十、 サンタ・カーザの神殿
ローマから東の海岸沿いにあるアンコーナまでは、高速鉄道で約三時間、そこからロレートの駅まではローカル線で一時間。相変わらず電車の出発時刻はいい加減で、アンコーナからの電車は、定刻から三十分も遅れて出発した。平二達がロレート駅に到着したのは、すっかり日が落ちた夜の八時だ。
平二は駅のホームに降り立つと、黄色いMのロゴが印刷されている紙袋を丸めて、ゴミ箱に捨てた。グレゴリが奢るからと買ってきたのは、某有名ハンバーガーチェーンのセットメニューだった。
平二は、油臭い口元をナプキンで拭いながら、到着した小さな駅を見回した。線路は上下線の二つだけで、小さな駅舎には人気がない。電灯がオレンジ色のせいで、光の当たるものが全部オレンジ色に見える。アジア人に比べると、西欧人の眼は光に弱い。白く強い光は眼に痛く感じるのだという。それなので光量が少なく、直視しても眩しくないオレンジ色の電灯が多用されている。
「ヘイジ、こっちだ」
全員の鞄を持ったグレゴリが、先に駅舎を抜けて行き、それに付いて行くように携帯電話を耳に当てたネリーナが平二を先導する。
結局、平二とネリーナの二人は、道中でグレゴリを説得することは出来なかった。悪魔に相対するかもしれないことに恐怖は感じているが、それ以上に、ネリーナや故郷の人々が危険に晒されようというのが心配なのだと言う。
ここロレートのサンタ・カーザ神殿には、修道院や教会堂もあり、多くの人々がそこで暮らしている。彼らとその周辺に住む人々を、悪魔が来るからと追い出すわけには行かないだろう、なら自分一人増えた所で大きな違いはないはずだ、というのがグレゴリの言い分だった。確かに平二やネリーナはともかく、サンタ・カーザ神殿にいる人々は、聖職者であっても、グレゴリと大して変わらない。
駅の外には、道沿いに車が何台か止まっている。道路の街灯もオレンジ色だ。駅前だというのに店はない。グレゴリは少し離れたところに止まっているタクシーに近づいていく。
「ヘイジさん、これからまっすぐ修道院へ向かいます。ちなみに、もう食事の時間は終わっていますから、もしお腹が空いているようなら、あそこで何か買って行ってください」
ネリーナは、携帯電話をポケットにしまいながら言うと、平二の肩越しに、駅舎の中にある売店を指さした。平二は売店に近づいて、並んでいる商品を見た。食べられそうなものは、チョコレート菓子ぐらいのものだ。平二は商品には触れず、レジ横にあった観光客向けのガイドマップを手に取った。
今は暗くて見えないが、昼間なら町のどこからでも、丘の上に建つサンタ・カーザ神殿が見えるらしい。聖母マリアが暮らしたという家が丸ごと安置されたサンタ・カーザ神殿は、カソリック信者にとって重要な巡礼地の一つなっている。元々丘の上にあった小さな教会は、家を守るために増改築を繰り返し、数百年かけて巨大な建造物となった。
ロレートは、人口一万二千人程度の小さな町だが、多くの信者が訪れるらしい。とは言え、見るべきものはサンタ・カーザ神殿しかないので、それほど経済的に潤っているわけではないし、観光が産業として成り立っている風でもない。その証拠に、駅前には小さなホテルが一軒あるだけで、他には食堂すらない。
タクシー乗り場では、既にネリーナとグレゴリが車に荷物を載せて待っている。平二は小走りに乗り場まで行くと、グレゴリの後に続いてタクシーに乗り込んだ。
タクシーは住宅が続くエリアを抜けると、ゆるい坂を登りはじめた。坂の右側には、今にも崩れそうな石垣の壁が続いている。狭い道路は車二台がすれ違うのがやっとの広さだが、先程から対向車線に車はない。
「グレゴリも、ここの修道院にいたんだってな」
タクシーの後部座席に座った平二が、助手席に収まっているグレゴリに声を掛けた。
「ああ、五年くらいな。いずれは神父になんて思っていたが、ドロップアウトしちまったよ」
「そうか」と、平二か応じる。、グレゴリは狭そうに収まっていた助手席の中で体を入れ替えると、平二のいる後部座席の方へ顔を向けた。
「なあ、ロレートにいる平二の知り合いもエクソシストなんだろ」
「ああ、古い友人だ。――でも、ロレートのどこに住んでるかも知らないけどな」
「古いって、いつから知ってるんだい?」
「それは…」と答えかけた平二を遮って、ネリーナは慌てて声を上げた。
「あ、あのヘイジさんはロレートに来るのは初めですよね?」
「そうだな。一度は来いと言われていたんだが。ところで…」
「…?」
「…俺もその修道院に泊るのか?なんなら、ホテルへ行ってもいいんだけどな」
「ここの修道院長には連絡を入れてあります。必ず私たちの味方になってくれる方です。とても厳しいですが、誰にも分け隔てなく、父親のように接してくれる方です」
「ああ、俺も散々叱られたな。門限やぶって、何度も教会堂の地下室に閉じ込められた」
平二がまたそっけなく「そうか」と相槌を打つと、グレゴリも「そうだ」と返して微笑んだ。
程無くタクシーが坂の途中で止まった。たどり着いた修道院は、サンタ・カーザ神殿がある丘の中腹に建っている。改修されたのか、あるいは立て替えられたのか、外観は比較的新しい。申し訳程度に装飾が施されているが、残念なことに、サッシでできた窓枠に全くといっていいほど似合ってはいない
グレゴリが懐古趣味なデザインの玄関扉に近づいて、呼び鈴のボタンを押した。静けさに包まれた夜の修道院に似つかわしくない、けたたましいベル音が響く。しばらく無言で待つが誰も出てこない。しびれを切らしたグレゴリが、建物の横手に回って窓を覗き込む。その内にドアの向こうから、鍵を開ける音が聞こえてきた。
ドアが開くと、大きく背中の曲がった修道服の老人が現れた。ざっくりと編まれた黒いニット帽をかぶっており、その帽子の端から、白い髪がまばらにはみ出している。
「ネリーナ、よく来た。久しぶりだ」
皺が深く刻まれた顔には、垂れ下がるほどに大きすぎる鼻がある。老人は眼が悪いのか、瞬きをしながら、きょろきょろと三人の顔を覗き込んでいく。
「ベリンチョーニ修道院長、大変ご無沙汰しています。――突然押しかけてしまって、申し訳ありません」
ネリーナは言うが早いか、老人に近づいて両頬にキスをした。その様子を見ていたグレゴリも近づいて、老人の頬にキスをする。
「ベリンチョーニ修道院長、俺が誰だかわかるかい?」
「ああ、無論だ。グレゴリ・ダレッシオ」
ベリンチョーニと呼ばれた老人は破顔して言った。
「相変わらず、先生も元気でなによりだ」
グレゴリも満面の笑顔で言う。
「さあ、寒いから中へ入れ。ネリーナ、グレゴリとあと…」
「日本から来たイノウ・へイジです」
平二は手短に、イタリア語で自己紹介する。
「そうか。さあ、中に入りなさい」
ベリンチョーニは、扉を大きく開けて、三人を招きいれた。
玄関の扉をくぐると、中は小ぶりなホールになっている。正面には階段があり、左右に廊下が伸びている。ベリンチョーニはゆったりとした足取りで右の方へ進むと、すぐのドアを開けて中に入っていく。三人も続いて部屋に入った。外と大して変わらないほど部屋の中は寒い。
そこは白い大きなダイニングテーブルがいくつも並ぶ食堂だった。ベリンチョーニは手近な椅子に座ると、英語で平二に話しかけた。
「すまないが、よほど寒くないと暖房は入れないんだ。まあ、ネリーナとグレゴリは良く知っているだろうが」
ベリンチョーニが両手を揉み合わせる。
「英語がお上手なんですね」
「ここにいる二人に英語を教えたのは、何を隠そうこの私だ。もしイタリア語が苦手なら、英語でも構わんよ」
「よろしくお願いします」
平二はそう言って軽く会釈する。ネリーナとグレゴリは、着ているコートも脱がずに座り、平二もそれにならって、そのまま腰掛けた。部屋が寒いので、そのままでいいらしい。
「ネリーナ、電話を貰った時は驚いたよ。本当に久しぶりだ。――さあて、三人とも今晩はここに泊まるつもりで来たんだろう?」
「はい、お願いします、ベリンチョーニ修道院長。でも、あの……」
ネリーナが、か細い声で言う。
「……もしも、バチカンから連絡があっても、私たちのことは内緒にして欲しいのです。その…事情は追々話します。それは、IEAのサンジェルマン司教も承知していることです。その、いろいろと混みいったことになっていまして…なんというか…」
ベリンチョーニは、話しているうちに消え入るような声になっていくネリーナをじっと見つめている。
「ネリーナには、エクソシストとしての役目があるのだろう。どんな事情があるか知らないが、お前の望むようにしよう」
しばらく黙ってネリーナを見つめていたベリンチョーニは、そう言ってにこりと笑った。そして右の手の平をネリーナに差し出した。
「ただし、ここにいる間は、私を院長など呼んでくれるな、以前のとおりでいい。しばらく会わなかったからといって、そう慇懃になることもあるまい」
ネリーナは、ベリンチョーニが差し出した手の平に、自分の手を重ねて答えた。
「すいません、ベリンチョーニ先生。事情は追々話します」
「ああ、私の子供たちは、皆誠実で人を騙さない。ネリーナは、特にその点に関して信頼がおける。話せる時に話しなさい」
そう言ってベリンチョーニは、ネリーナの手を握った。それを見ていたグレゴリが口を開く。
「へイジ、まだ先生を紹介していないじゃないか。さっき話しただろ、これがベリンチョーニ先生だ」
ベリンチョーニが笑顔で応えた。
「私がそのマルチェッロ・ベリンチョーニだ。私はここにいるネリーナとグレゴリの父親だ。――とはいえ本当の親ではないのだが。あと無駄に長く生きているせいで、ここの修道院長までさせられている」
「突然で申し訳ない。お世話になります」
「このサンタ・カーザ神殿は、十六世紀には日本人が来ておるんだ。当時の日本人使節団がここに訪れた。君の国とこの街には古くて深い縁がある。余り恐縮せず、楽にしなさい」
そう平二に向けて言ったベリンチョーニは、ネリーナに向き直った。
「ネリーナの寝床は女子修道院の方に用意させてあるから、あとであちらへ行くといい」
「あの…、ベリンチョーニ先生、一つ訊いてもいいですか?」
「なんだね、ネリーナ」
「先生は、ミケーレ・ラブティ神父をご存知ではないですか?十五年ほど前からロレートにお住まいらしいのですが…」
「おやネリーナ、思い出したのか?」
「……?」
ベリンチョーニの言葉にネリーナは首を傾げた。ベリンチョーニの言う意味が分からない。
「どうしたんだ、お前の悪魔憑きを治してくれた方じゃないか」
ネリーナの顔が曇った。視線を手元に落とすと、考え込んだように俯いてしまう。ベリンチョーニとネリーナを交互に見た平二が口を開いた
「ネリーナ、お前も会ったことがあるのか?」
「……いえ、ベリンチョーニ先生の言うことはわかるのですが、その時のことは、その、……ほとんど覚えていないのです」
ネリーナの言葉を聞いたベリンチョーニが口を開いた。
「では、ネリーナは思い出したわけでないのか?」
困惑した表情でネリーナは首を振った。
「あれは、ネリーナがここの修道院に来て間もなくだったな。ネリーナが悪魔に憑かれたことがあって、それを祓ってくださったのがミケーレ・ラブティ神父だった。――幾度かネリーナを連れて、彼のお宅へ通ったんだ」
説明されても、どうにも思い出せない。何も答えようのないネリーナは黙ったままだ。
「…そうか、まあいい。私も何度か会っただけで、良くは覚えていないからな。――しかし、あの方は深い慈愛の心を持ったキリスト者であった。その点においては、今でもはっきりと覚えている」
「そんなに印象に残るようなことが?」
平二が訊いた。
「いや、理屈じゃないんだ。だが強いて言えば、――ラブティ神父は、ネリーナの頬を撫でたんだよ」
「…?」
「本人を前にして言うのもなんだが、悪魔に憑かれたネリーナは、眼をむき出して、恐ろしい形相をしていたんだ。この世に存在する、ありとあらゆる卑猥な言葉を口にしてた。情けないが私は怖かったよ。この子に触ることさえ恐れたんだ」
ベリンチョーニはテーブルの上に乗せた手をネリーナに伸ばし、彼女の手を握った。あまりいい記憶ではないだろう。申し訳なさそうな顔をネリーナに向けている。それでもベリンチョーニは、言葉を選んで話を続けた。
「でもラブティ神父は出会ってすぐ、最初にこの子の頬を撫でたんだ。全く躊躇がなかった。それはエクソシストだからでなく、この子を憂えたからできたことだ。その時に思った。――あれはキリスト者として、持つべき慈愛によってなされたことだと」
ベリンチョーニは、顔を上げると、平二に視線を合わせる。
「君等は、あの方に用があって来たのか。それもすぐには話せない事情なのかい?」
「…彼は私の古い友人なのです」
そう言った平二の顔は、心なしか笑顔だ。
「そうか、ヘイジはあの方をご存知か」
「ええ。それで、明日には会いに行きたいのですが、彼の住んでいる場所をご存じですか?」
ベリンチョーニは「もちろんだ」と言うと、自分の体をまさぐり始めた。ペンか何かを探している様子だが、見つかる気配はない。それを見かねた平二が、持っていた自分の手帳とペンを差し出した。
ベリンチョーニは開かれた手帳に、番地のない住所と地図を書きつける。それを横から見ていたグレゴリが声を上げた。
「先生、これはまた随分と離れた所だな。というか、その辺って住所があるのかい?」
「あるよ。ちゃんと人も住んでいる。そんな風に言うんじゃない」
「そう言ったって番地が書いてない」
「もうそこまでは忘れてしまった。覚えているのは大体の場所だけだ。村の名前と地図があって、お前たちの案内があればわかるはずだ」
そう言ってベリンチョーニは、極めて大雑把な地図と村の名前が書かれた手帳をヘイジに返した。
「助かります」
「いや、礼には及ばんよ。――それより明日はここで朝食を食べていきなさい。ネリーナ、朝食の時間は覚えているだろう、遠慮せずに食堂へ降りてきなさい。皆には久しぶりの里帰りだと言っておくから」
平二が再び礼を言うと、ベリンチョーニが笑顔で応える。
すると、ネリーナがベリンチョーニに向かって言った。
「先生、今日はもう休みましょう。私達も疲れました。昨晩フィレンツェから夜行列車でローマに行って、それからここまで来たのです」
「ああ、それは大変だったな」
ゆっくりと腰を上げたベリンチョーニに、ネリーナが立ち上がってその腕を支える。
「ヘイジさん、グレゴリ、私は先生を部屋までお送りしますから、戻るまで待っていてくれませんか?」
ネリーナは、ベリンチョーニを支えるように寄り添って歩く。それをグレゴリが見て小声で呟いた。
「ああしていると、本当の親子みたいだよな」
「そうだな」
ベリンチョーニは部屋のドアの所で振り向いて、ヘイジとグレゴリに手を上げた。
「なあ、グレゴリ」
「なんだ?」
「お前、ネリーナに惚れているのか?」
平二に言われたグレゴリは、ぎょっとした顔で黙った。
「別にそれはそれでいい。だが、もし彼女を守るつもりで一緒に来たのなら、あまり無茶なことはするなよ」
グレゴリは、ネリーナに特別な感情を抱いている。それは彼の態度や行動を見れば明らかだ。傍から見ているとよくわかる。
「無茶はしないさ。約束だろ。でもさ…」
「…?」
「平二から見てどう思う?やっぱり無理だと思うか?」
「何が?」
「言わせるなよ。この話の流れなら、訊かなくてもわかるだろ?」
「…そうだな、ネリーナはもう、尼さんじゃないんだ。何ら差し支えはないだろう」
「そういう意味じゃない。ネリーナは全然気づいてくれないんだ。――あいつが修行のためにフィレンツェへ出るから、俺も修道院をやめてフィレンツェへ働きに出たんだ。会える回数は減ったけど、今までずっと一緒さ。IEAのエクソシストになってからは、ほとんど会えなくなったけどな」
「お前の気持ちは話したのか?」
グレゴリは首を横に振る。
「言ったら、これまでの関係じゃなくなるんだ。いい結果ならうれしいけど、でも、もし駄目だったらって思うとさ。気付いた素振りでもあれば、駄目かどうかぐらいわかるのに」
「グレゴリ、お前はイタリア人男性らしからぬ奥ゆかしさだな。日本人の俺が呆れるほどだ」
「…たっく、からかうなよ。これでも真剣なんだ」
グレゴリは顔を真っ赤にして言い返す。顔が赤いのは腹が立っているわけでなく、照れているのだろう。
「すまん。ただ…」
「……?」
「…好きなら、早く気持ちを伝えることだ。――人生は限られた時間しかない。だから急いだ方が大抵は得だ」
「…年寄みたいなことを言うなよ。俺とそう歳は変わらんくせに。――もっとこう、あれだ、お前の知っている術か何かで、どうにかできないのか?」
自分の言葉がおかしかったのか、グレゴリはげらげら笑いだした。それにつられて平二も笑う。
「…ないこともないが、試してみるか」
平二の言葉に、グレゴリは即答する。
「ハハハッ、聞いておいて悪いが遠慮しておく。あいつには誠実でいたいんだ」
そう言ってグレゴリはにんまりと笑った。
「さあ、ネリーナはしばらく帰ってこないだろうから、俺がコーヒーでも入れようか」
グレゴリは立ち上がると、部屋の奥にあるキッチンらしきところへ向かって行った。