朝食を食べるために降りた食堂には、キッチンに一番近いテーブルの上にパンやハム、チーズが並べられている。とりあえず空いているテーブルの席に着くと、キッチンの中にいた髭面が、オレンジジュースの入った容器を持って近づいてきた。

 

 「コーヒーの方がいいかな。あと食事は好きなものを適当に取ってくれ」

 

 昨晩同様に、グレゴリは満面の笑みを湛えて話しかけてきた。言われた通り、八時に食堂に降りて来たのだが、やはりネリーナの姿はない。

 

 適当に、ハムやチーズを皿に載せていく。チーズは日本で食べるものより、ずっと香りが強い。酸味の強い香りが食欲をそそる。パンは、日本で言う菓子パンのようなものが数種類と、大きな丸パンをスライスしたものがあった。

 

 適当に自分の朝食を揃えて席に着くと、右手によくあるコーヒーカップ、左手には大きいスープ皿のようなカップを持ったグレゴリがやって来た。コーヒーの香ばしさとミルクの甘ったるさが混ざった香りがする。グレゴリは普通のカップを平二のほうに置くと、テーブルの向こう側の席に座った。

 

 「でかいカップだな。フランスで見たことがある」

 

 「俺のママンはフレンチだろ、朝食はこのフランス式のカフェオレとシナモンたっぷりのブレッドが最高さ。あんたもこの方が良かったかい?」

 

 「そうだな。今度来たときには、俺もそれにしてもらおうか」

 

 グレゴリはオーケーだ、と親指を立てて平二に答えると、席を立って、菓子パンを皿に山積みにして戻ってきた。

 

 「あんたは、日本のエクソシストなんだろ? うちには沢山の坊さんが泊まるけど、東洋人のエクソシストは初めてだ」

 

 「バチカンでは、俺みたいなのをストランデットと呼んでいるんだ。信仰心がないからエクソシストとは呼んでもらえないらしい」

 

 「ふーん、でも悪魔や魔物をやっつけるんだろう? それなら尊い仕事さ。ネリーナもあんたも、俺にとっちゃ違いはわからないよ」

 

 「まあ、それほどポピュラーな職業じゃないからな」

 

 「俺は元々、ロレートっていう街の修道院にいたんだ、ネリーナと一緒にね。俺は結局ダメで、ドロップアウトしちまった。けどネリーナは試験に受かって、バチカンでエクソシストになった。大出世だろ? 若くって、しかも女なのにさ。今でもあいつとは友達で、こうして俺もIEAのことで協力しているんだ。まあ協力って言っても、フィレンツェに来る坊さんを泊めてやるぐらいしか出来ないけどさ」

 

 グレゴリは、身を乗り出して話しかけてくる。ネリーナがいないせいか、昨晩に比べると饒舌だ。

 

 「ここに来る坊さんたちはさ、特にネリーナは、悪魔のこととか尋ねると怒るんだよ。興味本位で聞くなって説教される。確かにネリーナは偉いさ、エクソシストでいるために、毎日厳しい修行もしているし、俺みたいに夜中までテレビも見ない。修道女だった時から、一口も酒を飲んだことがないんだ。でもさ、霊が見えるんなら、見えないやつにちょこっと様子を教えてくれてもいいと思うんだ。―それでさ、昨日初めて教えてもらったわけさ」

 

 小ぶりな菓子パンを一口で頬張ると、グレゴリはニンマリと笑った

 

 平二は昨晩のことを思い返した。確かネリーナのクレームを聞いて、パスタを食べて、グレゴリに見えない紙の写真を見せただけだ。

 

 「あの写真のことか?」

 

 「ああ、あれさ。なんか写ってるんだけど、よくわからない。あんな不思議なことは初めてだった。お陰で昨日の夜は、興奮して眠れなかったんだ」

 

 「碌に説明もできなかったな。俺も怒られたし」

 

 ガハハと声を出して笑うと、グレゴリは昨日の体験が如何に自分にとってエキサイティングであったかを語った。あの写真を見て何かあるとわかるのであれば、グレゴリにも多少なり霊感があるのだろう。

 

 「で、今日はあの絵の悪魔を、どうするんだ?」

 

 「また封印するんだ。前回と同じ方法で。それ自体は大して難しくない。むしろ今日するべきは、封印が解かれた原因を見つけることだろうな」

 

 「封印って、あのメモ紙みたいなのを貼り付けるのか?」

 

 「呪符のことか。まあ確かにあれは、仏様のメモ紙みたいなもんだ」

 

 「なんだ、そうなのか?」

 

 冗談のつもりで言ったにもかかわらず肯定する答えが返ってきたので、グレゴリは驚いた顔を見せた。

 

 この調子で、ネリーナのような謹厳な聖職者たちに冗談を言っていたら、説教されて当たり前だ。

 

 「そう、仏様の言葉やそれ自身を文字にして紙に記す。するとその紙は、例えテッシュペーパーだろうと力を持った呪符になる。一応は尊いものだから、あまり汚い紙に書いたらいけないんだけどな」

 

 平二は、予備知識のないグレゴリにもわかりやすいよう、言葉を選んで説明する。

 

 「あれはサンスクリット語と言う、古代インドで使われていた文字を使った呪符だ」

 

 サンスクリット語自体、使われていたのが紀元前千五百年から中世までの長期間に渡るので、時期によって文字や使い方も大きく変わる。平二が用意したものは、北インドの、仏教系密教の風習が残っている地域に住む聖人に頼んで書いてもらったものだ。この聖人は、十歳の頃から百年近くも眠らない修行を続けている。無駄にある時間を持て余して、色々な仏典を読んでいるうちに、古代インドで使われた極初期のサンスクリット語までも習得したらしい。

 

 仏教発祥の基礎となった文明の源流である、古代インドの言葉で書かれた呪符は、アジアの広い地域で最高位の徳を示す。仏教圏の悪魔や魔物に対して、比類ない強い効果を発揮する。しかもそれが強い霊力を持つ聖人の手によって書かれたものならば、その威力は絶大だ。無論、効果が認められるのは、それが尊いとされる文化圏のものに限るのだが。

 

 今回のような、日本からきた霊を抑えるだけであれば、十分すぎるほどの品だったはずである。平二自身、当時は勿体無いので使うのをためらったほどなのだ。たまたま持ち合わせたのが、それしかなかったから仕方がない。

 

 興味津々に話を聞いていたグレゴリは、既に皿の菓子パンを平らげていた。話をしていた平二の皿の上は一向に減っていない。

 

 「フーン、すごいな。それで、なんでわざわざ日本人のあんたが、フィレンツェまで来なければならないんだ?」

 

 「俺が来たのは、今回のが日本の美術品がらみだからだ。幽霊も元は日本人だろうから、イタリア語は通じないだろうし」

 

 「なんでさ、カソリックは日本にだっているだろう。ーネリーナみたいなエクソシストが、日本から来た悪霊に敵わないってことなのか?」

 

 グレゴリは、大きなカップに入ったカフェオレを、両手で持ち上げて啜る。

 

 「まあ簡単に言えば、そういう事になるな。―要は、何を信じるかってことだ。例えば、日本の悪魔や魔物―日本では妖怪とか物怪って言うんだが、こいつらは日本語しかわからない。それに仏教や神道の神仏にしか、畏れを感じないんだ」

 

 「……それはおかしい。俺がいた修道院の先生は、神様の力が及ぶ範囲は、世界中どこでも等しく同じだって言っていた。俺だってそう思うぜ」

 

 「じゃあグレゴリは、日本の坊さんに日本語で説教されて理解できるか?」

 

 「いや、それは無理だ。しかしだな…」

 

 なおも食い下がろうとするグレゴリを遮るように、平二は言葉を続けた。

 

 「グレゴリが聞いたことはある意味で真実だ。神聖、尊いものは万国共通で、どこへ行ってもその価値は変わらない。ただ、それを相手に理解させられるかどうかは別だ」

 

 「よくわからん、つまり日本の悪魔でも、イタリア語がわかれば、ネリーナでもやっつけられるってことか?」

 

 「言葉は一つの例にすぎない。それだけの問題じゃない」

 

 「それならヘイジは、イタリアにいる悪魔には敵わないわけだ」

 

 「いや、混乱させるようで悪いが、そうでもない。俺の場合、その、ストランデットと呼ばれる奴らは物理的に悪魔を攻撃する。もちろん得手不得手はあるけど。ちなみに俺は日本の魔物…物怪が得意分野だが、西欧圏の悪魔も相手にする」

 

 「なら、ネリーナと同じエクソシストではないということか」

 

 「そうだ。カソリックのエクソシストは祈ることで神様の力を借りるだろ。あれとは根本的にやっていることが違う。俺は自分の中にある力…霊力を使うんだ」

 

 「なんだか、よくわからん。というか日本の物怪ってなんだ? 悪魔や魔物と違うのか?」

 

 「もう、きりがないな。―俺たちが話しているのは、IEAでネリーナたちが何十時間もかけて勉強することだ。それをこの朝食の間で理解するのは無理だ」

 

 平二は、目の前の皿に乗ったパンを手にとって口に入れた。このままだと、食事が終わったグレゴリの質問が収まりそうもない。

 

 グレゴリは、ネリーナから詳しいことは聞かされていない。IEAは世界中の宗教機関と関係を持っている。とはいえ、カソリックの本拠地としての体面を重んじるが故に、霊障の解決や悪魔祓いを異教徒に頼らざるえないケースがあることを、世間一般には口外しない。グレゴリも協力者ではあるのだろうが、IEAが本来どういう機関なのかを知らされないし、理解することはない。IEAが協力する信徒に求めるのは、盲目的な服従だ。

 

 「なあ、俺も連れていってくれないか? あんたが幽霊をだ、封印だっけ、それをするのを見てみたいんだ。頼むよ」

 

 当然の興味だがそれは無理だろう。あのネリーナが許すはずがない。

 

 「やめたほうがいい。君子危うきに近よらずって中国の偉い人も言っているだろう」

 

 「でも幽霊が見られるチャンスなんて、俺みたいな凡人にはそうそう無いだろう? それにあんたやネリーナまでいるんだから、きっと大丈夫だ」

 

 そこへ靴音が近づいてきた。ネリーナが平二を迎えに来たのだ。

 

 「だめです、グレゴリには関係のないことだと言ったでしょう!」

 

 テーブルの前まで来たネリーナは、強い口調で言い放った。

 

 グレゴリは一寸口を閉じたが、意を決したようにネリーナの方を向いた。

 

 「でも俺だって関係者だろう? うちは坊さん達の定宿だし、俺だってカソリックだ。ネリーナ、お前は偉いよ。がんばってエクソシストになったんだからさ。俺だってお前に協力しようと、頼まれればなんでもしてきただろう? 今回だって、ヘイジが来るんで他の客を泊めるなって言うから、わざわざ入っていた予約まで取り消したんだ」

 

 どうせ後で説教されるのだ、この機会に言いたいことを吐き出してしまえばいい。オーバーなアクションを加えながらグレゴリは訴える。

 

 ネリーナは少々困ったふうな顔をしながら黙ったままだ。

 

 「そもそもこのホテルに泊まる外国人は、みんなパスポートを預かるんだ。イタリア人でも身分証ぐらいは確認するよ。素性が知れない奴は泊めない主義だ。だけどネリーナが連れてきた奴はさ、みなフリーパスだぜ。ヘイジなんて、夜中に俺の特製レシピのパスタまで振舞ってやった。それなのにお前は礼も言わず、挙句に俺を部外者扱いだ」

 

 フンッと鼻を鳴らして口を尖らすと、グレゴリは椅子に深く座りなおして腕を組んだ。

 

 ネリーナは黙ったままテーブルを見下ろしている。何を言うべきか、思案しているのであろう。

 

 しばらく沈黙が続いた後で、平二が口を開いた。

 

 「分かった、連れていってやってもいい」

 

 ネリーナが抗議の声を上げるが、平二は無視して言葉を続ける。

 

 「悪魔や魔物、さっきの物怪の事も詳しく教えてやる。昨日のパスタのお礼だ」

 

 詰め寄ろうとするネリーナに手を上げて制すると、グレゴリは神妙な顔で平二に向き直った

 

 「おお、やっぱりあんたは話がわかる。昨日も写真を見せてくれたしさ。他の坊さんたちとは違うと思ったんだ」

 

 満面の笑顔で話すグレゴリに対して、平二は伏し目がちに視線を向けた。

 

 「ただ分かって欲しい。ネリーナが来るな、というのは、それだけ危険だということだ。」

 

 グレゴリは、瞳の奥深くまで刺さるような、平二の鋭い視線を感じた。自分を見つめる平二の眼から、視線を外せない。背筋が冷たい鉄の壁に押し付けられているような、寒気と圧迫感に襲われる。

 

 口内に生唾が溜まっていくのがわかる。しかしそれを飲み込むことさえできない。

 

 「危険を承知でリスクを負うのが俺達の仕事だ。一緒にリスクを負う覚悟があるなら連れて行ってやる」

 

 平二は視線を自分の手元に落とした。その途端、軽く痙攣したグレゴリは、大きく息を吸い込んだ。見つめられている間、呼吸が止まっていたのだ。

 

 「な、なんだ…か…」

 

 やっとのことで声を発したグレゴリは、ネリーナを振り返った。ネリーナは厳しい形相で平二を睨み付けている。

 

 「俺達が相手にしている奴らは、今みたいに視線を合わせるだけで人を殺せるような奴もいる。こういうのに対処できる(すべ)を持たないうちは、安易に一緒に行きたいなんて言わないことだ。―俺も、あんたの興味を引くようなことを喋りすぎた。すまん」

 

 「なんだ…今のは、ヘイジがなんかしたのかよ?」

 

 「ほんちょっとな。何をしたかは秘密だが、滅多に体験できることじゃない。パスタのお礼だ」

 

 「お礼で呪い殺されたんじゃ、堪らんな」

 

 うろんな様子のグレゴリに、ネリーナが声をかけた。

 

 「あなたが興味を持つことはわかります。でも、そこで踏みとどまって欲しい。悪魔や魔物のことなど不可思議なまま、あなたは現実の世界で生きるのです」

 

 振り返ったグレゴリに、ネリーナは吐き出すように言った。

 

 「……あなたまで、私みたいになって欲しくない」

 

 「わかったよ、俺は関わっちゃいけないんだ。そういうことだろ」

 

 自分の理解できない存在を知り、それに対処する方法を持たないものは、不安に駆られるだけだ。昨晩の話を聞いたグレゴリも、興味を駆り立てられたのと同時に、未知なるものに対する不安を感じたのだろう。そうした不安を人知れず解消するために、平二のような存在がある。

 

 幾分拗ねた様子のグレゴリを前に、ネリーナは仏頂面でため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 結局、平二とネリーナがホテルを出たのは、約束の九時を過ぎてからだった。不貞腐れたグレゴリをなだめているうちに、あっという間に時間が経ってしまった。

 

 ホテルからウフィッツィ美術館までは歩いて十五分程度だ。遅れることを心配した平二は、タクシーで行くことを提案した。だがネリーナは必要ないと言う。常勤で務めている警備員が閉鎖された美術館で待っているはずだが、ネリーナ曰く、どうせ彼らも遅れてくるから、ということなのだ。

 

 車一台通れるほどの狭い道を抜けると、二人は大きな広場へ出た。フィレンツェは大聖堂を中心に、町が放射状に広がっている。大聖堂前の広場には、観光客目当ての露店や、土産物屋が立ち並んでいる。親しみを込めてドゥオモと呼ばれる大聖堂は〝花の大聖堂〟とも呼ばれ、ウフィッツィ美術館と並ぶフィレンツェ観光の目玉の一つだ。

 

 広場の向こうに、朱と緑の入り混じった外壁を纏ってそびえ立っている大聖堂は、〝花〟の名前どおり、優美な建築物だ。

 

 「さっきのアレ、二度としないでください」

 

 ホテルを出てから、ずっと不機嫌そうに黙っていたネリーナが口を開いた。静かながら力のこもった口調だ。相当に怒っている。

 

 「これのことか?」

 

 平二は、自分の右眼に軽く指をやりながら答えた。

 

 「もう、絶対にしないでください。我々の信徒を、異教徒の術で脅すような真似など、けっして看過できないことです。あなたは、IEAのルールをわかっているでしょうに」

 

 「誰も脅したりしていないだろう。説き伏せるには必要なことだったろうに。」

 

 自身の怒りとは裏腹に、平静に返す平二に苛立ちを覚えながら、ネリーナは言葉を続けた。

 

 「とにかくこの件は、本部に報告します。あなたが自分で招いてしまったことです。あなたは自分がすべきことと、すべきでないことを理解するべきです」

 

 うんざりした表情を見せながらも、平二は頷いた。

 

 「まあ報告はいいが、ところでさ」

 

 平二は隣を歩くネリーナの顔を覗き込むようにして言う。

 

 「さっき言っていた、私みたいになるなって、どういうことさ?」

 

 女性の身でエクソシストになるには、相当な苦労があったはずだ。エクソシストは、聖職者であれば誰でもなれるものではない。カソリック教会でエクソシストの任命を受けるのは、司祭の資格を持った者に限られる。更にその人物の素養と、人格を含む様々な点において評価が下されるのだ。それ相応の精神修養が必要であるため、経験のある高齢者が選ばれることが多い

 

 カソリック教会は女性司祭の資格を教義上許していない。すなわち女性は、正規の方法ではエクソシストにはなれないことになる。なのでネリーナのように素質を認められて、IEAのエクソシストになるしかない。平二のような異教徒でさえ受け入れる組織であるから、女性のエクソシストなど問題にならないだろう。しかし、性別のハンディキャップを克復した上、この若さでIEAにいることは相当な努力をした結果だ。信徒の模範たる存在として、自分を見習うように言っても大仰ではない。それだけに、「私みたいに」と自分を卑下するのが気になったのだ。

 

 「あなたには関係無いでしょう」

 

 「…話題を変えないと、ずっと叱られそうだからな」

 

 はぁーっと大きく息を吐いて、ネリーナは平二を睨みつけた、怒っている様子を隠そうともしない。

 

 「あなたのそういう軽薄な態度は、IEAで聞き知ったとおりです。あなたを悪く言う人が多いのは、術が奇怪であるだけでない、その人格のせいではないのですか?」

 

 ネリーナは、淡々と辛辣な言葉を並べていく。

 

 「バチカンには、俺の悪口を言う奴がそんなにいるのか?」

 

 「私だけではないことは確かです」

 

 「……」

 

 怒りが収まらない様子のネリーナを煽らないよう、平二は口をつぐんだ。

 

 「…でも、サンジェルマン司教だけは、あなたを良く思っているようです。ここに来る前に、あなたから学ぶよう言われました。―正直、なぜあなたを慕ってらっしゃるのか、まったくわからない。IEAであなたを評価しているのはあの方だけです」

 

 バチカンの内部機関IEAは、現在ミシェル・サンジェルマン司教によって統括されている。ミッシェル・サンジェルマンは、十九世紀末にIEAが設立されてから三代目の協会長だ。

 

 「もう着きますから。目の前に見える建物がウフィッツィです」

 

 ネリーナが指差した先に、新しめの外観をした三階建の建築物が見える。

 

 先を急ごうと早足で歩くネリーナに、平二が声をかけた。

 

 「なあ、ちょっと待ってくれ」

 

 平二は立ち止まって、ネリーナの姿をまじまじと見る。

 

 「そういえば、ネリーナは荷物を持ってないな」

 

 「ええ、今日は、あなたの案内と通訳が役目ですから」

 

 「そうか―ちょっといいか?」

 

 そう言うと平二は、すぐ脇の建物の扉を押した。そこは教会だ。小さいながらも、入り口の扉には、優美な装飾がなされている。

 

 平二は中に入ると、奥の祭壇に向かって歩いて行く。こじんまりした祭壇の前に立つと、そこにいた初老の神父に英語で声をかけた。しかし、どうやら初老の神父は英語がわからないらしい。

 

 「ネリーナ、通訳してくれ。あそこにある聖水が欲しいので、このペットボトルに入れさせてくれって」

 

 平二は、入口近くにある、水が張った聖水盤を指差した。

 

 それを聞いたネリーナは、驚きと怒りが綯交(ないま)ぜになった、苦々しい表情を見せた。

 

 「待ってください、聖水をそのペットボトルに入れるなんて、あなたは一体何を考えているんです?」

 

 「万が一のためだ。おまえも持ってないんだろう?」

 

 カバンのないネリーナは、当然聖水を持ってはいない。平二の付き添いなので、悪魔祓いの道具は持って来ていないのだ。

 

 「それにしたって、それはないでしょうに」

 

 ネリーナは平二が持っているペットボトルに目をやった。小さめのそれには赤に白地の文字が入ったラベルがあり、よく見ると中には、まだ黒っぽい飲みかけも残っている。

 

 「もちろん、洗ってから入れる。ラベルも外すから」

 

 平二は赤いキャップを外すと、残っていた中身を飲み込んだ。

 

 ネリーナはその様子を一瞥すると、初老の神父に話し始めた。恐縮した様子で、うなだれた様に頭を下げて話している。

 

 話を終えたネリーナが、平二に向き直って言った。

 

 「とにかく、奥でそのボトルを綺麗にしてきて下さい。―それが終わったら、すぐウフィッツィに向かいますから」

 

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