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 ウフィッツィ美術館は、ルネッサンス様式で建てられた、巨大な建築物だ。十六世紀に庁舎として建てられた平屋の建物であったが、増改築の繰り返しでニ、三階部分が付け足された。

 十八世紀、フィレンツェの実質的支配者であったメディチ家が断絶した時に、相続人が一族のコレクションを寄贈したことで、このウフィツィ美術館が生まれた。イタリア・ルネッサンス絵画を中心に、二千五百点もの美術品を収蔵し、年間約一七五万人の観光客が訪れる。

 「ああ、あなた達でしょう、バチカンから来たのは?」

 腹が大きく前にせり出した、小柄な男が近づいてきた。警備員の制服をキツそうに着こなしている。首のあたりは襟の合わせが届かず、ボタンすら嵌まっていない。

 「バチカンから派遣されたネリーナ・モランディです。こちらは日本からきた美術鑑定士の方です」

 平二は無言で軽く会釈する。まともに紹介されないことはいつものことだ。

 「早速、中に入れて頂けますか?」

 警備員と握手を交わしたネリーナは入り口の方へと進む。ところが警備員は、そこから動こうとしない。

 「あの…」

 「なにか?」

 「あの、わたし聞いたんですよ。今日ここに来るのも、警備員達がみんな嫌がって…。ハーツ(トランプのゲームの一種)で決まったんです、私が」

 怪訝そうな顔をしているネリーナに、警備員が話を続けた。

 「シスター、その…悪魔がいるのでしょう? 監視カメラに写っていたって、仲間の間で噂になってるんです。お願いです…、後生ですから、私を一緒に連れて行かないでください。これが私の仕事なのはわかっています。特別ボーナスだって出るんです。でも……」

 「あなたの名前は?」

 「カ、カルロ・ビリオッティといいます」

 制帽を両手で胸前に持ち、もじもじといじくり回すカルロに、ネリーナが答える。

 「分かりました、カルロさん。あなたの持っている鍵を私にください。私と…そこにいるヘイジさんの二人で行ってきますから」

 カルロの表情がぱっと明るくなり、安堵のため息を、わざとらしく吐いてみせる。

 「有難うございます、シスター。本当に良かった。まさか三十人もいる警備員で、私が一番負けるなんて思ってなかったんですから。これもきっと、神の定めた私の運命だと覚悟はしていたんですが。……やっぱりいざとなると、怖くて仕方がなかったんです」

 カルロは、ポケットから鍵の束を取り出した。その内のいくつかを選ぶと、ネリーナにそれぞれの鍵の説明を始める。

 二人の会話が終わった頃合いを見計らって、平二がネリーナの背中に声をかけた。

 「やけに静かだな。建物には誰もいないのか?」

 カルロとの話を終えたネリーナは、振り向きながら答える。

 「ええ、どうやら警備員まで怖がっていて、誰も近づかないみたいです。昨日の写真だって、防犯カメラの映像からスキャンしなければならなかったのですから」

 平二は、昨晩見た像の荒い写真を思い出した。確かにこの警備員の様子では、現場で写真を取るなどできるはずない。

 「イタリア人は信心深い人が多い。それだけに悪魔や悪霊の存在を信じています。彼らに仕事だからと怖い思いをさせるのは酷というものです。そのために、私たちエクソシストがいるのですから」

 ネリーナは、カルロから渡された館内案内図を拡げた。U字型の建物を、上から見た図が描かれている。それは観光客用のもので、目的地である保管庫のある棟は載っていない。その部分は殴り書きのように、ボールペンで書き足されている。何度か案内図を上下に回しながら、保管庫のある職員の事務所棟の通用口を探す。

 「ああ…、こっちですね」

 ネリーナは観光客が入る正面口とは別の、職員通用口を目指した。それは観光客用の入り口から見えない裏手にあるらしい。

 石畳に二人の靴音が響く。普段は多くの観光客で賑わう場所なのだが、人気のないせいか、陰鬱な雰囲気が漂っている。

 排気ガスの煤の下には、長い歴史の間に積み重なったものが、べったりとこびり付いている。ヨーロッパの古い建物であれば大抵はそうだ。人の執着心のようなものは、物に憑いて、癒えるまでそこに残る。恨み、つらみ、嫉み、妬み…、人の持つ負の感情からにじみ出るものがこびりついて残る。それが癒える前に重なって、層を作る頃に霊障が起きる。

 フィレンツェが都市として形成され始めたのは紀元前からだ。中世には商業を中心に栄華を極めたが、それだけに富裕層の権力争い激しかった。そうした背景で書かれたのがダンテの「神曲」だ。地獄篇に登場する亡者は、ダンテが属した派閥に対立していた者達ばかりだ。この街は、どれほど長年に渡って人々の負の感情に晒されてきたのだろう。

 平二は美術館の建物から感じられる重厚な陰気とは別に、明らかに異質なものを感じ取っていた。それは長い年月が積み重ねたものとは違う。職員通用口に近づくにつれて量が増していき、押し寄せるように足元にまとわりつく。まるで泥の流れの中でも立っているようだ。

 「あそこです」

 ネリーナが指差した先には、飾り気のないペンキ塗りの鉄扉があった。

 平二は、右眼に力を込めて視線を凝らす。ドアの四方の隙間から、漆黒の気配がゆるりと漂っているのが見える。まるで墨を水に流したようだ。

 陰気な様子を感じ取った平二は、慎重な面持ちで言う。

 「前に来た時とは随分と違うな」

 「え、何がでしょう?」

 職員通用口にドアに手をかけたネリーナは、平二に振り向いた。何か、自分にはわからない何かを、この東洋人は感じ取っている。

 手の中にあったドアノブが、いつの間にか氷のように冷たくなっている。驚いたネリーナは、思わず手を引っ込めた。

 「とり合えず、まずは外から様子を窺うか?」

 戸惑うネリーナに、平二が声をかけた。

 怯んだ様子を見透かされたことにムッとしながら、ネリーナは意を決して、鍵穴に鍵を差し込む。先ほど感じた冷たさはない。

 この東洋人がグレゴリにしたように、ふざけて自分に暗示でも掛けたのであろうか。そう考えると、平二の言っていることも、自分をからかっているように聞こえる。仮にも自分はバチカンの機関であるIEAの正式なエクソシストなのだ。長く厳しい修行を重ねてきたし、何度も悪魔祓いに成功している。その自分が何も感じないのに、一体何があるというのか。

 ネリーナがドアを開けると、そこは真っ暗だった。手さぐりで電灯のスイッチを押すと、長く伸びる殺風景な廊下に、蛍光灯が次々と点灯していく。

 ここは、数年前に改修された事務所棟だ。ルネッサンス調の装飾が施された展示棟とは違い、漆喰塗が剥き出しの壁に、合成樹脂の床タイルが敷き詰められている。廊下の左右には職員のいる事務所や、学芸員の修復作業場が並んでいるので窓はない。そして、問題の掛け軸あった保管庫は、この廊下の奥にある階段を下りた地下にある。

 階段がある方向に向かって、ネリーナが先導して歩いて行く。一歩ずつ階段に近づくにつれて、澱んだ重たい空気が濃くなってくる。

 平二の眼には、廊下の奥にある階段から、点描画のような黒い粒子が立ち上っているのが見えている。それは、徐々に空間を侵食するように数が増えていく。

 「どうにも尋常じゃない」

 平二は歩みを止めて、先を歩くネリーナの肩を掴んだ。

 「戻るぞ。これは俺の知っている類のものじゃない。西欧圏のやつだ。ネリーナが何も感じないのなら、出直したほうがいい」

 そう言われたネリーナは、立ち止まって意識を集中する。

 確かに、軽微ながらも異質な雰囲気は感じ取れる。感情的になっていて、正常な判断ができていないのだろうか。

 平二は評判の良くない人物だが、ストランデットと呼ばれる者の中では、最も力を持った人物の一人だとも言われている。その平二が戻ろうと言っている。

 平二はネリーナの答えを待たずに、出入り口のドアへと向かった。時折振り返りながらネリーナの肩越しに何かを見ている。

 「掛け軸に憑いているのは、古い時代に死んだ坊さんの霊だ。掛け軸に執着している理由――少々特殊な事情があるのと、憑いている年数が長いせいで、極端に霊障が酷くなった。だが、こんな状態になるはずがない」

 歩みを早めながら平二が言った。

 仕方なくネリーナも、平二の後に続いて廊下を戻る。

 「あなたの報告書を見ました。その事情とやらに関しては触れられていませんでしたが」

 「まあ、それは繊細なことだ――それより、何か感じないか?」

 ネリーナは、先程から平二が見ている方に目を向けた。長い廊下には、天井に並んだ蛍光灯が破線のように伸びており、奥の右手に階段が見える。

 言われてみれば、階段のあたりが、まるで砂糖を溶かした水を覗き込んだようだ。その空間だけが歪んだように揺れている。

 幻想的な光景に心を奪われたネリーナは、その一点を惚けた様に見つめた。

 歩きながら振り返ったはずなのに、足の動きは止まってしまっている。今まで体験したことのない、恐怖心と高揚感が一体となったような感覚が、悪寒のように体中を痺れさせている。何か大きな力に対する畏怖の念、これから訪れる災いへの不安、そして全てを諦め、それらを受け入れようとする自分への失望。何も見えないし感じない。しかし、エクソシストとして身につけた経験と霊感は、何かが自分に向かってきていることを告げている。

 「ネリーナッ!」

 強い口調で平二が叫ぶ。

 「とにかくここを出るんだ、そんな様子じゃ無理だ!」

 平二は入って来たドアの方を指差した。

平二の右眼には、黒い粒子が寄り集まって、塊になっていく様子が映っていた。それはアメーバのように広がったり縮んだりを繰り返しながら、徐々に階段から廊下へ上ってくる。

 平二の声で我に返ったネリーナは、すぐにドアの方へ向かう。

 自分では制御できない感覚に身を包まれている。素直に平二の言う通りにしたほうがいい。認めたくないが、経験も力量も平二が上だ。

 ドアにたどり着いた平二は、ドアノブに手をかけた。

 ノブは回るが、ドアは押しても引いても固まったように動かない。

 「ネリーナ、鍵は? 全く動かないぞ」

 ネリーナは、ポケットから鍵の束を取り出す。どの鍵だったかと探しながら、自分が入ってきた時に、鍵など掛けていなかったことを思い出した。

 「……ヘイジさん、鍵は掛かっていないはずです! 私は開けただけです!」

 そう言うネリーナは、もう泣きそうな顔で、鍵の束をヘイジに差し出した。エクソシストの自分にもわからない、何か見えないものが近づいてくる。それは平二の視線を見れば明らかだ。平二はネリーナの肩越しに、先程よりも自分たちに近い場所を見ている。

 廊下の虚空を見つめる平二の右眼は薄ら赤く、鈍い光を放っていた。それはまるで、暗闇に光る蛍光塗料のようにぼんやりとした光だ。

 「ヘイジさん、眼が…」

 「ああ、気にするな。後で説明する」

 不安そうなネリーナをよそに、平二はじっと階段の方を見つめている。

 平二の右眼に映った塊は、徐々に姿を変えて黒い人影になった。しかし、人影というには異質だ。長い四肢に細長い頭。特に足は、本来なら人で言う腹のあたりから、二股に伸びている。

 それがゆっくりと平二達の方を向いた。真っ黒な細長い影が迫ってくる。廊下の天井に灯っていた蛍光灯がパンッと鋭い音を立てて、次々と消えていく。いくつかはスパークした拍子に砕け散った。

 ネリーナは、上着の内ポケットからロザリオを取り出すと、暗闇の中で後ずさった。割れた蛍光灯の破片を踏んで、じゃりじゃりと音を立てる。

 「ネリーナ、俺の手を掴め。わかるか?」

 「は、はい!」

 ネリーナは声のした方へ手を伸ばすと、平二の腕に触れた。手のある辺りを探りながら掴む。ぬくもりのある力強い手が、ネリーナの手を握り返した。

 「相手は十メートルほど向こうで立ち止って、こちらを見ている」

 ネリーナは、先ほど階段が見えていたであろう方向に目を凝らした。目の前は漆黒の闇だ。まだ昼間のはずだ。たとえ電気が消えていても、少なからず建具の隙間から、日の光が差し込んでもいいはずなのに。

 その時、微かに何かをつぶやくような声が聞こえてきた。

 「あ、何か…、ヘイジさんですか? 何を言ってるんです…?」

 明りのない闇の中で、黒い人影は頭を揺らしながら、口の辺りを波打たせている。

 「俺には聞こえない。なんて言ってるかわかるか?」

 ネリーナは耳を凝らす。その声に集中すると、これ以上ないほどに不快な悪寒が背筋に走った。今すぐにでも大声をあげて、このつぶやく声をかき消してしまいたい衝動に駆られる。奥歯を噛み締めながら、自分の知識にある言語と、影のつぶやいている言語を照らし合わせていく。

 聞き覚えのある言葉だ。それは――。

 「ヘ、ヘイジさん、あなたの名前です。あなたの名前を繰り返してる!」

 そうネリーナが言った瞬間、影の質量が急激に膨れあがった。

 叩きつけるような圧力が、二人に向かって迫ってくる。

 影から放たれた黒い粒子が渦を巻いて、平二とネリーナを取り囲んでいく。

 平二は、握っていたネリーナの手を引きながら後ずさった。

 細長い長身の影は平二たちとの距離を詰める。

 平二は、ネリーナと繋いでいた手を強く引いて、自分の後方へ投げ飛ばした。

 「きゃっ」と小さく声をあげたネリーナは、投げられた拍子にバランスを崩す

 平二は右眼に力を込めた。

 天狗の眼が、暗闇で赤い光を強く放ち始めた。漂う黒い粒子一つひとつが、放たれた光に照らされていく。

 いつの間にか平二の手には、真白い剣が握られていた。霊刀・黙儒。その真っ白な刀身は、バチバチと青白い火花を放つ。

 右眼の光が向けられると、影は動きを止めた。

 平二が黙儒をずいっと影の喉元に突き付ける。刀身が放つ火花が影に届くと、黒い粒子がいくつか弾け飛んだ。

 怯んだ影に向けて、平二が更に刀身を振り被って迫る。。

 「俺がこいつを止めている間に、何とかしてドアを開けろ!」

 「えっ?」

 「黒くて長い奴だ。俺たちの眼の前にいる。今は動きを止めているから、早く行け!」

 ネリーナは、慌てて入ってきた通用口のドアに駆け寄った。

 影が大きく両手を広げた。四肢の先から徐々に、周りの闇に溶け込むようにして消えていく。完全に影が見えなくなると、煙のようになった。それは大きく拡がって平二に迫る。平二が応戦しようと黙儒を振るうが、手応えがない。

 黒い煙は平二をすり抜けて、真っ直ぐネリーナへと向かって行く。

 「このっ」と短く叫ぶと、平二は振り向いて煙に追い縋った。

 ネリーナは力を入れてドアノブを回した。重いながらも、今度はドアが開く。少し開いたドアの隙間から、日の光が差し込んでくる

 安堵を感じた刹那、ネリーナは強い力でドアから引き離された。差し込んでいた光は、また徐々に細くすぼまって、ドアが閉まる金属音と共に、暗闇が戻ってくる。

 床に転げて仰向けになったネリーナの上に、黒い煙が集まっていく。

 「いやあぁぁぁぁぁぁっ!!」

 目の前が再び暗闇に包まれたネリーナが、恐怖を抑えきれずに叫び声を響かせた。

 黒い粒子が急速に集まって、ネリーナとドアの間に長身の人影を形成する。

 ネリーナは、今度こそ見えた。

 真っ黒いその姿、長く伸びた四肢、その口元がにやりと笑うと、口腔の奥には、もっと暗い闇が広がっている。穿(うが)った二つの眼の辺りにある小さな二つの黒い点、その二つの点が、グルンと時計回りに一回転すると、大きな両眼が現れた。すべてが黒いはずなのに、それが何故だか眼だとわかる。

 その二つの黒い眼と視線が合った。

 「駄目だ、眼を閉じろ!」

 平二が叫んだが、遅かった。

 黒い眼と視線が合った瞬間、ネリーナは無性に死にたくなった。

 生きていることが無駄に感じる。自分の存在が無意味に思える。今すぐここで喉を掻っ切って死んでしまいたい。

 手に持ったロザリオを投げ捨てたネリーナは、自分の右こぶしを口に突っ込むと、舌を掴んで引きぬこうと指を動かした。より確実に死ぬために、喉の奥へさらに拳を押し込んで、舌を奥から引き抜こうとする。

 「うぉえっ!うえっうううぅぅっごごごごごぅぅぅっ!」

 ネリーナは何度もえづきながら、手を自ら喉の奥へ突っ込もうとしている。

 「ごめんッ!」

 平二は日本語で叫ぶと、ネリーナを突き飛ばした。倒れたところへ、首の後ろに手刀を振り下ろす。

 ネリーナは小さく呻くと、気を失って床に突っ伏した。

 平二は黙儒を構え直す。黒い二つの眼は平二に向けられている。黒い両目が回転して小さな点に戻ると、再び影は暗闇に溶け始めた。000

 霧散していく相手に為すすべもない。しかし、ネリーナを置いて逃げるわけにもいかない。

 黒い煙と化したそれもまた、その状態では何もできないのであろうか、引くでも攻めるでもなく、平二の周りに漂っている。平二は辺りに気を配りながら、煙が再び集まる気配を待った。それを察するように、煙の方も漂うばかりで動かない。

 そのまま時間が過ぎる。真っ暗闇の中で、時折、黙儒から放たれる火花の音が響く。

 また煙が移動を始めた。気を失っているネリーナに向かって黒い粒子が集まっていき、口、鼻、耳へ吸い込まれる様に入っていく。

 「ちぃっ」と短く叫ぶと、平二は着ていた黒革のハーフコートを脱いで裏返した。背の内張りに鮮やかな絵が現れる。釈迦を中心に描かれた法華曼荼羅だ。その回りにも、細かな字の経文が金糸で刺繍されている。それを気を失っているネリーナの頭と上半身に覆い被せる。

 仏教圏の魔物ならば、この上着に近付くことさえできない。だが、ヨーロッパの美術館に現れた得体のしれぬ魔物に通じるか? 平二は用意を怠ったことを後悔した。

 黒い煙は入り口を遮られて一旦引いた。だが、またすぐ方向を変えて、ネリーナの足元からズボンの中へ、そして覆ったコートの隙間からも侵入していく。結局、コートは物理的にネリーナの上半身の穴を塞いだだけだ。

 煙はどんどんネリーナのズボンに入り込んで、パンパンに膨れ上がる。平二は苦々しい表情でそれを見やった。下半身にある穴から、ネリーナの体に入り込んでいるのだ。気を失っているネリーナの両足が、陸に上がった魚のように激しくバウンドする。

 さっきまでの暗闇とは違い、非常灯の薄暗い明かりが、廊下を照らしていることに平二は気付いた。静寂の中に、微かに非常灯の唸る音が聞こえる。

 先ほどまで漂っていた煙は、ネリーナの体内にすっかり潜り込んでしまった。

 突然、ネリーナを覆っていたコートが凄まじい力で押し上げられた。線の細い彼女の体躯からは想像もできないほどの怪力だ。押し上げられた拍子に、コートを抑えていた平二は天井に届くほど飛び上がる。

 大抵は、どの地域の魔物に対応できるだけの品を持ち歩いている。常に自分の得意な相手ばかりとは限らないからだ。しかし今回は一度封印した霊のアフターケアだった。それがまさか、ここまで強力な魔物に出くわすとは。

 落ちた拍子に尻餅をついた平二は、そのままの姿勢で素早く後ずさる。

 ネリーナの体が不自然な動きをしながら、ゆっくりと起き上がった。まるで糸の切れた操り人形のように、半身を引きずりながら立ち上がる。

 平二が見たネリーナの両目は、瞳も白目も無く、全てが真っ黒になっていた。だらしなく開いた口腔からは、唾液を垂れ流している。しかしよく見ると、それは黒い液体だ。下顎から滴り落ちて、床に黒い水たまりを作っていく。両目からもその液体が溢れ出し、目頭に泡を作りながら、ネリーナの頬を黒く染めていく。

 「ぐ…ばい…でが…らばばばばばばばばばば……ば…が…」

 ネリーナの口から、別人のように濁った声が発せられる。漏れ出る液体のせいでうまく喋れないのか、しきりに口を拭う。

 既に立ち上がった平二は、黙儒を構えなおした。

 「……その子から、出ていけ」

 平二は英語で話しかけた。どのみち、イタリア語は挨拶程度しかわからない。

 「ヘイジ…、ヘイジ、ヘイジ、ヘイジ…」

 ネリーナの中に入った黒い魔物は、平二の名前を何度も繰り返し呼んでいる。平二は訝しい表情を浮かべる。何故、突然現れた魔物が自分の名前を呼ぶか?。

 「お前、誰だ?」

 落ち着きを取り戻しながら、平二はゆっくりとネリーナの中にいるものに話しかけた。

 「バ…バドロルシスス…」

 平二は黙儒を握る手の平に、いつの間にか汗をかいていることに気づいた。いつになく緊張している。

 悪魔は名乗ることを拒む。それは、エクソシストが名前を呼ぶことによって、悪魔の行動を支配するからだ。イスラエル王国の第三代王ソロモンは、悪魔ばかりか天使までを使役してエルサレム神殿の建立を成し遂げたという。名前を知り、支配することで、それらを従わせることができたのだ。

 エクソシストは悪魔祓いの際に、必ず悪魔の名前を聞き出すことから始める。悪魔と問答し、駆け引きを繰り返し、それだけのために何年もかけることもある。

 こいつが真っ先に名乗ったのは、平二に対して恐れを感じていないということか。

 「――あっさり名乗るかよ」

 バドロルシススと名乗ったものは、何度か口の周りを手で拭うと、首を回しながら背筋を伸ばした。ネリーナの体に慣れてきたのだろうか。

 「その眼……にんゲんのくせに…」

 バドロルシススの話し方は、徐々に流暢になっていく。

 「お前は何者だ? なぜ俺の名前を知っている?」

 「質問はひトつズつだ。答えてヤるかラ言ってミな」

 「俺に一体、何の用だ?」

 バドロルシススは、ネリーナの右手をゆっくり持ち上げて、平二を指差した。

 「なんのつもりだ?」

 「下見ダ。おマエを見てくるヨウにイワれたかラ」

 「…誰に言われた? 」

 「身に覚エがアルだろウ?」

 「さあ?」と言って、平二はわざとらしく首を傾げた。

 「生憎、おたくらみたいのに、随分と恨みを買ってるからな。誰だか言ってくれないと」

 確かに身に覚えはあるが、その数が多すぎて皆目見当がつかない。

 バドロルシススはしばらく沈黙すると、小さくつぶやいた。

 「――復讐ハ諦めタのカ?」

 「何?」

 バドロルシススは短く笑った。おかしくてしようがないという感じでにやけている。その顔はネリーナのものとは思えないほどに醜悪だ。

 「おい? どういう意味だ…?」

 平二の眼の光が増していく。

 「クククッ…ヒヒヒ…キヒ…ヒッヒヒヒッ…ヒャヒャハハハハハハハ!」

 堪えられなくなったのか、バドロルシススはゲラゲラと笑い始めた。

 「答えろ、誰に俺を見てくるように言われた?」

 平二が、火花を散らす刀身をずいっと突きだした。しかし、黙儒を向けられてなおバドロルシススは笑っている。

 「フヒヒヒッハハッハ……教えネーヨ」

 平二の持つ黙儒が、バドロルシススに憑かれたネリーナの首元に迫った。

 「やレヨ。この女を傷つけても、俺ハ痛くも痒くもネエのに。ヒヒヒ…」

 先程から様子を見る限り、バドロルシススはネリーナに、物理的に憑り付いている。体の内にいて、中からネリーナを操っているのだろう。バドロルシススの言うように、ネリーナを傷つけても意味がない。

 「まあ、聞けヨ。ヒントぐらイはヤるカラ」

 完全に相手のペースに飲まれている。状況を打開する手立てがない。しかし、このバドロルシススの言うのは一体――

 「オレは話すのがニガ手だ。…こうして人の体を借りないとダメだ。しばらくマエに、お前の国からきたヤツに長く入っていたんだ。オンナだ。何度もオトコとヤッて、たくさん食ってやった。日本のオンナはすぐやれるからって人気があったゼぇ。ヒヒッ…ああ、食ったのは本当に食ったんだヨ、キヒヒッ…キンタマをたくさんたくさんたくさんタクサン引きちぎって、丸呑みにしてやっタんだ、フフフフッ……」

 興奮しているのか、ところどころ発音がおかしいが、口調はどんどん饒舌になっていく。自分が如何に強く残酷であるかをアピールすることで、自尊心が掻き立てられるのだろう。

 「ごきげんなところ悪いが、戯言に付き合うつもりはない。答えろ」

 ゲラゲラと笑っていたバドロルシススは、平二の言葉で急に怒り出した。

 「ああッ、殺すナと言われテナけりゃ、お前のケツの穴カら、噴水みたイに出入りしてヤるのにっ! ああああああああッ――かっタりイィィ。面倒くせぇ。このネリーナってやつの体が臭ぇンだよ。さっきから嫌ナ線香クセェ臭いがしやガる!」

 バドロルシススが嗅いだ匂いは、ネリーナ達が魔除けで炊く香の匂いだ。

 喚き立てるバドロルシススを見据えながら、平二は腰を落として身構える。

 エクソシストであるネリーナに取り憑いていることからしても、相当な力を持っているのは間違いない。何より煙になられては、黙儒の攻撃がまったく通用しない。

 平二の右手からは黙儒が消え、いつの間にかペットボトルが握られていた。先ほど来る途中で汲んだ聖水が入っている。

 聖水は至極身近で基本的な除霊ツールだ。教会で祝福を受けた水は、物質として霊的な力を帯びている。平二のような信心のない者が使っても、ある程度の効果が期待できるのだ。平二はペットボトルを振ると、水しぶきをネリーナの体に飛ばす。

 「だああああっ、てめぇ聖水持ってるのかよ。余計に臭ぇじゃねえか!」

 聖水を浴びても、相変わらず臭いを気にしている。バドロルシススはネリーナの体内にいるのだ。外から聖水をかけても効果は薄いのは分かっていた。だがまさか、ここまで効かないとは。悪魔に取り憑かれると、聖水に触れただけで皮膚が火傷のように爛れてしまうはずなのに。

 平二は残り少ない聖水を自分の手にかけると、濡れた手を伸ばしてネリーナの顎を強く握る。ジュウゥという音を立てて、ネリーナの顎の肉に指が食い込んでいく。

 「ガァッ、テメエッ!」

 平二は、呻くバドロルシススが抵抗するより先に、開いたネリーナの口腔にペットボトルを押しこむと、一気にボトルを握り潰した。ボトルの中身がネリーナの体内に流れ込んでいく。今度の聖水には、平二の霊力も込められている。さっきよりも、バドロルシススにダメージを与えられるはずだ。

 「ギィヤッ!」

 短い叫び声が聞こえると、ネリーナの体はバランスを崩して仰向けに倒れた。痙攣しながら床の上を転がる。

 「痛ってぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 左右に転がりながら、悲痛な叫び声を上げている。

 ネリーナの体は俯せになって止まると、硬直したように動かなくなった。

 長い静寂が続く。平二は微動だにしないネリーナの体を、じっと見据えている。

 「――たくっ、この程度ハ仕方が無いか…あまリ痛くされると…我慢が続かないナぁ…」

 ネリーナの中のバドロルシススは、先ほどまでの興奮した様子と違って、ゆっくりと落ち着いた口調で喋った。

 「帰る。ヒントはもうヤらない」

 ネリーナの口と鼻から、黒い煙が吹き出すように床に広がっていく。

 「おいっ 待て…」

 ネリーナの体外へと噴き出し始めた黒い煙は、平二の目の前で集まり出した。咄嗟に突き出したペットボトルには、もう一口分も聖水は残っていない。

 煙はどんどん凝縮し、拳ほどの大きさまで一気に縮まった。しばらく空中で静止している。平二の様子を伺っているのだろうか。平二も黒い塊を見据える。

 すると塊は人が走るくらいのスピードで、上がってきた階段の方へ移動を始めた。だが平二は動かない。今追っても、どうせ敵わないことはわかっている。

 黒い塊が離れていくと、先ほどまでの嫌な気配が薄まっていく。

 平二は俯せに倒れているネリーナに手をかけて抱き起こした。先ほど強く握った顎の辺りは、火傷をしたように手の形が残っている。バドロルシススに取り憑かれた時に吐いた黒い液体は、ネリーナの全身を汚していた。

 ネリーナの腕を取った平二は、手首の脈を確かめる。強い脈動を指先に感じる。呼吸もできているようだが、吐瀉物が口腔に残っているのか呼吸音がおかしい。

 「おい、ネリーナ!」

 平二に揺り起こされたネリーナは目を開けると、口に残っている吐瀉物を必死に吐き出した。激しい咳を繰り返しながら、黒い液体の残りを吐き出そうとする。仰向けの姿勢が苦しかったのか、ネリーナは咳をしながら立ち上がると、繰り返しえずいた。

 「ネリーナ、まずは教会だ。すぐに連れて行く」

 振り向いたネリーナは、自分が吐いた吐瀉物に足を滑らせて倒れると、そのまま気を失った。

 

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