修道院の朝は早い。朝五時には修道士は起きて来て、教会堂で祈りと清掃を行う。そうした一連のすべきことを終えてから朝食だ。

平二は、ほとんど眠ることが出来なかった。小部屋で子供が使うような二段ベッドをあてがわれたせいでなく、上段で寝ていたグレゴリの鼾がうるさかったせいでもない。何が起こっているのかを考えている内に、夜が明けてしまった。

ミケーレの居場所はわかったものの、芭尾につながる手がかりがない。焦りが募るばかりだ。

サンジェルマンの言う確信は的を外したのかもしれない。芭尾は一体どうやって、隠遁したミケーレの居場所を知ったのか、思い当たる節がない。

そもそも今のミケーレに関しては、バチカンの中でも知っている者はほとんどいない。平二と違い、ミケーレは人と深く関わることを躊躇しなかった。それだけに、彼の長すぎる寿命は他者の目を引いた。奇跡だと言ってもてはやす者もいれば、不審を感じて陰口をたたく者もいた。そうした人々の奇異な目を避けるために、隠遁生活を選択したIEA初代協会長ミケーレ・ラブティは、五十年前に死去したことになっている。

本人が偽名を使うことを拒んだので色々と腐心したが、今はもうミケーレ・ラブティが存命であることを示す物は、この世の何処にも残っていない。しかも、これまでこまめに住処を移動している内に、住民登録もどこかに残したままになっている。芭尾がミケーレの居場所を察する余地もない。

平二は、修道士達が起きだして宿舎から出ていったのを見計らって、昨晩ベリンチョーニと会話した食堂へ降りてきた。テーブルに座ると、ロレート駅で手に入れた観光客向けのガイドマップを広げた。そこにはサンタ・カーザ神殿の大雑把な地図がある。そこにたどり着くには、細い路地や階段を抜けて教会堂の正面に出るか、教会堂の裏手の切り立った崖を登る以外にない。

この聖母の家は、元々聖母マリアがナザレに住んでいた時の家で、彼女はここで天使ガブリエルより受胎告知を受けたのだという。それが十三世紀に天使によって、このロレートへ運ばれて来たと言い伝えられている。以来このロレートは聖地として、広く世界に知られるようになった。サンタ・カーザ神殿とは、この聖母の家を守るように建てられている一群の建物を指して言われる。聖母の家を異教徒の手から守るために幾度となく増改築が繰り返されて、要塞と化したこの神殿には、大勢の人間が一度に入ってこられないよう、緻密な通路作りがなされている。もっとも現代では観光地化されて、所々道幅が広げられているようだ。

サンタ・カーザ神殿は、三角を形成する三本の道路に囲まれている。平二が見下ろす地図は、その三角形の内側が細かく描かれていた。平二達がいる男子修道院は、教会堂から最も遠いところにある。

平二は立ち上がって、昨晩グレゴリがコーヒーを淹れていたキッチンへ入っていった。おもむろに戸棚を開ける。そこには碌な食べ物がなく、塩、砂糖のような基本的な調味料しか並んでいない。平二は他の戸棚も物色して回った。

ちょうど平二が頭から戸棚に潜り込んでいると人が入ってきた。物音に気付いた平二が慌てて振り向くと、そこにネリーナが立っている。

「……ヘイジさん、何をしているんです?」

ネリーナが訝しい表情を浮かべている。慌てて頭を出した平二は、戸棚の縁に頭をぶつけた。

「痛ッ!――お、おはよう、ネリーナ。随分早いな」

「……おはようございます。あなたもこんなに早く起きているなんて。――あの、ヘイジさん、すごくお腹が空いているのじゃないですか?」

「まあ、それなりには。すごくって程じゃない」

ネリーナは立っている横の戸棚を開けると、そこからクラッカーの入った箱を取り出した。頭をさする平二はそれを受け取ると、とりあえず中身を一枚取り出して口に入れる

ネリーナは、平二が気まずそうにクラッカーを食べているのを見て笑った。

「…もしかして、お前も寝むれなかったクチか?」

「そう言うヘイジさんこそ、こんな早くからキッチンを物色しているとは思いませんでした」

平二は、ネリーナの言葉に笑顔を見せる。

「もし、もう準備ができているなら、早速ミケーレのところへ行こうか?」

「今からですか?少し早すぎるんじゃ…」」

「あいつは朝の五時には起きているよ。昔からずっとそうだ」

「それなら車を借りにいきましょう。教会で使っている車が、丘の上の広場にあります」

「グレゴリは?」

ネリーナは、腕に巻いた時計を見た。

「まだ朝の五時半です。彼は起きてきませんよ」

「そうか。ちなみにミケーレの住処までどのくらいかかる?」

「車で三十分ほど…今の時間なら渋滞もないので、もっと早く着くと思いますよ」

平二は立ち上がって、ガイドマップを無造作に折りたたんで懐に入れた。

サンタ・カーザ神殿の中心である教会堂までは、平二たちのいる男子修道院から歩いても、数分しかかからない。

修道院を出ると、外はまだ暗かった。ネリーナは昨日入ってきた門とは逆の方、建物の裏手に向かって歩いて行く。昨晩は気づかなかったが、男子修道院の裏手に同じような建物がもう一つある。

「あなたが泊まったのが男子修道院で、こっちは女子修道院です。こっちは男性が入ってはいけないことになっていますから」

ネリーナは更に奥へと進んで行く。低い煉瓦塀に囲われた敷地の奥には、小さな木戸があった。緑のペンキで塗られているが、所々剥げていてみすぼらしい。

ネリーナは、横を歩く平二が鞄を袈裟懸けにしているのに気づいた。昨日までは身に付けていなかったものだ。硬い帆布でできたバッグはさほど大きくはないが、平二の歩くのに合わせてカチャカチャと音を立てている。

「ヘイジさん、その鞄は?」

「これか、フィレンツェでは散々だったからな。一応備えを持ってきた」

「はあ」

ネリーナも一応用意はしてきた。道具を入れたナップザックを片方の肩にかけている。しかし正直言って、自分の用意では心許ない。バドロルシススのような悪魔に対して、全く足りる気がしない。例えどんなに備えが万全でも、自分の未熟さと弱さを補いきれないだろう。

修道院の敷地を隔てる木戸を抜けると、人一人が通れる程度の細道が続いている。戸を抜けて進んでいくネリーナの後ろに付いて、平二は緩い坂を上がっていく。

「ここを登れば、すぐに教会堂に出ますから」

そう言ってネリーナが先導して細道を登っていく。

「ネリーナがミケーレに会ったのは随分前なんだろう?」

平二が声を掛けると、ネリーナは振り向いて答えた。

「いえ、ラブティ神父のことは、昨日も話した通り全然覚えていないんです。――確かに私が悪魔に憑かれたことがあるのは事実です。でもその時のことは覚えていないのです」

ネリーナの表情は、心なしか不安げに見えた。

「それよりヘイジさんも、しばらくラブティ神父に会っていないのでしょう?もうどのくらいになるのですか?」

「そうだな、かれこれ三十年にはなるかな。最後に会ったのは、前教皇の就任式だったと思う」

三十年前と言えば、まだ自分が生まれていない頃の話だ。それにしても、平二の見掛けは自分とほとんど変わらない。

「ミケーレがIEAの協会長をやめてからは、数えるほどしか会っていない。――あいつも随分と耄碌(もうろく)したし、俺みたいなのと一緒にいたら、命がいくつあっても足らないからな」

「でも、三十年も会ってないなんて。少し疎遠(そえん)すぎませんか?」

「そうかな」

「そうですよ。だって私が生まれる前の話じゃないですか」

ネリーナが言うと、平二が笑った。

「確かに。でもミケーレのことは一応秘密だしな。――それでなくても聖秘跡省の奴らみたいのがいるんだから、用心するに越したことはないさ」

それを聞いたネリーナは、幾分平二が寂しそうに見えた。ムィシュコーの話を信用するなら、平二とラブティ神父は百五十年も前からお互いを知っていることになる。だとすれば、その長い時間で、二人の間にはどれほどの絆が生まれたのであろうか。

話が途切れると、二人はまた無言で坂を上る。しばらくして、ネリーナが振り返らずに言った。

「…ヘイジさん、訊いてもいいですか?」

「なんだ?」

「あなたのその右眼、その眼で私を見て、何か見えますか?」

「……質問の意味がよくわからないな。一体、何が見えるんだ?」

「……」

ネリーナは無言のままで、ゆるく細い坂道を登っていく。

「普段から色々見えてはいるが、今日はまだ特別なものは見ていない」

天狗からもらった右眼は平二に無二の能力、闇の世界の住人たちを見る力を与えた。右眼には、人に見えない物が映る。厳しい修行を積んだ僧侶や聖職者のように、幽霊や魔物の姿をはっきりと見ることができる。

「…もしかして、お前にまだ悪魔が憑いているかどうかってことか?」

「わかりません。こうしてエクソシストになった今でも、自分が悪魔から逃れられたのか、確信が持てないのです」

「でも、その時のことは覚えてないんだろう?」

「だから余計に不安なのです。私は悪魔に惑わされているのではないかと……」

ネリーナの後ろ姿を見ても、やはり平二の眼には何も映らない。ましてや悪魔を祓ったのはミケーレだ。日本での出来事以来、ミケーレは相当な霊力を身に着けた。そんなミスをするはずがないし、そもそもミスを犯す男じゃない。

「……いま話したことは忘れてください。――ほら、ここがサンタ・カーザ神殿のマドンナ広場です」

ネリーナと平二は、細い路地から広い長方形の広場に出た。薄暗かった空も徐々に明るくなってきている。広場を囲むように立っている建築物で、一際白いのがサンタ・カーザ教会堂だ。この中にサンタ・カーザ=聖母の家がある。

平二は広場中央にある小さな噴水に近づくと、その縁に腰掛けた。

「ここがサンタ・カーザ神殿の中心です。ここの教会堂は一般のものとは少し違うのです。中に入ってみますか?」

すると教会堂の正面にある扉から、数人の修道士が出てきた。その中にはベリンチョーニもいる。ちょうど朝の勤めが終わったのだろうか。ベリンチョーニは、平二たちに気付いて近づいてきた。

「おはよう。ヘイジ、昨日は良く眠れたかね?」

「おはようございます、ベリンチョーニ修道院長。もうお勤めは終わったのですか?」

平二が立ち上がって答えた。

「そんな長たらしい呼び方をされると朝から気が滅入るな。ファーストネームで呼んでくれても構わないが、気まずいようなら『さん付け』ぐらいにしてくれないか?」

「ではベリンチョーニさん、これから修道院に戻るんですか?」

「ああ、朝の勤めが終わったので、これからこのだだっ広い広場の清掃だ」

そう言うとベリンチョーニは、持っていた箒を持ち上げた。日本のものとは違って、柄も掃く部分も長く作られている。これで地面を撫でる様に掃いていくのだ。

既に掃除を始めている他の修道士らを尻目に、ベリンチョーニは平二と同じく、噴水の縁に腰かけた。

「まさか、これからラブティ神父のもとへ向かう気なのかい?」

「ええ、思ったより早く起きたので、これから向かいます」

ネリーナがそう言うと、ベリンチョーニが笑い出した。

「フフッフ…全く聖職者というのは、朝が早すぎるとは思わんか?こんな時間に押しかけたら、普通ならまず相手を怒らせるだろうに」

これから行けば、到着するのは七時前だ。しかも電話番号がわからないから、事前に約束もしていない。

「どうだ、これから修道院へ戻ってコーヒーでも飲まんか?急いで行って、わざわざラブティ神父を不機嫌にさせることもあるまい」

「いえ…」

申し出を断ろうとした平二の声を遮る様に、ベリンチョーニの背中越しに、若い修道士が声を上げた。

「ネリーナじゃないか!久しぶりだなぁ」

若い修道士は、ネリーナに近づくと頬にキスをする。

「ベリンチョーニ先生から聞いたよ。グレゴリも帰って来ているんだって?二人とも、いつまでこっちにいられるんだい?」

早口に話す若い修道士に続いて、別の修道士たちも集まってきた。皆、次々と再会したネリーナにキスをしていく。

ネリーナを取り囲んだ修道士たちに、ベリンチョーニが声を上げた。

「皆、ここにいる日本から来た客人にも挨拶を」

ベリンチョーニの声に皆が振り向くと、先程の若い修道士が平二に近付いた。ヘイジが手を差し出すと、それを握り返す。

「ヘイジ・イノウだ。宜しく」

平二は、周りに集まった修道士たちにも、軽く会釈しながら笑いかけた。全員と握手していたら、きりがない。

「さあ、再会を喜ぶ前に清掃を終わらせてしまおうか」

ベリンチョーニはそう言うと、手を軽く叩いた。急き立てられた修道士たちは、方々へと散っていく。

ベリンチョーニは、平二とネリーナに向かって言った。

「教会の車を借りに来たのだろう?ラブティ神父の住まいに行くには、車じゃないと無理だから。――まあコーヒーは、帰って来てからにしよう。その時に、改めて皆に平二を紹介しようか」

その言葉に、ネリーナは「はい」と言って頷いた。

「マノロ、ちょっと待ちなさい」

先程平二と握手を交わした修道士に、ベリンチョーニが声を掛けた。

「ネリーナ達は、車で出かけるのだそうだ。――確か、コラッツィーニ神父に車の鍵を預けているから、二人を彼のところまで案内してあげてくれ」

マノロは頷くと、箒を噴水の縁に立て掛けた。

「どうぞ、こっちです」

マノロの後に、平二とネリーナが続いて行く。

堂の入り口に立ったマノロは、両手で大きな扉を押した。木製の扉が重々しい音を響かせながら開かれると、三人は薄暗い教会堂の中へと入って行く。

サンタ・カーザ神殿の中心でもある教会堂は、バシリカ式教会堂である。古代ローマの集会場であるバシリカの意匠を継承しており、正面から奥に向かって長方形に長く作られている。堂のホールとなる身廊の両側には、列柱で隔てられた側廊が据えられており、天井までは十数メートルはある。正面奥には大理石で作られた祭壇と、そのまた奥には大理石で囲われるように守られたサンタ・カーザ=聖なる家がある。

「ヘイジさん、あれが『聖母の家』です」

ネリーナが祭壇の向こうにある、装飾物の一群を指して言った。

「…とても、二千年前に作られた家には見えないな」

勿論(もちろん)ですよ。聖母の家はあの中にあります。家は大理石で囲うように守られているので、外からは見えません」

大理石で囲われた聖母の家の真上は、梁で支えられたドームになっており、そこを基点に長方形の教会堂が添えられている。よく見ると、ドーム部と教会堂の部分では、岩の大きさや装飾の作りが違う。それぞれ違う年代に作られたのであろう。

堂の中を見渡している平二を尻目に、ネリーナは聖母の家へと近づいて行く。

「この教会堂は、丘の崖になった部分に作られています。聖母の家があるドームの後ろ側からは、人が登ってくることができない様になっているのです」

この丘の上の一群の建物すべてが、目の前にある聖母の家を守るために作られている。崖の突端に聖母の家を置き、建物で周りを囲うことで、外部からの侵入を阻む要塞を形成しているのだ。

「家の中には聖母像と祭壇もあるんです。入ってみますか?」

ネリーナが平二に振り向いて言った。すると、聖母の家にある小さな入口から人が出てきた。

「あ、コラッツイーニ神父」

マノロが声を上げた。歳の頃は五十歳ぐらいだろうか。頭は禿げ上がっているものの、肌の色艶は良く、背筋の伸びた男性だ。

「あなたが、ネリーナ・モランディですね。あなたのことは修道院長から聞いています。ヌンツィオ・コラッツィーニ神父です。初めまして」

コラッツイーニは英語で話しかけた。

急に後ろから声を掛けられたネリーナは、少々驚いたように後ずさったものの、すぐにコラッツイーニに向いて答えた。

「あ、あの、初めまして。ネリーナ・モランディです」

ネリーナはコラッツイーニとは初対面であるらしい。ネリーナがロレートを離れたのはもう何年も前ことだ。知らない者がいて当たり前だ。

自己紹介しようとするネリーナをよそに、コラッツイーニは、ゆっくりと低い声色で言った。

「ネリーナ・モランディ、今はまだ一般公開の時間ではない。それはあなたも知っているはずです。この時間は、まだ外部の人が教会堂に入ってよい時間ではない」

「…はい、あ、あの、すいません…」

恐縮して謝るネリーナを庇うようにマノロが声を上げる。しかしコラッツイーニはそれを片手を上げて制した。

「あなたと共に来たそこの御仁は、カソリックでさえないでしょうに。あの恰好を見れば、すぐにわかります。ならば、なおのこと時間外にここへ入ることは憚れることです。久しく故郷へ戻ったうれしさもあるのでしょうが、必要以上に浮かれているのではないのですか?」

コラッツイーニは、低いながらも良く通る声でネリーナを諭す。

彼が英語でネリーナに話しているのは、それを平二にも聞かせるためであろう。

傍でネリーナが叱られている様子を見ている平二は、眉を寄せて顔をしかめている。コラッツイーニの態度が、バチカンで遭遇したコールマンを思い出させたからだ。

問い質すコラッツイーニに、ネリーナは委縮したように小さく頷いている。

「あの、ちょっといいかな」

大きな声を張り上げた平二に、コラッツイーニが振り向いた。

「説教中に申し訳ないが、ちょっと急ぎの用でね、車を借りに来たんだ。あんたが鍵を持っていると聞いたんでここへ来た」

平二の言葉に応えるでもなく、コラッツイーニはじっと平二を見ている。

「とにかく鍵さえもらえば、すぐにここを出て行く。貸してもらえないかな?」

「…名前も知れない相手に、貸せるものなどありません」

「ヘイジ・イノウだ。初めまして」

平二は取って返す様に言い放った。

「あなたは…年輩者に対する口のきき方や礼儀を知らないようだ」

コラッツイーニの声は、明らかに苛つきを含んでいる。その表情は穏やかそうには見えるが、相当腹を立てたに違いない。

「確かに。自分より年上の人に会う機会が滅多になくてね」

平二はコラッツィーニの様子を気にする風でなく、平然と言い返す。

二人の間に割って入ろうと、ネリーナは口を開いた。

しかし、出掛った言葉は喉の奥に詰まったように出てこない。その場で固まったように動かなくなったネリーナは、自らを抱え込むように両手を背中へ回した。痺れるような悪寒を背中に感じたからだ。

ネリーナは平二の方を見る。すると平二もまた、入って来た扉の方を向いている。

平二は、開いた扉から外の様子を窺った。いつの間にか、足元にねっとりとした冷気が絡みついている。この感覚は覚えている。一昨日にフィレンツェのウフィッツィ美術館で味わったものだ。

「…?」

急に様子が変わった二人に、コラッツイーニとマノロは訝しい表情を浮かべた。

「ネリーナ、今回は来ているのがわかるのか?」

「ええ、自分でも不思議ですが、なにか悪い気配を感じます」

フィレンツェでは、近づく悪魔の気配を全く感じられなかったネリーナだったが、今回は様子が違う。明らかに、平二と同じものを感じ取っているようだ。

足元で渦を巻くように流れる重たい空気は、どんどん密度を増している。

背中を向けた平二に向けて、コラッツイーニが呆れた様に肩を竦めながら言った。

「…とにかくだ、我々の朝の務めが終わるまでは、部外者は外へ出ていきない。さあ…」

「ああ、すぐに出て行くさ。それより、あんたは務めが終わっても、俺がいいと言うまで外には出るな。――ネリーナ、外だ。行くぞ」

平二は、何か言いかけたコラッツイーニを意に介さず、扉の方へと走り出した。それを追いかけて、ネリーナも身廊を走る。

飛び出した平二とネリーナは広場を見回した。そこではまだ、ベリンチョーニをはじめ、修道士たちが平然と掃除をしている。しかし、徐々に日が高くなってきているはずなのに、先程よりも薄暗く感じるのは気のせいなのか。

「ネリーナ、皆を教会堂の中へ連れて行ってくれ」

「はいっ!」

二人に気付いて手を上げたベリンチョーニに向けて、ネリーナが走り出した。

平二は気配の濃い方へと進む。広場へ繋がる路地から、立ち昇るように陰気が沸いてきている。

ネリーナに連れられて教会堂へと向かうベリンチョーニが声を上げた。

「ヘイジよ、君も早くこっちへ!」

その声に振り向くも応えず、平二は更に前へと踏み出す。

平二の眼には、近づく気配が徐々に色づいてきているのが見えている。色は黒だ。漆黒の闇の色が足元を泥のような重さで流れている。平二はその黒い流れが来る方を眼で辿っていく。長方形の広場に建つ教会堂と反対方向、丘を囲む公道に繋がる路地の方から、髪の長い女性が上がって来る。

ベリンチョーニ達が教会堂の入り口までたどり着く間に、その女性はおぼつかない足取りで、ゆっくりと平二の方へと近づいてきた。

  次へ
  次へ