女性は平二から十メートル程度の距離で足を止めた。長い髪に浅黒い肌、まだ暗い朝にもかかわらずサングラスをかけている。十二月の寒いイタリアで、薄手の黒いシャツにパンツ姿だ。

平二は女性の胸辺りに眼を止めた。二つあるはずの乳房の右側がない。左側だけ盛り上がっていて、胸の辺りの凹凸が見慣れない様子になっている。

平二はじっと待っている。相手の出方を探っているのだ。

女性も微動だにせず、サングラス越しに平二を見つめたままだ。平二の眼には、重たい漆黒の気配が女性の体から発せられているのが見えている。その気配の様子は、フィレンツェでバドロルシススから発せられていたものと同じだ。

女性はサングラスに手をかけると、それを少しずらした。

上目づかいで平二を見る両眼は、ネリーナがバドロルシススに取り憑かれた時と一緒だ。目玉全部が真っ黒に染まっている。

「早かっタね。モっとかかると思ったんだけどナ」

バドロルシススは女性の口から話しかけてきた。そのザラザラとして聞きづらい声は、とても女性のものとは思えない

バドロルシススを見据えた平二の顔には焦りはない。むしろ嬉しそうでもある。サンジェルマンの確信に間違いはなかった――芭尾はこの町にいる。

「復讐ヲ諦めたわけジャないみたいダナ」

「芭尾はどこだ?」

「待てヨ、その前にお前に用が……」

「芭尾はどこだ?」

バドロルシススの言葉を遮る様に、平二は力強く、静かに言った。

バドロルシススは顎を持ちあげて、不機嫌そうに返す。

「貴様の話は聞いてイない!黙って俺の言うことを聞けヨ!」

「知るかよ。俺がここに来たのは芭尾を殺すためだ。お前と話をする気はない」

平二の言葉が気に触ったのか、バドロルシススは声を荒げた。

「ああっ?あんなケモノのことなんテ、絶対教えてやらないカラな!」

女性の体を借りたバドロルシススが足早に近づいてくる。平二は咄嗟に腰の鞄に手を突っ込んだ。それを見たバドロルシススが足を止める。真っ黒に染まった目玉をむき出しにしたまま、(まばた)き一つしない。

バドロルシススは腰を曲げて、平二の顔を下から睨めつけるようにしながら言った。

「何か持ってイるようだが、簡単に俺は倒セんよ。なんせ俺ハ特別だカラな。ヒヒヒ…」

下卑た笑い声を吐き出しながら、バドロルシススは後ずさる。平二がなにか仕掛けてくるのを警戒しているのだ。

「さっさと芭尾の居場所を言え。俺に何の用か知らんが、それは後回しだ」

平二が挑発するにも関わらず、バドロルシススは笑ったままだ。

「残念だなァ、お前には芭尾の居場所が分かラない」

「だったら、自分で探すさ」

「ヒヒヒッ、お前、自分ノ立場が分かっテないダろ」

バドロルシススは自分が優位な立場であることに気が付いている。平二には芭尾の居場所を探す手立てがないことを見抜いているのだ。

「芭尾はどこだ?」

「教えないヨ、ヒッヒヒ」

バドロルシススは声を上げて嘲笑った。平二の右眼は徐々に赤黒い光を放ち始める。

「そうだ、それだ!魔物らしくてイイ!どんどん力が大きくなってイクじゃないカ」

平二は焦りと怒りが綯交ぜになった感情を抑えきれない。右眼はゆっくりと赤黒い光を強くしていく。バドロルシススが放つ気配とは別の気が辺りに広がっていく。

「ヘイジさん!」

ネリーナの声が響いた。ベリンチョーニらを避難させたネリーナが、戻ってきたのだ。

ネリーナは、慌てたように背後から平二に近寄ると、その肩を強く叩いて、そのまま強く手を握りしめた。

「ヘイジさん、落ち着いて!」

そう叫ぶネリーナの体は、平二の気に当てられて総毛立った。平二に触れた瞬間、体中に悪寒が走リ、手を離せなくなるほどに体が強ばってしまったのだ。

「心配するな、ちゃんと力はコントロールしている。――さあ、これからアイツをとっちめて、芭尾の居所を吐かせてやる」

感情の高ぶりが収まってきたのか、平二の言葉と共に、ネリーナの緊張も徐々に解けてくる。

「…ヘイジさん、あれが…バドロルシススですか?」

「人の体に取り憑いた状態だ。あの体の中にいる」

「何をごちゃゴちゃ言ってイル?――ネリーナ、俺を覚えてイナイのか、フィレンツェでは体を合わせた仲ジゃないカ?」

バドロルシススに声を掛けられたネリーナは、上着の外ポケットからロザリオを取り出すと、それを目の前に捧げた。

「――汝を滅ぼさん!いとも汚れし霊よ、すべての悪の力よ、地獄からの濫入者よ、すべての悪霊たちの群れよ!イエス・キリストの御名において汝を滅ぼし………」

ネリーナは力強い声で祈りの言葉を一言一句ぶつけていくが、バドロルシススは平然とその様子を眺めている。

「お前じゃ、俺には敵わんヨ。フィレンツェでも試したダロウ?」

「くっ………バドロルシススよ、主イエス・キリストの御名において命ずる。我が前にひれ伏し、神の力に屈服せよ!」

ネリーナの言葉にも全く動じず、バドロルシススは一歩も下がらない。

「くだらん、ヘイジを見習えヨ、祈ってダメなら叩けばいいダロ。実にシンプルだ。そもそも大した力のナイ奴が、俺に楯突こうというのが気に入らナイ。むしろどこかに隠れて、俺に見つからナイことを祈レヨ」

そう言うと、バドロルシススはネリーナを指さした。

「なあ、俺に取り憑かれた感想を聞かセロヨ。お前、昔にも憑かれたコトがあったダロウ?神に見捨てられて、何度も悪魔に弄ばれた気分はドウダ?なあ言えよ、どうなんダヨ?なあ、ヒヒヒ、フッハハハハハハハハハハ!」

ネリーナをあざけるように、バドロルシススは大声で笑う。下唇を噛み締めたネリーナは、いつの間にか祈ることをやめてしまっている。

「ネリーナ、惑わされるな」

平二が重く低い声で、囁くように言う。

いつの間にか平二は、鞄から手を出している。左手には何か握りしめているが何かは見えない。右手には、今までどこに入っていたのかと思うほど長く白い剣が握られていた。それは、バチバチと音を立てて、青白い火花を散らしている。

「俺はこういう攻撃専門だ。ネリーナは自分の方法で奴をやり込めればいい」

「でも…無理です。どうやったら…」

「さっきと同じだ、祈れ」

平二は黙儒を正眼の位置に構える。黙儒の突っ先は平二の目線と重なって、バドロルシススの喉元辺りを指した。ジリジリと足を擦らすように前へ出ると、バドロルシススが手の平を見せるように前に出した。

「俺が入っているこの女は、まだ生きてイルゾ。その棒っきれで叩けば、傷つくのはこの女だ、ホラ」

バドロルシススは突き出した手の中指を、もう一方の手で関節とは逆方向へ折り曲げていく。指は、あらぬ方向へ反り返る。

パキンッと枯れ木が割れるような乾いた音と共に、指が手の甲側に倒れたままになった。

「イタイ、イタイなぁ――――フンッ、痛いのは俺じゃぁないケド」

バドロルシススが、今度は人差し指に手をかけた。

「まっ、待って!――その人に酷いことをしないで!」

ネリーナが思わず叫んだ。バドロルシススの手が止まる。

平二は黙儒を構えたままで、バドロルシススを見据えている。

「下がれヨ。でなけりゃ、もっとやるゼ?」

バドロルシススは着ているシャツのボタンをはずし始めた。シャツの下には下着をつけていない。歯をむき出しにしてニヤリと笑うと、シャツをはだけた。

ネリーナは思わず眼を背けた。女性の体の胸元には、乳房が片側しかない。女性の右側の乳房があった場所は皮膚が剥かれ、肋骨がむき出しになっている。流れた血が固まって、傷口から腹にかけて広範囲にこびりついている。

「可哀想だよなァ、こんなにされちゃったァ。その上、棒っ切れで殴り殺サレル。何の関係もないのになァ。俺はちっとも痛くねぇのに。ヒヒヒッヒヒ…」

フィレンツェでの時もそうだ。ネリーナの体の中に入ったバドロルシススは、聖水を浴びても大して動じなかった。この女性の体に攻撃したところで、大したダメージは与えられないだろう。

平二はゆっくりと黙儒を下ろす。

「……話を聞こうか」

「いいヨ。後ろのヘッポコまじない師、お前も何もするなヨ」

バドロルシススに憑りつかれた女性の口が、大きく息を吸い込んだ。その間に、辺りの空気が緊迫していく。

「ソロモン七十二柱の末席、アンドロマリウスだ。――ひれ伏せ」

バドロルシススがそう言った刹那、平二はとてつもなく大きな気配を背後に感じた。まるで巨大な氷柱に押し付けられたかのように、背筋に鋭い冷気を感じる。

「お前が、稲生平二だな」

流麗ながらも、耳の奥に突き刺さるような痛みを伴う声。聞くのが辛い。

平二は、ゆっくりとその場で振り向いた。

そこには、ビデオに映っていた男がいた。何かが近づく気配はまったく感じなかった。しかし、息がかかりそうなほど近くにその男は立っている。

「初めまして。ソロモン七十二柱の末席にして、三十六の軍団の長、そして地獄の伯爵、アンドロマリウスだ」

ネリーナもまた、気配に圧倒されているのか、口を開けたまま、じっと立ち尽くしている。

平二は振り絞るように声を発した。

「あんた、誰だ?」

アンドロマリウスは口をへの字に曲げると、肩を竦める。

「おい、たった今、自己紹介しただろう?それに俺は巷でもそれなりに有名なはずだ」

「…さあ、悪魔に知り合いはいないんでね」

その言葉が終わるより早く、アンドロマリウスの平手が平二の頬にめり込んだ。

不意に殴られた平二は、その場に転げる。

「軽口はやめろ。貴様の三十倍近い年月を生きている。年輩者には敬意を払え」

平二はすぐに立膝になると、アンドロマリウスに向けて黙儒を構えた。

「お前が知らなくても、俺はお前を良く知っている。」

アンドロマリウスは、黙儒を構える平二に怯むことなく、ゆっくりと前に進んだ。

「お前の仇討ちのついでで、少なくない数の仲間を殺された。全く腹立たしい。――晴らして晴らせる恨みでないのは承知しているが、かと言って放っておくつもりもない」

横浜で芭尾を取り逃がして以来、平二は芭尾を追って世界中を旅した。その長い年月の間、天狗の眼で人ならざる者を見る平二は、幾度となく魔物や悪魔と遭遇し、それらを退治してきている。

「なら、どうする?俺に仕返しするか?」

構えた黙儒を握り直した平二は、バドロルシススとアンドロマリウスの両方が視界に入るよう、体の向きを変えた。

アンドロマリウスと名乗った男は棒立ちのまま、平二を見据えている。その姿は、バチカンで見た映像のままだ。袖のないライダースジャケットから剥き出しになった右腕には、らせん状に刺青が(ほどこ)されている。映像では気が付かなかったが、その刺青は蛇だ。蛇が腕に絡みつくように描かれている。

平二は呆然としているネリーナの方へ、じりじりと動いて行く。アンドロマリウスらは、その様子を見守りながらも動く様子はない。

「ネリーナ、しっかりしろ。お前も教会堂へ逃げるんだ」

「…駄目…です。あの悪魔は、私が…」

振り絞る様に声を出すネリーナを背に、平二は黙儒を両手で構え直した。右眼が煌々と赤い光を湛え、黙儒から青白い火花が散り始める。

「ところで平二よ、ミケーレ・ラブティはどこにいる?」

アンドロマリウスが平二に訊いた。

「ミケーレに手は出させない。俺が相手をしてやる」

「それでは困る。芭尾はミケーレに用があるのだそうだ」

「どういうことだ?貴様らはミケーレの居場所を…」

平二は眉をしかめた。その表情は、どんどん曇っていく。

すると不意に、平二の背中に何者かが組み付いた。脇に腕を通されて羽交い絞めにされた平二は、アンドロマリウスの目の前で両腕を大きく広げた姿を晒す。

「…くっ!」

無防備な姿となった平二は、たまらず振りほどこうとするものの、その腕は食い込むほどに締め付けてくる。

「ウッ…ガァッ…」

平二は肩越しに聞こえてくるうめき声に思わず振り向いた。そこにはネリーナがいる。両目玉が真っ黒い塊になって、黒い液体が目尻から吐き出されるよう流れている。

「ネリーナ、やめろ!」

平二の叫びにも、ネリーナは応える素振りすらない。

必死に体を左右に振る平二に向けて、バドロルシススが口を開いた。

「フヒヒッ、フィレンツェでこいつに取り憑いた時に、ほんの少し俺を残していたのサ。ずっとこいつの腹の中にいるとは気づカなかったダロウ?」

「まさか…」

平二の表情に、ますます焦りの色が浮かんでいく。

「そうだよ、平二。我々はお前の後を追って来ただけだ」

アンドロマリウスが、満面の笑みを浮かべた。

芭尾がミケーレを狙っていたことは事実。そしてIEAから大量に資料が消えたこと、そして芭尾のスパイがいるのも事実だろう。しかし芭尾はミケーレの居場所を見つけられなかった。だから平二を利用したのだ。ミケーレが狙われているとなれば、平二はミケーレのもとへ来る。それを、ネリーナの腹にに潜んでいたバドロルシススに、ずっと監視されていたのだ。

思えばネリーナは、フィレンツェからずっと何も口にしていない。ずっと飲まず食わずだ。取り憑かれた直後の衰弱から、翌日には異常なまで回復していた。フィレンツェでは感じることもできなかったバドロルシススの気配を、今朝は平二より先に察知していた。超回復や一時的な霊感の向上は、悪魔に憑かれた際の顕著な兆候だ。芭尾のことに気をやるあまりに、それに気付かなかった。

物理的に体内に潜むバドロルシススは、表に出ない限りは平二の眼には映らない。しかし、ネリーナが自身の不安を訴えた時、もっとよく見ていれば――――。

「糞っ、糞っ、糞っ!」

ネリーナに羽交い絞めにされた平二が、歯を剥き出して唸る。

いつの間にか、目の前まで迫ったアンドロマリウスが、平二の右眼を覗き込むように顔を近づけた。

「今日の日没だ。もう一度ここへ来る。その時に芭尾も連れて来てやろう」

「………」

平二は応えず、ますます右眼に力を込めていく。

「そのかわり、ミケーレ・ラブティをここへ連れて来い。それが唯一かつ絶対の条件だ」

「俺が貴様の言いなりになると思うか?」

平二の言葉に、アンドロマリウスはにやにやしながら答えた。

「無論だ。連れて来なければ、貴様がそうするまで、この神殿いる者たちを殺し続ける。一人ずつ、なぶり殺しだ」

アンドロマリウスは、物珍しそうに平二の右眼を覗き込むと、平二の顔に向けて手を伸ばした。黙って睨み付ける平二はそれを避けようとするが、ネリーナに羽交い絞めにされた状態で全く身動きが取れない。

アンドロマリウスの平手が、平二の口元に押し付けられる。

「芭尾のことばかり考えているから騙される。。おまえは自分の復讐のことばかりで、他人を顧みない。ずっと自分の都合を優先してきただろう?お前の都合で一体何人死んだ?円狐もお前のせいで死んだんじゃないのか?」

アンドロマリウスは、平二を挑発するように言葉を重ねていく。

「………!」

平二の右眼は強烈な光を放ち始めている。体中の血管から染み出す様に殺気が立ち上っていく。押さえきれなくなった怒りが血潮に乗って、ぐんぐん体温を上昇させる。

アンドロマリウスはニヤリと笑って、平二の顔をのぞき込んだ。

「――今度は、そのネリーナまで死んでしまうかもしれないな」

そう言うと、平二に押し当てられた手に力が入る。顔の下半分を強く握り締められて、頬に指が食い込む。平二の頭蓋骨の中に、顎の骨が軋む音が反響する。激痛で体をくねらせるが、口元を抑えられているので声も出せない。

羽交い絞めにするネリーナに体重を預けて、平二は両足を跳ね上げた。足はアンドロマリウスの腹の辺りを強く蹴り飛ばし、平二自身もネリーナと一緒に後ろへ倒れこんだ

転げて体勢が崩れたのか、ネリーナの腕の力が少し緩んだ。平二は力任せに肩を抜くと、勢いよく立ち上がる。

蹴られて後ずさったアンドロマリウスに向けて、平二は黙儒を構えた。平二の手の中で、黙儒が激しい火花を散らす。怒りと焦りで極限まで殺気が高まった平二の眼は、眩しいほどに輝いている。

平二が振りかぶった瞬間、大きく口を開いたバドロルシススが平二の前へと躍り出た。

前かがみになって、顎を下へ引くように手を添えている。口が人間とは思えないほどに大きく開いて、その奥の胃袋までが見えそうなほどになった。喉の奥に詰まった黒い塊が渦を巻くように蠢いている。

平二は、その視界に見えた奇怪な様子に既視感(きしかん)を覚えた。あの蠢く黒いものを、どこかで見たことがある。

そう思った刹那、バドロルシススの口の奥から甲高い風切り音とともに、黒い粒子が吹き出して来た。その粒子は重たい質量となって平二を弾き飛ばし、教会堂の屋根にまで届くほど持ち上げる。

無防備なまま空中に放り出された平二は、眼下に広がった黒い霧の中から、大きく太い何かがもたげるように迫って来るのを見た。

それは蛇だ。小さな車程度の頭を持った巨大な蛇が、真っ直ぐ平二に向かって伸びあがってくる。

平二を飲み込まんばかりに大きく口を開けた蛇に向けて、平二は黙儒を振るった。飛び掛かる勢いで黙儒の一撃を喰らった蛇は、鼻先がはじけて飛び散ると、怯んで頭を上げる。

今度は口を閉じたまま、蛇は平二に向かって、槍のように体当たりしてきた。

その素早い動きに、空中でバランスが取れない平二は応じきれない。

弾き飛ばされた平二は、そのまま教会堂の壁に叩きつけられた。骨が折れる鈍い破裂音が、自分の体の中から聞こえてくる。痛みを感じる間もなく、今度はそのまま十数メートルの高さから落ちていく。頭を守ろうと手を上げた時には、もう石畳が目の前まで迫ってきていた。

 

扉の隙間から様子を(うかが)っていたベリンチョーニの目の前に、ドスンと鈍重な音を響かせて平二の体が落ちてきた。あまりの出来事に一瞬怯んだベリンチョーニは、その場で固まったように動けない。

外からは誰の声も聞こえてこない。平二の状態を考えれば、ネリーナが駆け寄ってきてもいいはずなのに、近くへ来る様子はない。

恐るおそる教会堂の扉を開けて外に出たベリンチョーニは、すぐ傍に倒れている平二に駆け寄った。あれだけ大きな音を立てて落ちたのだから相当の高さであったろう。俯せになって倒れている平二の体はピクリとも動かない。

広場の中央で人影が動いた。そちらに眼を向けると、ネリーナが噴水を背に立っている。

ベリンチョーニは彼女の名を呼びながら近づいて行った。

「だめです、近寄らないで!私の体の奥に悪魔がいるんです」

ネリーナの言葉を聞いて一瞬怯んだが、ベリンチョーニはまた歩き出すと、ネリーナに近づいて行く。

「一体、何が起こったというんだ。その…悪魔はどこへ?」

「………消えました。気がついた時にはもう、ここにはいなかった」

ネリーナは、顔にこびりついた黒い液体を両手で拭った。

「でも先生、まだ悪魔は私の中にいるんです。そのせいでヘイジさんが…。私はいつまた正気を失うかわからない。どうしたら…」

こびりついた黒い液体に混じって、ネリーナの頬に涙が流れ落ちる。

「私はエクソシストのはずなのに――悪魔に操られて、ヘイジさんをあんな目に合わせるなんて!」

そう言うと、ネリーナは汚れた手で顔を覆ってしまった。

ベリンチョーニがネリーナの肩に手を添える。するとネリーナは手の隙間から嗚咽する声を漏らし始めた。

「とにかく、まずはヘイジを病院へ連れて行かないといけない。打ちどころが悪くなければいいのだが」

子供のように泣きじゃくるネリーナは顔を上げると、歯を食い縛りながら、ポケットに入っていた携帯電話を取り出した。

「…これで…これで救急車を…」

ベリンチョーニはそれを受け取ってダイヤルを押すと、電話の相手に状況を簡潔に伝える。ここは町で最も有名な場所だ。伝えるべきことは多くない。

電話を終えたベリンチョーニに向かって、ネリーナが静かに言った。

「…ベリンチョーニ先生、私を拘束してください。教会堂の地下室に私を閉じ込めて欲しいのです」


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