十一、再会

 

「おお、ヘイジ!目が覚めたか」

眼を開けた平二は、ベッドの上に横たわっていた。目の前には真っ白い天井が広がっている。グレゴリの大声と共に医療機器が鳴らす電子音が聞こえる。

サンタ・カーザ神殿でアンドロマリウスとバドロルシススを相手にしていた。取り憑かれたネリーナに羽交い絞めにされて、なんとか抜けだしたところを空高く放り投げられ、巨大な蛇に突き飛ばされた。しかし、その後の記憶が全くない。突き飛ばされた後、落ちて気を失ったのか、どの程度の高さから落ちたのか、体は動くのか、混乱している頭の中を整理しながら辺りを見回す。すると首に鋭い痛みが走る。

「おい、動いちゃダメだ。体中の骨が折れているんだって」

グレゴリの声は聞こえるが姿見えない。頭を動かすことを諦めて、体の故障箇所を確かめていく。右足、左足と順に動かしていくと、あちこちで激痛が走る。特に左側の肩のあたりは酷い。痛みさえ感じない程に麻痺している。きっと肩から落ちたのだろう。肩甲骨はグシャグシャになって潰れたに違いない。咄嗟に頭だけは守れた。その証拠にかばった右手は痺れて動かない。

「とにかく安静なんだ。医者が言うのは生きてるのが奇跡だってさ。良かったな、神のご加護だ」

加護があるなら、最初からこんな痛い思いはしていない。異教徒の俺は守ってもらえはしないだろう。そう言えば、キリスト教徒であるネリーナはどうしただろうか。

「…ネリーナは…どうした?…」

喋ると声が体の中で響いてあちこちが痛む。痛む場所が多すぎて、どこが痛いのかがわからなくなってくる。

「ああ、ネリーナはベリンチョーニ先生と一緒だ。教会堂の地下にいる。悪魔に憑かれているから自分を閉じ込めて欲しいって。あそこの地下には、昔の坊さんが修行するための房があるんだ。とにかく今はその地下室にベリンチョーニ先生と一緒にいる」

「…無事…か?」

「ああ、怪我一つ無い、無事だ。だけどお前のことを心配してたよ。自分のせいだって言ってさ。あんなに取り乱したネリーナを見るのは初めてだ」

仕方あるまい。この数日間で二度も悪魔に体を乗っ取られている。ましてネリーナはエクソシストだ。相当に自信を失っているだろう。

「聞いた…か?」

「何をだい?」

「………悪魔のこと…言ってなかったか?」

「ああ、なんとかって悪魔がまた来るって話をしていた。コラッツィーニ神父とベリンチョーニ先生に話しているのを聞いたよ。」

「で…、どうなる」

「どうもならんさ。悪魔が来るから逃げるなんて、とんでもないってさ。ベリンチョーニ先生は若い連中だけでも避難させたらなんて言っていたけど。――そうそうバチカンに連絡したら、エクソシストの人達が、すぐにロレートに来ることになったそうだ。なんでもコールマン神父っていうネリーナの師匠だった人も来るらしい」

平二はバチカンで会った、浅黒く大きな体をしたコールマンの姿を思い出した。奴もまた芭尾を追っている。平二たちが既にロレートにいることがわかってしまっただろう。事態は悪化していくのに何一つ希望がない。バドロルシススに病院送りにされてしまった上に、コールマンまでロレートにやってくる。

コールマンと聖秘跡省の動きは明らかに不可解だ。芭尾はミケーレの居場所を知らず、平二を嵌めてロレートまで来させた。だとすればコールマンは、どうやって芭尾の居場所を知ったのだろうか。

「医者が三日は眠ったままだって言ってたけど、ほんの数時間で眼を覚ますなんてな。サムライは鍛え方が違うんだなぁ、おい」

グレゴリは笑いながら言った。

そうだ、アンドロマリウスは日没にまた来ると言っていた。いったい何時間ここで眠っていたのだろうか。平二は視界の中に時計を探すが見当たらない。

「グレゴリ…今…何時だ?」

「おお、今ちょうど昼の十二時を回ったところだ」

「日没は…何時頃だ?」

「さあ、この季節だから早いだろうな。なんで、そんな事聞くんだ?」

「悪魔は…日暮れに来ると…言っていたんだ。聞かなかった…か?」

「俺も全部聞いているわけじゃないから――ちょっと調べてくるから待ってろ」

グレゴリはそう言うと、立ち上がって病室を出ていく。

まだ十二時なら時間はある。ローマにいるコールマンは高速列車を使ってもロレートまで五時間はかかる。まだ到着していないはずだ。

グレゴリがバタバタと足を鳴らして走ってくる音が聞こえてくる。すると廊下で女性が鋭い声で何か叫んだ。きっとグレゴリが看護師に怒られでもしたのだろう。

「ヘイジ、受付にいた奴にインターネットで調べてもらったぜ」

そう言いながら、グレゴリは平二の傍らにある椅子に腰掛けた。

「今日、このあたりの日暮れは午後四時五十分だってさ」

「…病院から…神殿までどのくらい…かかる?」

「そうだな、車で二十分ぐらいかな」

「グレゴリ…三時まで寝るから…また車で…来てくれ」

「まさか神殿に戻るつもりじゃないだろうな?医者は退院するまで一ヶ月はかかるって言ってたぞ」

「…三時になったら…俺を起こして…ハァ…神殿まで連れて…行くんだ」

痛みで息が荒くなる。喋るのが辛い。

「ちょっ――本気かよ」

「それと……頼みが…ある」

囁くような平二の声に、グレゴリが耳を近づけた

「…昨日話した、…ラブティ神父のところに…行って欲しい」

「おお、そうか。お前の知り合いって、エクソシストだったな。その人にも来てもらえば…」

グレゴリの言葉を遮って、平二は怪我人とは思えない強い口調で言った。

「駄目だ…!あいつには……ロレートから…離れろと伝えてくれ」

「え、どうして…?」

「頼んだ…ぞ」

「…わかったよ」

「……とにかく…頼んだ」

そう言うと平二は黙ってしまった。グレゴリが話しかけても、眉ひとつ動かさない。

とにかく時間がない。芭尾と悪魔たちがサンタ・カーザ神殿にやってくる。それまでに迎え撃つ準備をしなければいけない。とにかく今は、少しでも傷を癒すことに集中しなければ。

平二は股の間あたりに意識を集中して、体の気の流れを捉える。

アジア大陸を放浪し、行き着いたチベットの山奥でチャクラをコントロールする術を会得した。初期の仏教で開明し、ヒンドゥーでの発展を経て、ヨーガの本質へと確立されたチャクラのコントロール。それは体内を流れる気の循環を高める方法である。

チャクラとはサンスクリット語で車輪や円を意味する言葉だ。チャクラは体の中心線に沿って、会陰部(えいんぶ)尾底(びてい)(へそ)、胸、喉、眉間(みけん)、頭頂部に存在しており、それらを順に体内の気が輪を周るように循環している。気の中継ポイントであるチャクラをコントロールすることで体内の気の流れを早め、運動能力をアップさせたり、気の流れを抑えて体の代謝を止めたりすることが可能になる。

インドで額に印を付ける「ビンディ」は眉間のチャクラを表している。また宗教画で釈迦の頭部に描かれる光の輪は、高位な聖人のみ得られるという頭頂部の第七チャクラであるという。平二は、チベットで会陰部の第一チャクラから眉間にある第六チャクラまでのコントロールを会得している

平二は会陰部のチャクラから順に、眉間までの六つのチャクラに意識を集中させる。そして意識的に右眼の霊力を開放して、気の流れに乗せていく。チャクラで気の流れを早くすれば、体の代謝が飛躍的にアップする。だがこれだけの大怪我を治すには、やはり一週間は必要だろう。しかし平二は、体温の急激な上昇とそれに伴う体力の消耗と引換に、右眼から無尽蔵に溢れだす霊力を気の流れに練り込むことで、尋常でないスピードの代謝を促すことができる。わずかな時間でどれだけ体を回復させられるのか、とにかく今はできることをするだけだ。

平二は満身創痍にもかかわらず、気持ちが高揚しているのを意識していた。百五十年もの間、捜し続けた芭尾がこの町のどこかに潜んでいる。嵌められはしたが、芭尾を倒す機会が巡ってきたことには違いない。体の火照りは、決して気と霊力の流れのせいだけではないだろう。

じんわりと体中が汗ばんでいくのを感じながら、平二はそのまま眠りについた。

 

ミケーレ・ラブティが故郷のロレートヘ戻ったのは、今から十五年前のことだ。

一八六六年の横浜での出来事以来、ミケーレは平二と共に芭尾を追った。十年近くの間、二人は世界中を旅した。芭尾の行方は澳門(マカオ)を後に完全に断たれてしまったからだ。芭尾が乗っていたヨハン・オールトの商船団の船は、澳門に到着することなく、海上で無人の状態であったのを発見された。海賊に襲われた様子もなく、発見された当時の船内には、十分な水と食料もあり、積み荷も無事であったという。

その後二人は何ら手懸りも掴めず、噂や伝聞だけを頼りに世界中を渡り歩いた。路銀はミケーレがイエズス会から得たもので賄っていたが、すぐに足りなくなった。行った先にある教会で金銭を借り受けることもあったが、それにも限界がある。そこで平二は、右眼の力を使って霊媒師の真似事を始めた、意識せずとも見える平二にとっては簡単な仕事だった。こうした行為で報酬を得ることにミケーレは大いに不服ではあったが、見えない人たちを騙さないことを条件に渋々了承した。

そうして行く先々で、悪霊や魔物を退治してきた二人は、十年近いの旅程の後にバチカン市国へと赴いた。芭尾の捜索に対する協力を得るためだ。たった二人で世界のどこにいるかもわからない芭尾を捜すのは、そもそも無理がある。カソリック教会は世界中に宣教師を派遣している。そしてその総本山たるバチカンには、世界中から霊的な事象に関する報告が集まってくる。

カソリック教会において、最も高い権威を持つバチカンの教皇庁に対し、ミケーレは自分が体験したありのままを伝えた。横浜で起きたこと、芭尾のこと、物怪のこと、そして過去十年に渡って平二と共に体験したこと。それは、当然強い批判と反発を受けた。物怪と呼ばれる魔物の類がキリストの力に屈服しなかった話など、保守的な信仰者たちには到底受け入れられない話だった。

しかし、時の教皇であったレオ十三世はその話に耳を傾けた。レオ十三世は「理性と信仰の調和」を唱え、それまでカソリック教会が否定してきた科学思想の受け入れと、近代社会との融和を訴えた人物である。それ故に、ミケーレが自身の宣教活動を通して得た経験と知識を、詳細に報告する場が与えられたのであった。

ミケーレは、レオ十三世の前へ平二を連れて行った。教皇の御前に異教徒の平二を連れて行くことに躊躇いはあったが、まさに平二こそが、ミケーレ自身の話を裏付ける証拠であったからだ。

紆余屈折はあったものの、最終的に教皇庁は、ミケーレが提言したカソリック教会を中心とした世界的なエクソシストの組織設立に賛同の意を示した。その特異な組織体の性質から省組織にはならなかったものの、IEA(InternationalExorcistAssociation=国際エクソシスト協会)は、バチカン市国内にその在り場所を得ることができたのである。

IEA設立によって、カソリック教会のネットワークから世界中で起こる怪異現象の情報を得ることが可能になった。芭尾を追う包囲網を世界中に広げることができるようになったのだ。

それでも芭尾に関わりのありそうな情報は、ごく僅かしか手に入らなかった。それは芭尾が、平二の妻であったおゆうの皮を被って逃げたことも大きかったかもしれない。芭尾は人の皮を被っている限りは、如何に強い聖職者や霊能力者であっても、その真の姿を見破ることはできない。芭尾は完全に人間社会紛れ込んだか、あるいは人目に付かない場所に潜んだか。

不審な東洋人女性がいれば、平二とミケーレは世界中どこへでも行った。大抵は芭尾とは関係のない事で、稀に痕跡が見つかる程度。しかし一向に芭尾の行方は知れず、平二たちの焦燥感は募る一方であった。

だが、そうした過程において得るものもあった。宗教、風俗、地域、文化、言語などの違いによらず、平二のように悪魔や魔物を攻撃できる者が世界中にいることを知った。そうした彼らとも協力体制を敷き、IEAという組織はカソリック教会のみならず、他宗教との繋がりも得ることで、全世界規模で悪魔と魔物に対抗する組織となっていった。

そうしてIEAの初代協会長となったミケーレが、自分の体の不変に悩み始めたのは、齢六十を過ぎた頃だった。同世代の者たちに比べると、明らかに老化が遅かった。

平二は右眼の力のせいか、全く歳を取らずにいたので、一緒にいたミケーレは、自分の見掛けがそれほど変わらないことが気にならなかった。しかしある程度年齢を重ねると、明らかに自分が普通とは違うことに気が付き始めたのだ。

平二と違い、ミケーレは魔物の眼を持つわけではない。唯一考えられる理由は、横浜で芭尾に殺されかけた時、円狐に救ってもらったことだけだ。

あの時、円狐は自分の命と引き換えに、ミケーレの傷を癒し、その命までも救った。しかし円狐に貰った命は、ミケーレを常人より長命にし、老化を遅らせているらしい。ミケーレは六十歳を超えてなお、顔には皺や染み一つなく、髪の生え際も幾分後退した程度だった。

周りの訝しむ目を気にしつつも、ミケーレはIEAの長を務めた。IEAが組織として大きくなってからは、バチカンに居て、平二の芭尾捜索をサポートし続けた。組織の運営、多種多様な情報の収集と整理、エクソシストや、平二のような協力者たちの育成と勧誘。それは多忙を極めたが、平二の助けになればと、ミケーレは協会長の務めに専念したのだった。。

しかし年齢が百歳を越えた時、ついに引退を決意した。協会長の職を六十年も継続して努めれば、周囲の詮索は過剰なほど執拗になる。神父であるミケーレの長命を奇跡と囃し立てる輩もいれば、IEAの組織の性質から、悪魔との関連を疑う者までいた。

ミケーレは、協会長の座を後任に譲り、書類上で死亡したことにした。死亡届を出すのに、自分で役所に行っても疑われることさえなかった。その時点でもまだ,ミケーレの見掛けは十二分に若かったのだ。

それからは一介のエクソシストとして、イタリア中を転々とする生活を始めた。平二と共に芭尾を追うことも考えたが、そうはしなかった。元々、平二ほどの動機も持ち合わせていない。聖職者であるミケーレは、平二ほどの憎しみを、芭尾に対して持ち続けることができなかったのだ。

平二はミケーレの選択に寛容だった。お互い百年も一緒に同じ目的をもって過ごしてきた。相手の言わんとすることは、説明されなくてもよくわかる。一線を退く決意をしたミケーレに対して、平二が「そうか」と一言返しただけであったのは、ミケーレにとっても救いであった。

それからは、時々バチカンに顔を出し、稀に平二と顔を合わせた会った時には、事情を知る者たちを交えて、朝まで語り明かした。

極端に長命である自分の存在が世に知れることを望まなかったので、あまり長期間一カ所に留まらない様にした。それは寂しくもあったが、新たな出会いもあり、決して孤独な隠遁生活ではなかった。

自分の見掛けが八十歳程度には見えるようになった十五年前、故郷のロレートに移り住んだ。最後を迎えるのは故郷の地と決めていたからだ。昔のように、サンタ・カーザ神殿にいることはできないが、近い場所に居を構えることはできた。

ミケーレの住む小さな集落は、サンタ・カーザ神殿から車で三十分ほどの場所にある。しかし、公共のバスが通る道までは歩いて三十分かかるので、車を持っていなければ実質一時間以上かかる。日々の生活は、近隣に住む人たちが手助けをしてくれているので、特に困ることもない。質素な毎日を送り、稀にエクソシストとしての務めをこなす。若いころに感じた鬱々とした無力感はない。横浜で自分の使命を悟ってからは、充実した日々を送った。その使命に区切りをつけた今も、それは変わりない。

ただ唯一心残りなのは、平二を残してこの世を去ることだけだ。彼はまだ戦いを終えていない。剣を置かず、あの日のままに芭尾を追い続けている。いつしか彼は一人この広い世界で芭尾を追っていくことになるかもしれない。それを思うと、やり切れない思いで胸が締め付けられる。

小さな石造りの家の庭で、木製のベンチに腰掛けながら、ミケーレは聖書のページをめくる。一人暮らしの老人にとって一日は長い。おおよそするべきことが終わると、日がな一日、庭で聖書に眼を通す。たまに近隣の老夫婦が訪ねてくるが、それも週に一度くらいのものだ。こうして聖書を読みふけりながら、息を引き取りたいものだと思う。しかしそうした機会は訪れないまま何年も過ごしている内に、これが毎日の習慣になってしまった。

集落に住む人々は年老いた者が多い。おかげで生活感のある音はほとんど聞こえない。風が傍らを抜ける音、木々の葉が揺れる音、そうした音に囲まれて送る生活は退屈であっても、憂鬱ではない。

そうして聖書を読むミケーレの耳に、聞き慣れない車のエンジン音が届いてきた。車は滅多にやって来ないので、周辺に住む人たちの車の音が聞き分けられるようになってしまった。隣家に介護サービスが来るのは今日ではないはずだ。

音のする方を向いたミケーレは、自分の家の前に止まった古いフィアット・パンダを見た。パンダはヨーロッパではポピュラーな小型車だ。車から一人の男性が降りてくる。彼は庭にいるミケーレに気付くと近づいてきた。

「あの、ラブティ神父の家は、こちらで?」

髭面が笑みを浮かべている。グレゴリだ。

「私がミケーレ・ラブティです。何か御用ですか?」

グレゴリは老人の姿をまじまじと眺めた。平二の友人にしては、随分と歳が離れ過ぎている。

「あの神父さん、俺はグレゴリ・ダレッシオっていいます。その、前に悪魔を祓ってもらったネリーナの友人で…」

ミケーレは両手を胸前で打つと、嬉しそうに答えた。

「…ああ、彼女のことはよく覚えています。ネリーナ・モランディだ」

ミケーレがそう言うと、グレゴリを庭の中へ招き入れた。

「さあこっちへ。外は寒いから、中でコーヒーでもどうでしょう」

そう言いながらミケーレは、家のドアを開けると中に入っていった。開け放たれたドアから、グレゴリも続いて入っていく。

家の中はおよそ生活感が見られない。小さな平屋の中には、奥にベッド、隅にキッチン、真ん中にテーブルが置いてある。しかしキッチンには碌に調理道具もなく、電気ポットぐらいしか見られないし、テーブルの上にも何もない。まるで昨日越してきたばかりの家のようだ。

ミケーレは真中にあるテーブルにグレゴリを座らせると、キッチンにある電気ポットに水を入れて、スイッチを押した。

「ネリーナのお友達ですか。久しぶりに聞く名前です。私が彼女に出会ったのは、もう十数年前になります。今でもお元気ですか?」

キッチンに立つミケーレは、棚から出したカップにインスタントコーヒーの粉を入れながら言った。

「ええ、――そのネリーナは、今はエクソシストなんだけども…」

それを聞いたミケーレが振り向いた。

「なんと!それは知りませんでした。彼女はそうした道を選んだのですね」

そう言ってミケーレは、グレゴリの前に座ると、満面の笑みを浮かべた。

「彼女に憑いた悪魔には本当に苦労しました。三日三晩、寝ずに祈祷したんですよ」

「でもネリーナは、その時のことを忘れちまってるんです。悪魔に憑かれたってことだけは覚えているのだけど、でもラブティ神父のこととか、よく覚えてないらしい」

グレゴリは申し訳なさそうに言った。

ミケーレがネリーナに出会った当時、ネリーナは修道女としてサンタ・カーザ神殿に暮らしていた。ある日、同じ修道女の一人が、祈りを捧げるネリーナの体が宙に浮いたと言い出した。それが事の発端であった。

それから女子修道院で眠るネリーナのベッドの傍らに、男性の影を見たという者が現れた。それ以外にも、夜間に修道院を徘徊するネリーナが頻繁に目撃された。

身体の不調も訴えるようになった。毎晩金縛りにあい、誰かに圧し掛かられるような感覚に(さいな)まれるのだと言う。それは数週間続き、ネリーナは心労のせいか、食べ物を口にしなくなってしまった。

日を追うごとにやせ細っていくネリーナを案じたベリンチョーニは、彼女を病院へ連れて行くものの、なんら原因がわからない。拒食症だろうかと診断されるものの、与えられた薬を飲んでも一向に回復しない。他の精神疾患を疑ったものの、結局不調の原因はわからないままだった。

そして遂に、祈りを捧げていたネリーナの体が、皆が見る前で浮き上がった。

その日を境にしてネリーナの様子が一変した。その人格は入れ替わったかのように粗暴になり、言動は時間が経つにつれて非道くなっていく。あどけない少女であったネリーナの顔は変貌し、血走った目をぎょろぎょろさせて、誰彼かまわず(ののし)った。

あまりの変貌ぶりに、すぐさまエクソシストのミケーレが呼ばれた。聖水を振りかけられたネリーナの皮膚は真っ赤に腫れ上がった。ミケーレが祈り始めると、手足を痙攣させて、男性数人がかりでも押さえられないほどの力で暴れた。

不眠不休で続いた祈祷によって、ネリーナの内に取り憑いた悪魔は消滅した。しかしネリーナは、悪魔に憑かれていた間のことをすっかり忘れてしまっていた。悪魔が消滅してから一週間も意識を失ったままだったネリーナは、悪魔に取り憑かれた恐怖や不安だけを残して、過去一か月近くの記憶を失っていたのだ。

「彼女が記憶をなくしたことは、ベリンチョーニ修道士にも聞きました。誰でも嫌なことは忘れたいものです。でも、例えそれが辛い経験であっても、思い出せないと言うのは、大変苦しい事でしょうに」

ネリーナの内にいた悪魔は消滅したはずだ。それは祓ったミケーレも確信している。しかし、記憶のない本人がその確証を得ることは不可能だ。

「本人はそれで悩んで、エクソシストを目指したって。もう悪魔に取り憑かれないためにって言っていました。それで今は、バチカンのIEAってエリートばかりいるところで働いていているんです」

「ほう…そうでしたか」

そう言うと、ミケーレは笑顔で頷いた。

「記憶が戻らないのは、彼女の心の問題でしょう。――彼女が望むなら、きっといつか思い出せるはずです。神は必ず彼女を導いてくださる」

グレゴリもうんうんとミケーレの言葉に頷いた。

「ああ、あとベリンチョーニ先生は、今は修道院長になりました。本人はあんまりうれしくないらしいけど」

「そうですか。最後にお会いしたのはもう随分前ですが、お元気ですか?」

「ええ、随分と耄碌(もうろく)しているけど、未だにでかい声で説教されます」

グレゴリが頭を掻くとミケーレは微笑んだ。

その時、電気ポットの湯が沸いて、押していたスイッチが跳ね上がった。ポットからお湯が沸くボコボコという音が聞こえる。ミケーレは立つと、用意していたカップに湯を注ぐ。

「あの、ラブティ神父は、いつからここに…?」

グレゴリは殺風景な部屋を見回した。必要最低限のものしかない部屋は、とても長く暮らした生活感がない。昨晩聞いた話では、十年以上はここに住んでいるはずだ。

「ああ、この部屋でしょう。質素な生活をしていますからね。よく人から言われるんですよ。部屋が片付き過ぎているって」

グレゴリはミケーレが差し出したカップを受け取った。

「この歳になると、必要だと思える物が随分と少なくなります。それに、いつ神のもとに召されるかもしれませんから……」

「そんな。ラブティ神父はベリンチョーニ先生と違って、まだまだ元気そうじゃないですか」

「……そう見えますか?」

グレゴリの言葉にミケーレは力なく答える。何やら残念そうに言ったミケーレに、グレゴリは首を傾げた。

「まあ、俺にはこんな生活は難しいかな。実は俺も、もともとサンタ・カーザ神殿の修道院にいたんです。でも、どうしても耐えられなくて落ちこぼれちまったんだから」

「そうですか。――一体、何に耐えられなかったのです?」

「何だか、我慢をすることと神様を愛することが、どう関係があるのか、どうしてもわからなくて。――そりゃ、俺なりに今でも神様は愛してるんです。でも俺が我慢すると、どうして神様が喜ぶんだろうって思うんです。おれは腹も減るし、テレビもみたい。それだって神様が作った俺なんですから」

グレゴリの言葉に頷いていたミケーレは、静かに答えた。

「それは欲求と悩みの繰り返しを絶つためです。――いいですか、欲求と悩みは同等であり、等しく同じものです。欲すれば悩み、悩めば欲する。この繰り返しに固執するうちに、人は大切なものを失っていくんです」

ミケーレは手に持ったカップをテーブルに置くと、グレゴリの手を握った。

「大切なものとは、人を救おうと思う気持ち、自分を犠牲にして誰かの幸せを願う気持ちです。イエス・キリストは、あまねく全ての人々を救うために、この世に降り立ちました。誰彼分け隔てなく、自分を害する者まで救うためにです。――持たないと悩めば欲しくなり、欲しいと思えば誰かから奪う。救うべき誰かから奪うのは、神の意思に反することです」

グレゴリは、神妙な顔で頷いた。

「修道院での生活は、そうした繰り返しから自分の身を遠ざけるためなのです。自らを律するために、世間から隔絶した生活を送る。楽ではありませんが、学ぶことは多いはずです」

黙って聞いていたグレゴリは、頷きながら言った。

「ラブティ神父の話を聞いたら、なんだか分かったような気がします。うん、今なら修道士に戻っても、やっていけそうだ」

カップのコーヒーを啜ったミケーレは、その言葉を聞いて微笑んだ。

「ところで、グレゴリはなぜ私のところへ?」

「ああ!すっかり話に夢中になってました。――ラブティ神父、ヘイジ・イノウって知ってるでしょう?」

それを聞いたミケーレが眼を見開いた。

「えっ!今なんと…」

「あの、ヘイジ・イノウって、日本人でエクソシストです。ネリーナと一緒にバチカンから来たんですよ。あいつは、ラブティ神父は友達だって言っていたけど…」

「…はい。私のとても古い友人です」

「その、いろいろと話すと長いんだけど、とにかくヘイジは今、ロレートの市民病院にいます」

「……」

ミケーレの顔は、先ほどまでの柔和な笑顔から、神妙な面持ちに変わっている。

「悪魔にやられて、全身骨折とかいろいろと大変なんです。本当は自分でここに来るつもりだったらしいんだけど、来れないから、俺が代わりに来ました」

「それで、ヘイジさんは何のためにここへ来るつもりだったのですか?」

「あの…ヘイジは、あなたにすぐここから離れるよう伝えてくれと…」

それを聞いたミケーレは、片手で頬杖をつくようにして顔を押さえると、大きくため息をついた。その様子は、まさに呆れたという感じだ。

「全く、なんでいつもこうなんでしょう。――なんでも自分で背負いこんでしまう。何年経っても変わらない人だ」

カップのコーヒーをすすったミケーレは、グレゴリに向きなおった。

「とにかく、詳しい事情を教えてください。どういうことなのですか?」

ミケーレの顔つきは、先程までのうらぶれた老人の顔から、打って変わったように生気に満ちている。様子の一変したミケーレに、グレゴリは大きく唾を飲み込んだ。


  次へ
  次へ