体が横たわり、その口から黒い煙となったバドロルシススが漏れ出している。その性格は極端に凶暴で残忍だ。必要以上に食欲が旺盛で、与えられた餌をどんどん喰い潰してしまう。アンドロマリウスに似たのだろうが、巫蟲の貪欲さも残しているのだろう。この女も昨日与えたばかりなのに、一日足らずで喰い残したまま殺してしまった。

「そうだ芭尾よ。約束の時間までに多少それらしい演出も必要だと思うが、どうだ?」

両手を組んだアンドロマリウスが笑みを浮かべながら言う。しかしその眼は笑っていない。

「…演出?」

「そうだ、悪魔と神に仕える者たちの決戦だ。しかも両陣営には日本からのゲストが来ている。――実は、今回の件は、我々の中でも注目の的でね。私も数世紀ぶりの主役株なもんで、張り切っているんだ。だから、いいだろう?より決戦らしい演出をこの町に施すんだ」

態度も大げさなら、発想も面倒なほどに過剰だ。

「フンッ…勝手にすればいい」

芭尾は、バドロルシススが新しい餌に入り込んでいくのを横目にしながら、頬杖をついた。

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