バチカンにある秘文書保管庫で、マイケル・コールマン神父は一冊の本を開いた。もう初老と言える年齢ながらも、大柄な体躯は衰えを知らず、背筋は天井に向けて真っ直ぐに伸びている。日に焼けた肌には幾重にも皺が刻まれていて、奥まった眼孔にある瞳は青い。アメリカ人である彼だが、アイルランド系の血を引いているためだ。

 秘文書保管庫は、バチカン図書館とは違い、保管されている文献の閲覧は厳しく制限されている。保管庫の文献は、その価値を五段階に区分けされていて、通常は自由に出入りはできない。ほとんどの文献は、歴代の法王が残した書簡やメモなどの類だが、一部には広く公開できないながらも、価値の高い資料が保管されている。

 コールマン神父が広げている本は、五段階中の最上位、最も秘匿性の高い物だ。本を広げたコールマンの傍らには老人がいる。閲覧用の事務机の上に本を置き、二人は並んで座っていた。

 「カブリエーレ枢機卿、これがお話した、IEA設立の根拠となった本です」

 カブリエーレと呼ばれた老人は、卓上で手を組みながら、無言で本に目を落としている。

 「およそ百五十年前の日本へ、宣教師として派遣されたミケーレ・ラブティ神父が書いた、一種の旅行記のようなものです。彼が、日本で遭遇した魔物のことから始まります。その後、彼は日本から逃げた魔物を追って、世界中を二人で旅をした記録が書かれています」

 「…二人?」

 「ええ、日本で出会った、ヘイジという男と二人で。ラブティ神父が十年近く、その男と魔物を探して旅をしたことが、この本には書かれているんです」

 カブリエーレは本のページを何枚かめくった。中には文章の他に挿絵もある。

 「特筆すべきは、我々キリスト者の力、神の力が、日本の魔物によく通じなかったと書かれている点です。ラブティ神父は、ヨーロッパに戻った折にそのことを訴えました。そして、バチカンにおける、IEAの設立に尽力したのだと記録には残っています。それが…」

 「それで君が、私をここへ呼んだ目的はなんだ?」

 少々苛ついた様子のガブリエーレは、本題を切り出そうとしないコールマンの言葉を遮った。出掛った言葉を飲み込んだコールマンは、改めて話を始める。

 「…私は、IEAという組織の不誠実さを訴えているのです。IEAは、カソリック信者でないどころか、キリストの存在を否定する者の手を借りてまで、悪魔祓いを行っています」

 「…ストランデット―取り残された者、という意味だったかね」

 「そうです、それらの者たちに、金銭を渡してまで協力を仰いでいる。それは信徒からの貴重な寄進を、異教徒に分け与えているのと同じことではないですか」

 「だが、宗教や文化の違いで、悪魔や魔物に対する力関係が変化することは、我々自身も既に理解していることだ。必要悪というのも時には受け入れなければ。―そもそも君自身がIEAの中で重鎮の役にあるのだろうに。もしも不正があるなら…」

 コールマンは、カブリエーレの言葉を遮るように言った。

 「不正ではないのです、司教。もっとも、異教徒と結託することを不正とするなら、あの組織自体が不正な存在です。―先日、私はある映像を手に入れました。そこに映ったものを調べていくうちに、ある事実を知ったのです」

 「……?」

 「IEAを創設し、初代協会長を務めたミケーレ・ラブティ神父はまだ生きています」

 ガブリエーレは、コールマンの言葉に眉をひそめる。

 「ラブティ神父がその本を書いたのは、百年以上も前だ。幾らなんでも…」

 カブリエーレをよそに、コールマンは本を数ページめくると、挿絵のあるページを開いた。

 「これは、ラブティ神父らが追っていた、日本の魔物『芭尾』です」

 開いたページの挿絵には、青いドレスを身にまとった東洋人女性が描かれていた。見かけは東洋人だが、その瞳は青く、スカートの裾からは長く太い尻尾が垂れている。

 「狐の魔物だとか。この魔物を追って世界中を旅したそうです。結局、芭尾は見つからずIEAが創設されてからも,探索は続けられていました」

 そこでコールマンは、床にあった鞄を取り上げると、紙ファイルの束を机の上に載せた。そのうちの一つを広げると、中に挟まった書類を広げる。

 「最近IEAでは、古い記録のデジタル化が進められています。これはその作業の中で発見された、もっとも古い記録の一つです。―一九一〇年のウィーンに現れた魔物を、ラブティ神父とヘイジ・イノウという男が調べに行っています」

 書類を取り上げたカブリエーレは、その紙がずいぶんと黄ばんでいることに気づいた。このファイルが古いのは間違いないらしい。書類と共に挟まっている白黒写真には、黒いコートに身を包んだ東洋人男性が、死体らしきものの傍で片膝を着いているのが写っている。

 「そしてこれは十年前のファイルです。二〇〇二年のパリへ、ストランデットのヘイジ・イノウが、やはり日本の魔物に関する件で赴いています」

 そのファイルにも何枚かの写真が挟まっている。そのうち一枚をコールマンが指差した。大勢の警官が血だらけの死体を囲んでいる中に、一人の東洋人男性が写っている。カブリエーレは老眼鏡を取り出すと、写真を凝視した。不鮮明ながらも、先ほど見た百年前の白黒写真と同じ男が写っている。

 続けてコールマンは、比較的新しい紙ファイルを差し出す。

 「これは、IEAに所属するストランデットの個人ファイルです。本来、部外者には決してお見せできませんが…」

 そう言いながらファイルを開いたコールマンは、一枚の書類をカブリエーレに手渡すと、話を続けた。

 「ヘイジ・イノウ、日本人、年齢は二十五歳。現在のIEAにおいて、もっとも有能なストランデットの一人です。彼の対応分野は広く、仏教系を中心としたアジアからの悪魔や魔物全般を相手にします。他にも西欧、いわばキリスト教に敵対する悪魔を退治した記録も多数残っています。右眼は魔物から与えられたもので、不可視な霊、悪魔、魔物、他には霊的な残留思念やエネルギーを見ることができます。また、霊的なエネルギーを増幅して、雷のような攻撃に変える剣を所有していて…」

 「ちょっと、待ってくれ」

 カブリエーレが、コールマンの言葉を遮った。

 「専門的な言葉が多すぎて、よくわからない。―要するに、この男は一九一〇年から今まで、ずっとIEAのストランデットでいるということなのか?」

 「いえ、それより前、ラブティ神父と芭尾を追った男と同一人物です」

 「ではこの男は、百五十年もこの姿のままで生きていると言うのかね」

 「はい。そしてラブティ神父は、六十年前に死去したことになっていますが、実は今だ存命です。彼は一介のエクソシストとして、イタリア各地を転々としています」

 そう言ってコールマンは、二枚の写真を取り出した。先にコールマンが示した写真には、ヘイジ・イノウらしき男と、カソリック神父の平服である、黒いキャソックに身を包んだ男性が写っている。記念写真よろしく、並んで写っているその写真は白黒で、古いものであるのは間違いない。

 「これは、二次大戦前に撮影された、ミケーレ・ラブティ神父の写真です。そして、これを見てください」

 次の写真には、祭服を纏ったヨハネ・パウロ二世が写っている。写真の様子からすると、何かの儀礼の時の写真であろうか。大勢の聖職者が並んでおり、その中にはカブリエーレが見知った顔もいる。

 コールマンはその端のほうに写っている、白い儀礼服に身を包んだ老人を指した。それは幾分老いているものの、ラブティ神父であるのが見分けられる。ヨハネ・パウロ二世の在位は一九七八年十月からだ。この時にラブティ神父がいるはずがない。

 「彼が現在どこにいるかはわかりません。ですが、肉体は衰えても、いまだ健在であるのは間違いない」

 カブリエーレは深いため息をついた。突拍子もない話の連続に、驚きを隠せない。未開の部族のシャーマンが、はったりで年齢をさば読むのとは違う。現実に存在するカソリックの神父が、常人の二倍近い年齢を経てなお生きているというのだ。

 「ラブティ神父がこの本を書き終えたのが、三十五歳ぐらいのころだと思います、だとすれば、今は百八十歳ぐらいでしょう」

 「……それが全て事実だとして、君は一体何がしたいのだ? なぜ私を呼び出して、こんな話を聞かせる?」

 コールマンは椅子に座りなおして姿勢を正すと、カブリエーレの方を向いた。

 「ラブティ神父が長命なのは、奇跡なのかもと思いました。しかし彼は、IEAという組織を作ることで、この神の住む家に、異教徒が土足で踏み込むことを許した。何よりも、彼と行動を共にしてきたヘイジ・イノウは、その年齢だけでなく、見掛けまで変わっていない。―彼らは悪魔だ。こんな作り話をでっち上げて、バチカンの中にまで入り込んできたのです」

 コールマンは机の上にあった本に拳を叩き付けた。

 「カブリエーレ枢機卿、我々はこれ以上、まやかしの組織をバチカンに置いてはいけない。IEAの任は聖秘跡省で十分に事足りるのです」

 聖秘跡省は、バチカンの教皇庁に属する機関だ。以前よりIEAの活動に疑問を持っていたカブリエーレを含む高位聖職者数名が、三年前に進言して設立された。カソリック教会で行われる儀式の正当性を監視する目的で作られた省で、主な監視対象はエクソシズム=悪魔祓いだ。そのため、経験のあるエクソシストが多く聖秘跡省に属している。、当然ながら、その監視対象にはIEAも含まれている。

 「しかし…、」

 「カブリエーレ枢機卿、ここに持ってきた証拠では足りないと言うのであれば、教皇庁にあるデータベースの利用を許可していただきたい。ミケーレ・ラブティを捜し出して、隠されてきた不誠実な事実を、本人に告白させるのです」

 カブリエーレは、コールマンの強い口調にたじろいだ。枢機卿であり、聖秘跡省を治めるカブリエーレは、教皇庁にある全聖職者に関する詳細なデータベースへのアクセス権を持っている。コールマンは、それを使わせろと言っているのだ。

 「しかし、異教の悪魔はどうする? 我々の力は及ばないはず…」

 「それならもう、臆することはありません。我々には神の力がある」

 コールマンは握った手をカブリエーレの前にかざすと、ゆっくりと広げた。錆びた小さな鉄片が、その手の中から現れる。

 「神の力は、形を成してこの世に存在する。これがあれば、我々は戦える」

 カブリエーレは眼を見開いた。驚きと畏敬でわななく手で、鉄片を持つコールマンの手を包み込むようにすると、喉の奥から絞り出すように声を出した。

 「…おお、そうだ。聖遺物の力があれば…」

 震える声で言うカブリエーレに、コールマンはにっこりと笑いかけた。その瞳の奥に、青い光を湛えながら。


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