九、           バチカン

 

 朝六時にローマへ到着した平二とネリーナ、グレゴリの三人は、平二が駅の売店に寄った以外は、寄り道せずにバチカン市国へとやってきた。

 平二はタクシーに乗ろうとしたが、ネリーナはバスで行くことを主張した。フィレンツェの空港で苦い思いをしている平二は反対したが、ちょうど停留所に路線バスが止まっていたので、仕方なくネリーナに従った。だが乗ってみると、ネリーナが正しかったことが分かった。ローマの朝は、ひどい車の渋滞が発生する。歴史的遺物が地下に層をなして埋まっているローマは、地下鉄網が発達していない。それに歴史のある町ならではの悩みとして、区画整理が全くできていない。そうした理由で、通勤時間の朝は、凄まじい車の渋滞が起こるのだ。確かにタクシーに乗っていたら、料金はべらぼうに跳ね上がっていただろう。

 早朝にも関わらず、バチカンのサン・ピエトロ広場はすでに観光客で溢れている。巨大な石柱、オベリスクを中心に放射状に石畳が広がっている広場は、柱の上に立つ聖人たちの像の囲まれている。そして広場を抜けた奥にあるのが、サン・ピエトロ大聖堂だ。

 ここはカソリックの信徒にとっての総本山であり、最も権威のある人物が住まう場所だ。そして観光都市ローマにおいても、重要な名所の一つとなっている。大聖堂の前では既に観光客が列を作っていて、中に入るのを心待ちにしている。

 平二たちは、列を作る観光客をよそに、派手な縦縞模様の制服を纏ったスイス傭兵が立つ、大聖堂の脇の門へと向かう。十六世紀に教皇ユリウス二世の依頼で、バチカン市国の警護にと雇われたスイス傭兵は、今なお伝統的にバチカンと教皇の警護の任に就いている。伝統とはいえ、警護に着く者たちは実際にスイスの軍隊から派遣されており、近代兵器の扱いにも長けている。

 ネリーナは、スーツにネクタイ姿のグレゴリに縋るようにして、人ごみの中を進む。たった一晩で驚異的な回復を見せたネリーナは、今朝には支えがなくても歩けるようにまでになった。顔につけられた火傷のような跡は、すでに消えかけている。元々エクソシストとしての素養もあるだろし、平二の渡した聖水の効果かもしれない。霊的な攻撃で受けた傷は、霊的な治療で劇的に回復する。

 グレゴリは、バチカンに来るからにはと、自分が持っている一番上等なスーツを持ってきた。彼の母親が生きている頃に見立ててもらったという一張羅だ。買ったころから体型が変わったのか、上着の肩の辺りがきつそうに突っ張っている。

 背が高い鉄製の門に近づいた平二たちの前に、二人のスイス傭兵が立ちはだかった。平二は振り向いて、グレゴリに声を掛ける。

 「この先は関係者しか入れないんだ。悪いがカフェで時間をつぶしていてくれないか」

 「折角バチカンまで来たんだ。あっちから入って、サン・ピエトロ大聖堂へ行ってくるよ」

 「では、ここで待ち合わせましょう。二時間後にまたここで」

 ネリーナはグレゴリから体を離すと、懐から銀色のカードを取り出した。このカードには所有者を生体認証するためのICチップや、磁気情報が組み込まれている。むき出しのアルミ板で作られたカードには、金色でIEAのマークが印刷されている。円の周りに葉のような形が六つ伸びており、もう一つの円で全体を囲んでいる。

 「ヘイジさん、あなたのも」

 平二も持っていたボストンバックのポケットから同じカードを取り出した。警備員が無言で二人のカードを受け取ると、脇の小屋にある機械に通して確認をする。

 門を通った二人は、大聖堂とその横に建つ宝物庫の間を抜けて、バチカン市国へと入って行った。門の内側は、整備された公園のように木々が生い茂っている。街の喧騒とは完全に切り離されたかのように静かだ。

 バチカン市国は、ローマ市内に位置する世界最小の主権国家であり、世界中のカトリック教会の中心である。ローマ教皇の下で、カソリック信者による信者のための国家を運営するローマ教皇庁は、国家運営を司る国務省を中心に、カソリック教会における様々な業務をこなす十の省からなっており、他に裁判所や多くの評議会を有している。

 狭い敷地内には、世界最小にして最大の人口を誇る国家の運営を行う庁舎が点在している。平二たちは、その中でも特に無機質で装飾のない、コの字型をした建物に近づいていく。中庭になる部分は高い鉄柵で塞がっており、柵には平二たちのカードと同じ、金色のマークが等間隔で配されている。

 鉄柵の中央にある門には、スイス傭兵ではない、物々しい身なりの警備員が二人を出迎える。胸に金色の刺繍でマークが入った群青色のつなぎに、漆黒のベレー帽をかぶり、腰には大型の自動拳銃を見えるように下げている。 この建物は他の庁舎とは違う。ここは悪魔と戦うエクソシストたちの要塞なのだ。

平二たちを一瞥した警備員は、何も言わずに門を開けると、二人を中に招き入れた。

 門をくぐった平二たちは、石畳が敷き詰められた中庭の向こうにある扉から、司祭服を着た初老の男性が出てくるのを認めた。羽織ったガウンには金糸で刺繍が施されており、人目で位の高いものだとわかる。

 近づいてきた男性は、二人に声をかけた。

 「おはよう、早かったね」

 男性は笑みを浮かべながら、平二たちの下へ近づいてくる。

 「おはようございます。サンジェルマン司教」

 「やあ、ネリーナ。フィレンツェでは大変だったね。―ああ、ヘイジ、何年ぶりだろうか。君に会えるのは久しぶりだ、君は滅多に来てくれないから」

 「おはよう、ミシェル。俺がここに来るのは気が進まないことはよく知っているだろ? たまにはあんたも外に出たらいいのに」

 「相変わらず、君はまったく変わらないな。その口調も見掛けも、本当に変わらない」

 平二が自分の上司に対して軽口で喋ることにネリーナは驚いた。

 ミッシェル・サンジェルマンは、もう三十年もIEAの協会長を務めている人物だ。IEAはその独自性と特殊性から、バチカン市国内でも相当な権限を持っている。その長であるサンジェルマンは、必然的に権力者になる。彼に命令ができるのは、唯一教皇だけだとまで揶揄されるほどだ。

 一体この二人はどのような関係なのだろうか。さして自分と年齢の変わらない平二と、もう九十歳も近いと言われるサンジェルマンが、旧知の友人のように接している。

 「とにかく、ここは寒いから、私の部屋に行こうじゃないか。そこでゆっくり話をしようか?」

 サンジェルマンが二人を先導して歩き出した。

 「フィレンツェでは、強い悪魔に遭遇したそうだね」

 「ああ、確かに強かった。危うく殺されかけたよ」

 「君がか? それほど強い悪魔がいるとは…」

 「聖水が効いたから、こちらの方の悪魔だと思う」

 「ほう…」

 「なあミシェル、(とぼ)けるなよ。ネリーナが送ったDVDに一体何が映ってた?」

 「……」

 サンジェルマンは平二の問いに答えない。唇を真一文字に結んだまま、俯き加減で黙ってしまった。

 建物の中をしばらく歩くと、大きな両扉の前で立ち止まった。両手で扉を左右に押し開けたサンジェルマンは、平二たちを招き入れる。

 部屋の中は建物の外観とは違って、豪奢に飾られている。床には数種類の大理石を組み合わせたモザイク模様が広がっており、暖炉には火が灯っていた。

 「まあ…隠していたわけではないのだ。いずれは伝えねばならないと思っていた。タイミングをね、見計らっていたのだが…」

 昨晩のうちに、ネリーナがフィレンツェであったことを報告している。サンジェルマンは、平二たちが防犯カメラの映像を見るために来たことはわかっているはずだ。

 「俺はまだしも、ネリーナは死に掛けたんだ。そのビデオを俺に見せていれば、十分な準備ができたかもしれないのに」

 平二は、真っ赤な革張りのソファに深く腰掛けた。ネリーナは躊躇して、ドアの辺りに立っている。サンジェルマンはネリーナにも、ソファに座るよう促した。

 「確かに君の言う通りだ。今回の件に関しては、率直に謝らざるを得まい。ネリーナ、申し訳なかった」

 一度、ソファに腰掛けたネリーナは、サンジェルマンの謝罪の言葉を聞いて、慌てて立ち上がった。

 「わ、私は大丈夫です。神のご加護を頂いたおかげで無事でしたから」

 「君にもそのDVDは見てもらおう。今ここに持って来させるから、ちょっと待っていてくれたまえ」

 サンジェルマンは、大きな書斎机の上にある電話でどこかに連絡すると、机の向こうにある大きな椅子に座った。

 「私も映像は見たよ。だが、君たちが遭遇した悪魔と関係あるのかは分からない」

 「それは、俺が見てから考えるさ」

 「ああそうだな、それがいい。君が見なければ…」

 サンジェルマンが言い終わる前に、ドアをノックする音が響いた。黒いスーツ姿の男性が部屋に入ってくる。DVDを受け取ったサンジェルマンは男に礼を言うと、机の上にあったノートパソコンにそれをセットした。

 「君が見るべき映像は、……ここだ」

 サンジェルマンが、画面を二人に見えるようにパソコンを回した。

 DVD一本で、二十四時間分の映像が保存されている。それが六枚、六日分の映像がIEAに送られた。映像にはタイムスタンプがある。今見ている映像は、十二月十日の午前十時半の表示があり、映像が進むにつれて時間が進んでいく。その日こそ、例の掛け軸が封印から解かれ、廊下に投げ出された日だ。

 映像には、時折保管室の扉の前を往来する人が映り込む。まだ何かが起こった様子はない。しばらく何ら変哲もない様子が続くが、数十秒すると、カメラの手前から二人の男女が歩いてきた。男はTシャツの上に、肩口から袖のないライダースジャケットを着ている。女の方はキャメル色のコート、襟に毛皮らしきものを着け、頭には布のようなものを巻いている。

 二人とも後ろ姿しか映っていないので、顔が見えない。両方とも美術館の職員としては異質な格好だ。

 その男女は保管庫の前に来ると、躊躇なく扉を開けて、中へと入っていく。

 数人の職員が通り過ぎて行くが、誰も保管庫の扉が開け放してあることに気を留めない。

 数分後、部屋から先ほどの二人が出てきた。ライダースジャケットの男が、平二の封印したあの掛け軸を握っている。難なく目に見えないはずの包み紙を拡げて封を解くと、呪符が貼られた掛け軸を取り出した。男は呪符を無造作に剥がして足元に捨てる。すると男は、掛け軸の一端の軸を持って、それを振る様に放り投げた。掛け軸はきれいな弧を描いて廊下の床に広がって落ちる。女の方は、その様子をカメラに背を向けて眺めたままだ。

 男が防犯カメラに気付いて指を差す。すると、女が振り向いた。

 その瞬間、平二の喉がひゅっと短く鳴った。

 部屋全体の雰囲気が、一瞬のうちに冷たい殺気で凍りつく。

 思わずネリーナは、隣で画面を見つめる平二に振り向いた。あの時、ウフィッツィ美術館で見たあの赤い眼だ。平二の天狗の眼が、鈍く赤い光を放っている。ネリーナは平二に声を掛けようとするが、えも言われぬ重圧で、体の自由が奪われている。指一本動かない。声を出そうにも、上下の唇が離れようとしない。息苦しくなって、自分が息をしていないことに気付く。平二が唸った一瞬から、呼吸さえまともにできていないのだ。

 すると、サンジェルマンが平手を打ち合わせた。強烈な破裂音が部屋中に響き渡る。体の呪縛が解けたネリーナは、その場で崩れ落ちた。

 「ヘイジ、落ち着きなさい」

 サンジェルマンが静かに、重みのある声で言った。先ほどまでの機嫌の良い声色でない。

 しばらく沈黙していた平二が、コンピュータの画面からサンジェルマンに眼を向ける。もう眼は普通の状態に戻っていた。

 「……これは、芭尾だ」

 「そう、一緒にいる男が誰なのかはわからない。だが女の方は、芭尾だ」

 画面に映った女の顔は不鮮明ながらも、それは間違いなく芭尾だ。頭からかぶったストールのから覗いた顔は、平二の妻であったおゆうのそれに間違いない。

 平二は傍にあったソファに、ドカッと身を投げ出した。

 「知っていて何故隠した! 俺が奴をどれだけ探していたか、知っているだろう?」

 先ほどのような殺気はないものの、平二の怒声は、部屋の空気を緊迫させる。

 「この映像が届いたのが四日前だったらしい。このDVDが私の手元に来る前に、教皇庁の上層部に、映像の内容が報告されてしまった。IEAは私の統括とはいえ、単なるバチカンの一部組織だ。教皇庁が否と言えば、私はそれに従うしかない」

 「何…?」

 「芭尾は日本から渡来した魔物であるから、平二に任せて然るべき案件だ。しかし、このビデオに写っている男を見ただろう? 君等が遭遇した悪魔のことを考えれば、この男も西欧圏の悪魔だと思っていいだろう。現に教皇庁はそう判断した」

 「なぜ芭尾が悪魔と一緒にいるかなんて、知ったことじゃない。あれは、俺が倒す約束だ」

 「それでヘイジ、君の眼でこの映像を見てどうなんだ? この男は何者なんだ?」

 平二は、改めてモニター上で制している画像を見る。眼を凝らさずとも一目見てわかる。この男から発せられている邪な気は、映像を通しても感じられるほどに濃い。

 「ああ、これは悪魔だろうな。しかもとびきり強い」

 「やはり、キリスト教に関わりのある悪魔の具現化だろうか?」

 「この様子だとそうだろうな。映像からでは、俺の眼でも本当の姿はわからない。―IEAのエクソシストが見てもわからんか?」

 「いや、IEAでこのビデオを見たのは、私以外には一人だけだ。―実は教皇庁の中で、芭尾の討伐をバチカンのエクソシストがするべきだという声が上がっている」

 「なんだと…?」

 「芭尾の行方が分からなくなってから、既に百年以上が経っている。この間に、少なくない数のカソリック信徒も芭尾の犠牲になっている。芭尾は我々カソリック教会にとっても、多大な災厄を生んできた悪魔なのだよ」

 「だから当事者である俺が奴を追って、IEAがそれに手を貸してきた。俺が芭尾を倒すことに、バチカンは百年間一度も口出しをしていないじゃないか?」

 「だから今になって口出しを始めたんだ。初代の意志を尊重して、芭尾に絡むあらゆる事は君に任せてきた。しかし一向に行方すらつかめない君に、教皇庁は痺れを切らし始めたんだ」

 「バチカンが異教徒の俺を嫌うのは、今も昔も変わらないだろ。こんな時、初代はいつも何とかしてきた。お前もそうだったはずだ」

 ネリーナは二人に圧倒されて、ソファに座ることを忘れていた。カメラに映った女の顔を見た途端、凄まじい殺気を放った平二と、それを拍子一つ打つだけで収めてしまったサンジェルマン。そしてこの二人の会話はどう理解すればいいのだろうか。百年という単位で物事を言い争う二人の会話は、全く持って不可解だ。

 「すまないがヘイジ、事情が変わったんだ。最近、教皇庁内に聖秘跡省という機関が発足した。君は滅多に来ないから知らないだろうな。エクソシズムは儀式だ、それは聖書にも記述されている。儀式としての逸脱した行為や、そぐわない解釈などを見つけて修正するのが聖秘跡省の役目だ。いわばカソリック教会における内偵調査機関だな。それまでは、IEAが悪魔や魔物に関わる最上位の組織だったが、今はその聖秘跡省が優先的にエクソシズムに関する監視と管理を行なっている」

 「そのゲシュタポがどうしたんだ」

 サンジェルマンが、顔をしかめて答える。

 「勘弁してくれ、仮にも教皇庁内の組織だ。そういう表現はするな。―聖秘跡省へは、IEAにいたエクソシストが何人も籍を移している。聖書に沿った儀式の遂行を是とする彼らの姿勢には、バチカンの中でも支持者が多い」

 「IEAから、人が減っているのか?」

 「ああ、マイケル・コールマン神父は知っているか?」

 「…いや、知らないな」

 「IEAのなかでもトップクラスのエクソシストだ。優秀な上に子弟も多く、人望も人気もある。―近く、彼も聖秘跡省に移ると言っている。そうなると相当な数のエクソシストが、IEAから出て行くことになるだろうな」

 ネリーナは、マイケル・コールマンの名前を聞いて表情を変えた。気まずい様子でいるネリーナに気づいた平二が声を掛ける。

 「ネリーナ、コールマンを知っているのか?」

 「…はい。IEAに来てからは、コールマン神父に師事しているんです。霊的な力に恵まれている方で、あの方が持つロザリオに触れただけで、憑いた悪魔が消滅してしまうこともありました。後継の育成にも熱心な方で、沢山の人に慕われています。―私もその一人です」

 「そうか」

 興味なさ気な声で応じた平二は、サンジェルマンに向いた。

 「で、お前の他に、ビデオを見たもう一人っていうのは、そのコールマンか?」

 「ああ、彼がこのビデオ見て教皇庁に報告した。―私がこのDVDのコピーを手に入れたのは、昨晩のことだ」

 平二が露骨に舌打ちすると、サンジェルマンも応えるように大きくため息をついた。

 「残念だが、もう決定は下された。教皇庁と聖秘跡省は、数人のエクソシストで精鋭部隊を構成し、芭尾とその仲間と思われるものの討伐にあたる」

 サンジェルマンは机の引き出しを開けて、一枚の便箋を取り出した。平二が一昨日にネリーナから受け取ったクレームの手紙と同じ紙に、手書きの流麗な字が書かれており、最後にサンジェルマンのサインが入っている。それを平二に見えるように手で吊るして広げた。

 「君と私はオブザーバーとして、討伐隊に同行できるよう交渉してある。聖秘跡省は、カソリック信徒でない君の介入を強く拒んでいるのだがね。これまでの経緯もあるし、同行することだけは納得させたんだ」

 サンジェルマンの依頼書を手に取った平二は、うつろな表情でそれに目を通す。

 「納得させたって…、IEAがなんで、そこまで遠慮しなきゃならないんだ?」

 バチカンの中にあって、ほぼ独立組織として機能しているIEAは、エクソシズム=悪魔祓いにおいては絶対的な権力を持っていた。だからこそ、平二のような異教徒による悪魔祓いも黙認されてきた。しかし、IEAを神秘主義、オカルティシズムに傾倒しすぎる異端と呼び、その権力が大きすぎることを批判するものも多い。だがまさか、そうした者がIEAの内部から出てこようとは、サンジェルマンも思いもしなかったのだろう。

 「あんたのボスは、俺に関わらせたくないと言っているのか」

 「だめだ、そういう呼び方をするな。お前も知っているだろう? あの方はそういうことに偏見をお持ちでない。むしろ君たちを、協力者として歓迎しているんだ」

 「だが、バチカンで討伐隊を組むとなれば、『あの方』の許可がいるだろう?まさか、知らぬ存ぜぬでいるわけがない」

 「今回は聖秘跡省から提出された書類に、あの方がサインをしただけのことだ。しかし、ここにおいてはそれが絶対的な力を持つ」

 「なら俺の邪魔をしているのは、その書類とやらを出した奴ということか。一介の神父には無理な話だ。枢機卿の誰かだな?」

 「あまり騒ぎ立てると、君も私もこの件から排除されかねない。とにかく私の話を落ち着いて聞いてくれ。悪いようにはしないから」

 平二は自分を落ち着かせるよう、両目を閉じて軽く深呼吸した。

 「俺は元々誰かに許されて、悪魔や魔物を退治しているわけじゃない。芭尾を狩るために、随分長い間世界中を探し回ってきた。今更……」

 その時、ノックもなしに部屋の扉が開け放たれた。大柄な男に続いて、数人が足音を立てて入ってくる。先頭の男は、一直線にサンジェルマンの机の前へとやってきた。大柄な体躯を、ゆったりとした司祭服で隠すように包んでおり、浅黒く面長な顔には、深い皺が幾重にも刻まれている。

 「サンジェルマン司教、ここにヘイジ・イノウが来ているそうですな?」

 男は不躾(ぶしつけ)にサンジェルマンに言い放った。

 「コールマン神父、いくらなんでも、ノックもなしに入ってくるとは」

 サンジェルマンはコールマンと呼んだ男の肩越しに、一緒に入ってきた数人の男女を見ながら言った。

 「先ほどのおぞましい気は何です? 外からでも感じることができた程だ」

 コールマンは、先程平二が放った殺気を言っているのだ。

 「ああ、ヘイジならそこにいる。あれは…、別に大したことじゃない。まさか、それでわざわざ私の部屋に押しかけてきたのか?」

 「ストランデットはおかしな術を使う。まさかここバチカンで、異教の神秘主義者が何かするのではと、皆が駆けつけたのです」

 コールマンが、ソファに座る平二を睨みつけた。

 「そもそも異教徒に頼ることなどない。この様な者に力を借りる屈辱を甘んじて受けるより、自己を犠牲にしてでも、信仰心に準ずるのが我々の使命である筈だ。この神聖な城で、あのような気を放つ輩と手を結ぶなど、絶対にあり得ない。―サンジェルマン司教、このことは上に報告します。当然、あなたとそのストランデットの同行の件はなかったことに…」

 熱弁を振るうコールマンの横に、平二が立った。

 幾人もの人間の前で音もなく立った平二に、サンジェルマンを含めた全員が気付かなかった。平二の顔はコールマンから十センチも離れていない。息がかかる程に近づいた平二に気付いて、コールマンが慌てて後ずさった。

 「俺が稲生平二だ。コールマンとか言ったか、どうやら貴様らしいな?」

 平二は静かに、自分の感情を抑えるように言葉を吐き出す。先ほどの様に眼は光らないものの、また殺気が部屋の中に立ち込め始める。平二を止めようとネリーナが立ち上がったが、既にサンジェルマンが平二の後ろに立って肩に手をかけている。

 「ヘイジ、落ち着きなさい」

 サンジェルマンの手に力が込められる。平二は動かない。無表情でコールマンを睨み付けている。

 「ここで問題を起こせば、私にも庇いきれないんだ。今の私には味方も少ない。堪えてくれ」

 平二はコールマンから視線をはずすと、肩を落してつぶやいた。

 「……あんたはIEAの長だろう、どういうことだ?」

 振り向いて、サンジェルマンを見やった平二は、サンジェルマンの顔に深く刻まれた皺が、以前と比べて増えていることに気付いた。

 「君はしばらくここに寄らないからな。昔とはいろいろ変わったんだ」

 「いい加減にしてくれないか」

 平二に詰め寄られて尻込みしていたコールマンが、気を取り直したように声を張り上げた。

 「イノウ・へイジ、君のようなストランデットの手を煩わせずとも、聖秘跡省が派遣したエクソシストで十二分に足りるんだ。今回の…ああ、芭尾という君の国からきた悪魔も、正式なエクソシストである我々が退治する。私が指揮する討伐隊に、君が加わることはない。―どうしても自分が、と言うのなら、我々が失敗することを仏陀にでも祈ることだ。もしかすれば、君の出番も回ってくるだろうに」

 「ああ、そうだな。お前らじゃ無理さ。お前らの知っているやり方は、奴には一切効かない」

 「君は、ずいぶん長いこと芭尾を探しているのだろう? フフッ」

 コールマンはおかしくて堪らない風に笑みを浮かべる。何か知っているのだろうか? 自分が有利な立場にいる者がする、余裕の笑みだ。

 「私はもう、芭尾の居場所を見つけたよ」

 平二は思わず声を上げそうになった。その様子を見て、コールマンの口元にますます笑みが浮かぶ。平二を出し抜いたことを確信したのだ。

 「事が済んだら、報告書の写しぐらいは送ってやるから、国に帰って待っているといい」

 動揺を隠しきれない平二を一瞥したコールマンは、軽く咳払いをするとサンジェルマンに向き直った。

 「サンジェルマン司教、あまりストランデットに好き勝手にさせないで欲しい。 また先ほどのような、おぞましい気を感じることがあれば―」

 サンジェルマンに苦言を言いかけたコールマンに、ネリーナが口を挟んだ。

 「まっ、待ってください! あれは、あれは私がヘイジさんに頼んだのです。ヘイジさんのような力を持つストランデットに初めて会ったのですから、どんなことができるのか見せろと強請(ねだ)ったのです」

 「………」

 コールマンは渋い表情を浮かべながら、ネリーナを無言で見つめている。ネリーナの発言は予想外だったようだ。

 ネリーナは下を向いて黙ってしまった。口元を強く結んでいる。動悸が激しくなって、立っていられないほどの緊張感を感じる。

 立ち尽くしたネリーナに向けて、コールマンが口を開いた。

 「もっと上を目指したいと私のところに来て以来、しばらく君を知っている。今でも君はその望みを叶えるに値する、人格と信仰心を持った人物だと思っているよ。だが、今回サンジェルマン司教が君をストランデットの目付役に選んだと聞いて、大いに不安を感じたのだ。それは君の経験の浅さを心配したのではない。君がストランデットという存在に出会って、毒されやしないかと…、おかしな影響を受けかねないとね」

 「本当に………嘘ではないのです。コールマン司教、私はまだ経験が浅い。興味本位でヘイジさんに力を見せてくれるよう、頼んだ私が浅はかでした…」

 ネリーナは顔を下に向けて黙ってしまった。口元を強く結んでいる。

 「ネリーナ、早く目を覚ますことだ。君はフィレンツェで随分危ない目にあったそうじゃないか? それは、そこにいるストランデットの所為でなかったか? 君には悪魔に抗い、それを退ける十分な力があるはずだ」

 ネリーナは、フィレンツェで全く何もできなかった自分を思い返す。近づく悪魔を見ることも感じることもなく、取り憑かれ、いったい何が起こったのか記憶もあやふやだ。平二がいなければ一体どうなっていたのか? あの時、自分は(おご)っていた。自分の信仰心は絶対で、イエス・キリストの力はどんな強い悪魔も打ち倒すのだと信じていた。いや信じていたつもりだったのだろうか。いずれにせよ力不足で悪魔に翻弄されただけだ。

 「コールマン神父、ヘイジさんがいなければ私は今頃死んでいたかもしれません」

 ネリーナがそう言うと、またしばらく部屋に沈黙が続く。

 コールマンは大きくため息をついた。「邪魔をした」と小さく言うと、身を翻して入ってきたドアの方へ歩いていく。それに続いて、一緒にきた者らも部屋を後にする。

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