「あぁ! 目が覚めました」

 質素な漆喰の白壁に囲まれた部屋に、小さなベッドと机がある。ネリーナは、そのベッドの上に横たわっている。

 目を開けると、ふくよかな笑顔の女性が自分を見下ろしていた。先刻聖水を分けてもらった教会の神父が、一緒に自分を覗き込んでいる。

 顔を上げると、小ぶりな椅子の上で窮屈そうに座っているグレゴリの姿があった。

 「ネリーナ、大丈夫なのか? まさかお前がこんなことになるなんて…」

 グレゴリはネリーナに話しかけた。

 ウフィッツィ美術館で平二と一緒だったはずだ。確か美術館で最後に見たのは……。

 ネリーナは、悪魔の暗く黒い双眸を思い出す。目の前に迫った悪魔の顔。二つの点がぐるりと回って、吸い込まれそうなほどの深い闇になった。

 その後、自分はどうしたろうか?

 それを思い出そうとすると、強い吐き気を覚えて口を押さえた。何度か深呼吸を繰り返して、気を落ち着かせる

 口を押えた手に触れた違和感に気付く。両頬にガーゼが止めてある。

 「あまり強く触らない方がいい。火傷をしたような跡になっているから」

 老神父に言われて、初めて顎の辺りが痛いことに気づいた。体も気怠い。一体何があったのだろうか。

 押し黙っているネリーナの様子を察して、グレゴリが話し始めた。

 「平二から連絡があったんだ。お前が怪我したから、この教会に来てくれって。それから医者も呼んだし、お前さんを拭いて、着替えさせたりしたんだ。―ああ、拭いたり着替えたりは、ここにいる女性にお願いした。とにかく酷い様子でさ。まるで、頭から黒い絵の具をかぶったみたいで」

 自分の腕を見ると、水彩絵具を拭ったような黒い筋が残っている。

  グレゴリは、水の入ったグラスを差し出した。

 「ヘイジがこれを、お前に飲ませるようにって。神父さんが用意した聖水に、平二が何かしたようなんだが…」

 ネリーナは仰向けのまま、グレゴリに向けてゆっくりと話す。

 「それで―ヘイジさんは?」

 「ここでお前を介抱した後に、またウフィッツィ美術館に戻ったよ。夕食までには戻ると言っていた。―そうは言っても、もうすっかり夕食の時間は過ぎているな」

 「……」

 腕時計を見ると、もう夜の九時を回っている。

 ネリーナは両手をゆっくり上げると、手を開いて閉じる動作を繰り返す。気怠かった体に血が巡り始め、徐々に体に活力が戻ってくるのを感じる。いつも寒い時期、朝起きる時にする習慣だ。

 「…おい、無茶するなよ」

 グレゴリの心配をよそに、ネリーナはその動作を続ける。手だけでなく、体にもほてりを感じてきた。

 「…グレゴリ…私をヘイジさんのところへ…」

 そう言うと、ネリーナは半身を起こして、ベッドから足を下ろした。

 「さあ、その水をください」

 グレゴリは仕方がないと言うふうに、眉をしかめながらグラスをネリーナに手渡した。受け取ったネリーナは、持ったグラスを重そうに両手で包む。こんなものでも重く感じるほど、体が衰弱しているのだろうか。

 ふぅっと小さくため息をつくと、ネリーナはグラスに口を付けた。勢いよく水を口に含むが、すぐに(むせ)て、全部床に吐き出してしまった。

 「おいおい、大丈夫か」

 慌ててグレゴリが、ネリーナの背中をさすった。

 「…とにかく、ヘイジさんのいるところに連れていってください。今すぐに」

 懇願するネリーナに、「わかった」と答えながら、グレゴリは何度も頷いた。

 

 

                ※

 ネリーナとグレゴリは、老神父と女性に丁重に礼を言うと、ウフィッツィ美術館へ向かった。

 平二のいる場所がわからないので、警備員室に向かう。そこにいるはずのカルロ・ビリオッティに聞けば、平二の居所がわかるだろう。

 美術館の敷地内に入ってすぐ、観覧客用の入り口脇にある警備員室の扉をグレゴリが叩く。

 しばらく待つと、小柄なカルロがドアを開いた。

 カルロは仰々しく両手を広げて、グレゴリに支えられたネリーナに言った。

 「ああシスター、有難う御座いました。本当に有難うございます。悪魔を退治してくださったと聞きました。―酷く怪我をされて、なんと痛々しい。大丈夫ですか? とにかく、さあ中に入ってください。お連れの方もいらっしゃっています」

 どうやら平二はこの警備員室にいるようだ。

 中に入ると、警備員らのロッカーや事務机が並んでいる。飾り気のない部屋だが、入り口の脇には申し訳程度の祭壇があり、十字架が掲げられている。

 「さあ、こちらです」

 奥にもう一つドアがある。先導するカルロがドアを開けると、中にいる者に声をかけた。

 パイプ椅子に座って、並んだいくつものモニターを眺めていた人物が振り向いた。平二だ。

 「ヘイジ、ネリーナがどうしてもすぐ連れてけって言うから」

 グレゴリが声をかける。平二は機械を操作すると、見ていたモニターの画面を停止させた。

 「どうだ、ネリーナ? もういいのか?」

 平二が尋ねた。

 「一人では、ちゃんと歩けませんが…。もう大分楽になった気がします」

 警備員のカルロが、大きめのマグカップに入ったコーヒーを2つ持ってきた。グレゴリとネリーナに差し出す。

 「あの水は…あなたが何かしたのでしょう?」

 ネリーナはマグカップには口を付けずに、それを近くの事務机に置いた。

 「あれは…俺の霊力を込めて、聖水の効力を高めたんだ。まあ、霊的に体を消毒するようなものだな。エクソシストのネリーナには、あまり馴染みのない方法だろうけど」

 「いえ、その……感謝します…」

 てっきりネリーナが怒り出すかと思っていた平二は、礼の言葉を聞いて、意外だという表情を臆面もなく浮かべた。

 「あれはキリスト教…、西欧圏の悪魔でしょう? 本来なら、私が相手をしなければならないのに…。私はロザリオを手にしていながら、祈りの言葉も言えなかった」

 「ネリーナは、具現化した悪魔を相手にした経験は?」

 「………」

 「初めて…か?」

 「……はい」

 ネリーナはうつむき加減で言った。

 悪魔がその姿を人の前に晒すのは稀なことだ。大抵の人が見えないことも理由だが、悪魔自身も人に見られることを嫌っている。人との直接的な接触を避けて、間接的に影響を及ぼそうとするのだ。近代に入ってからは特にその傾向にあるらしい。IEAのエクソシストでさえ、姿を見せた悪魔を祓うことは滅多にない。ネリーナが直接悪魔と相対するのが初めてであっても、驚くことではないだろう。

 「相手が強すぎた。―ネリーナに落ち度はない」

 ネリーナは項垂れたままだ。

 「………私はあなたの忠告を聞き入れず、あなたに助けられた。その上、庇ってもらったのでは情けなさすぎます」

 ネリーナは堪え切れずに、嗚咽を漏らし始めた。

 「私はまた、…また悪魔に取り憑かれた。エクソシストになっても、悪魔に抗うことができなかった」

 流した涙が落ちて、ネリーナの膝を濡らしていく。

 平二は無言のまま、ネリーナが落ち着くのを待った。先程から横で聞いていたグレゴリは、あらぬ方を向いたままコーヒーを飲んでいる。見て見ぬふりをしているらしい。

 すすり泣く声が落ち着くと、平二が口を開いた。

 「以前にも、同じようなことが?」

 「……」

 ネリーナはそれ以上話したくないのか、口をつぐんだ。

 「今回のは滅多に出会わないレベルのやつだ。正直、二人とも無事で幸運だった」

 「……神のご加護です」

 ネリーナが、ぼそりとつぶやくように言った。

 「ああ、そうだな。幸運でなくて、ご加護だ。―ところで、取り憑かれていた時のことは覚えていないのか?」

 「いえ、全く。あの悪魔の目を見たところからは、何も覚えていないのです。―ヘイジさん、一体何があったのですか? 教えてください」

 「なあネリーナ、俺は、外で待っていようか?」

 グレゴリが言った。今朝、話したことを気にしているだろう。

 「……いえ、グレゴリも一緒にいてください。お願いします」

 ネリーナの声は頼りない。つい先ほど死に掛けたばかりだ。心細いのも致し方ない。

 「分かった、じゃあ、俺もちゃんと聞くことにしよう」

 手に持っていたカップをテーブルに置いたグレゴリは、椅子の上で姿勢を正した。警備員のカルロは、英語で会話している三人が何を話しているのかわからないのだろう。いつの間にか事務机に向かって、コンピュータでトランプゲームに勤しんでいる。

 平二は美術館で起こったことを二人に説明した。黒くて長い影のこと、それがネリーナに取り憑いたこと、どうやら自分に関係がありそうだということ。

 「それで平二は、ここで一体何をしているんだ?」

 グレゴリが興味深そうに身を乗り出して尋ねた。

 「強い魔物なら、映像とはいえ何かしら痕跡は残っているはずだ。奴がいつ、どうやってウツッフィに来たのか、何か手がかりがないか探している」

 防犯カメラのビデオ録画はDVDディスクに取り貯めてあった。件の掛け軸のことで美術館が閉館になる以前からの、ここ三週間分のビデオ録画が残っている。しかも館内全ての防犯カメラの分なので、全部を合わせると、膨大な時間になる。とりあえずバドロルシススが現れた、あの廊下のカメラ映像を早送りで見たが、気になるようなことは何も見つかっていない。ネリーナたちがこの警備員室に着いた時には、掛け軸のあった地下保管庫前にある防犯カメラの映像を見ていたのだった。

 「それでだ、地下保管庫のカメラの録画で、例の事件が起きる前後二日分が見当たらないんだ。カルロに訪ねてもらえないか?」

 グレゴリが、インターネットでハーツをしているカルロを大声で呼び寄せる。ネリーナが話しかけると、カルロはオーバーな身振り手振りで何かを訴え始めた。

  不穏な様子に平二は訝しい表情を浮かべる。すると、何かを訴えているカルロを制して、ネリーナが振り向いた。

 「ヘイジさん、その、録画された映像が入ったDVDなんですが……ここにはないんです。今はバチカンにあります」

 「なんだって?」

 「検証用に、そのDVDのコピーを渡してくれるようお願いしたのです。ですが、私が受け取ったものがオリジナルだったようで…」

 カルロが肩をすくめるジャスチャーをしてみせる。彼にもお手上げということだろうか。コピーの手間を惜しんで、オリジナルを渡してしまったのか、あるいは件のDVDを、自分たちの傍に置いておくのが嫌だったのかもしれない。

 「それをバチカンに送ったのはいつだ?」

 「ウフィッツィが閉鎖された日に郵便局から発送しています。六日前です」

 イタリアの郵便が遅れがちなのは有名だが、さすがにもう着いているはずだ。ネリーナが持ってきたIEAからの手紙や資料には、映像のことは一切触れられていなかった。

 「で、サンジェルマン司教は何か言ってきたか?」

 「いえ、何も…」

 「ネリーナもそれを見てないのか?」

 ネリーナは横に首を振った。

 掛け軸のことで、事件前後の録画映像があるのなら、平二に見せないはずがない。この仕事は、事前に情報が多ければ多いほど、安全度は飛躍的に上がる。だからIEAは、いつも必要以上の資料を提供してくる。

 提供されるべきものがされていない。それには、見られて困るものでも映っているからか。

 「ところでヘイジさん、掛け軸の方は?」

 「あれの処理はもう済んだ。それより、これからバチカンへ向かう」

 「はぁ?」

 ネリーナが驚いた声を上げると、グレゴリが平二に詰め寄った。

 「待ってくれ、ネリーナはまだ自分で歩くこともできないんだ。いくらなんでも、これからバチカンまで行くなんて。大体、これからローマに行く方法なんて寝台車ぐらいしか…」

 「もちろん行くのは俺一人でいい。確かにその様子ではネリーナは無理だ」

 パイプ椅子に座っているのも辛いのか、ネリーナは両肘を自分の膝につけて、荒い息を繰り返している。

 「…待ってください、あなた一人で行かせるわけにはいきません」

 「ネリーナ、無理しなきゃ二、三日で回復する。調子が戻ってから来ればいい」

 「私にも責任があるのです。サンジェルマン司教にも、あなたから目を離さぬよう言われているのですから」

 ネリーナは信仰に従順で真面目だ。休めといわれても、簡単には引き下がりそうにもない。

 平二が、「しかし」と言いかけたところでグレゴリが立ち上がった。

 「なあ、俺が付き添うのはどうだ? バチカンまで俺がネリーナを抱えて行ってやるよ」

 「グレゴリ、それではあなたが…」

 「俺も覚悟を決めたさ。俺もお前が助けたいんだ、ネリーナ。俺がここにいるのも、きっと神様の計らいだ。なあ?」

 ネリーナはしばらく沈黙していた。必要以上にグレゴリ巻き込むわけには行かないだろうが、彼の助けがなければ、自分の使命を果たすことはできそうにない。

 「……なら、バチカンまで。でもIEAの中までは入れません。お願いできますか?」

 ネリーナはうな垂れながら、グレゴリに懇願する。

 「俺がいて良かっただろ?」

  グレゴリが満面お笑みを浮かべながら、ネリーナに手を差し出した。

 「さあ、ローマ行きの夜行列車まで時間がない。すぐにホテルに帰って身支度しないと」

 壁の時計は、既に夜の十時を回っている。結局、今日は朝食から何も食べていない 当分まともな食事にはありつけそうにないことを思って、平二は深いため息をついた。

 

                ※

 ローマ行きの夜行列車が出たのは、深夜零時を過ぎてからだった。二十三時発の列車に乗るために慌てて身支度を済ませたものの、結局列車は一時間遅れで出発した。この国の鉄道が遅れるのは、さして珍しいことではない。先の大戦時に首相を務めたベリート・ムッソリーニが掲げた公約にも、列車遅延の解消があったほどだ。当時からこの国の人々の気質は、ほとんど変わってはいない。

 電車は遅れた挙句、寝台車のチケットが取れなかった。この時期は、クリスマス休暇中の大学生バックパッカーが、ヨーロッパ中を移動する。そんな彼らに安くて快適な寝台車のベッドは占領されてしまい、割高な上にベッドがない個室を三人で貸し切ることにした。

 個室には、ゆったりとした座席が向かい合わせで備え付けられている。片側一人ずつなら寝られないこともない。とりあえず、体調の悪いネリーナを横にして、平二とグレゴリは座って寝ることになった。

 グレゴリは、電車に乗って早々に寝入ってしまった。前日は眠れなかったと言っていたし、疲れたのであろう。平二は、アメリカ系チェーン店のカフェで購入したサンドイッチにかぶりついている。ネリーナは半身を起こして、なにやらノートに書き込んでいる。報告内容をまとめているのだろう。

 一通り食べ終えた平二は、紙袋からコーヒーの入ったカップを取り出すと口をつけた。すでに冷えてしまってうまくはない。取敢えず口の中に残ったものと一緒に、冷めたコーヒーを胃に流し込む。

 「まだ寝ないのか?」

 平二がネリーナに声を掛けた。

 「ええ、興奮しているのか、体は辛いのですが眠くはないのです」

 ネリーナが顎の辺りを掻きながら言った。火傷のようにただれていた箇所が、もう瘡蓋になっている。回復が早い。

 「ヘイジさん…あの、あなたの片方の目が赤く光っていたのを見ました。あれは…?」

 「ネリーナは、IEAのエクソシストになってどのくらいになる?」

 質問に質問で返す平二にムッとしたのか、言葉を詰まらせたネリーナは、しばらく黙ってから答えた。

 「―一年、いや一年と三ヶ月ほどです。六年ほど前からフィレンツェ郊外の教会で、その司教区のエクソシストであった方に師事していました。IEAに入ってからは、アメリカから来た方の下で学んでいます」

 現在、世界中でカソリック教会に報告される悪魔憑きは、年間五十万件以上とも言われている。近年の人口増加と共にその数も年々増えており、状況に対応するために、バチカンはエクソシストの養成に励んでいる。カソリック教会の司祭がエクソシストの資格を得る場合が多く、そういった専門職が存在するわけではない。エクソシズム=悪魔祓いは、聖職者にとって、数ある儀式の一つでしかないのだ。

 しかし稀に、一般のエクソシストが行う儀式としての悪魔祓いでは対抗し得ない、強い悪魔や魔物が出現することがある。そうした稀な事象に対応するために、より才能のある者を選抜し、専任のエクソシストを養成している。それがIEAという組織なのだ。

 IEAには多くの経験と修行を積んだ、強いエクソシストが多くいる。ネリーナも才能はあるのだろうが、まだ経験は浅い。具現化した悪魔に遭遇したのも今日が初めてだ。

 「それならまだ、聞いたことはないだろうな。これはさ、」

 平二は自分の右眼を指差した。

 「天狗の眼だ。天狗は日本にいる魔物だ。いろいろあって、この右の眼玉をもらった」

 「はぁ…、邪眼のようなものですか? もらったって、まさか魔物が人に…?」

 「こいつはそんな大層なものじゃない。悪魔や魔物がよく見えたり、目が合った相手を萎縮させる程度のことしかできない」

 ヨーロッパを中心とした一帯の地域には〝邪眼〟と呼ばれる、見ただけで相手を呪う、青い目の伝承が根強く信じられている。キリスト教における聖典、エノク書に書かれている大天使サリエルも、この邪眼を持つと言われる。トルコのアクセサリーで有名なナザールは、この邪眼除けのお守りだ。

 平二は視線を窓の外に向けた。すでに列車は郊外を走っているのか、窓の外は真っ暗で、窓ガラスが鏡のように平二たちを映している。ネリーナは、窓ガラス越しに平二の右眼を見た。ウフィッツィ美術館で見たような赤く光る眼ではなく、アジア人特有の黒い瞳の目だ。

 「サンジェルマン司教はこれのことも良く知っている。もっと詳しいことが知りたければ、彼に聞いてくれ」

 「あのバドロルシススという悪魔、あなたにははっきりと見えていたのでしょう?―私には、一瞬しかその姿が見えなかった。西欧の悪魔なはずなのに何故…?」

 経験が浅いとはいえ、ネリーナも厳しい修行を積んだエクソシストだ。自分には見えなかったものが、極東から来た異教徒には見えたのが気にかかるのだろう。

 「単純に力の強い悪魔だからだと思う。霊力で劣る相手なら、自分の姿を見せないことも可能だろう。―俺は、そういうのに関係なく見えてしまうから」

 平二は相変わらず、真っ暗な窓の外に目を向けている。

 「それほど強い悪魔なのに、まるで聞いたことのない名前です。IEAが把握している悪魔の名前にはないと思います。ほとんどの文献には目を通しましたから…」

 「それに関しては詳しいのがいるから、そいつに聞いてみるさ。」

 「―あの、ヘイジさん」

 「なんだ?」

 「あの…、私に取り憑いた悪魔は、もう完全に祓われたのでしょうか?」

 ネリーナは不安そうな表情で平二に訊いた。本来、悪魔の類は聖職者との接触を嫌う。臭いや感触など、聖職者のあらゆることが彼らにとっては不快に感じるらしい。現にネリーナに入りこんだバドロルシススは、香の匂いを嫌っていた。

 「あれが西欧圏の悪魔なら、エクソシストであるお前の中に長くはいられないはずだ。―それとも、何か気になることでも……」

 「い、いえ、いいんです。聞いたみただけですから」

 ネリーナは平二の言葉を遮ると、視線を逸らして俯いた。

 「もう寝たほうがいい。怪我を治すには、眠るのが一番だ」

 そう言うと平二は立ち上がって、灯りのスイッチに触れた。目でネリーナに合図すると、照明を消す。

  ネリーナは、平二の右眼が魔物の眼だという話を聞いても、大して驚いていない自分が不思議だと思った。彼の目付け役を任された時、正直なところ気が進まなかった。平二がストランデットだからということだけではない。土地勘があることを差し引いても、自分より経験のある適任者は大勢いるはずだ。

 サンジェルマン司教は、いい経験になるからと言っていた。だから、この役に選ばれたことに疑問を感じながらも、それならと思って引き受けた。

 確かに、まったくすごい経験だ。悪魔の姿を初めて見た上に、魔物の目を持つ男に助けられた。そして今、その男と向かい合わせで寝ているなんて。

 目を閉じると眠気が増してくる。平二の言う通り、体は眠りを欲しているのだ。うつろな目でネリーナは平二を見る。まだ窓の外に顔を向けていた。真っ暗な窓の外に、呪われた目を持つ日本人は、何を見ているのだろうか。

 列車が鳴らすリズミカルな音を聞きながら、ネリーナは深い眠りに着いた。

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