わたしは暗黒を前にし

 

目の前には闇が立ち込めているのに

 

なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか

 

(ヨブ記 二十三章 十七節)

 

 

 

 

 

 

 

 

八、           フィレンツェ

 

 

 

  平二がフィレンツェ市街に到着したのは、夜中の十一時過ぎだった。

 

 日本からの飛行機の到着が遅れた。市街へ出る路線バスがあったのでそれを待ったが、空港から始発なのにも関わらず、フィレンツェ駅行バスは四十五分遅れで来た。途中何度も渋滞にはまり、タクシーなら三十分程度のところを、結局一時間半もかけて到着したのだ。

 

 待ち合わせていた者と夕食を取るつもりでいたので、平二は飛行機で出された昼食以降は、何も口にしていない。

 

 待ち合わせは市街の奥に入った小さなホテルだ。送られてきた地図を片手に狭い路地を入っていく。

 

 無造作に前髪を掻き上げた平二は、手にしたボストンバックを持ち直すと、着ている黒いハーフコートの前を合わせ直した。クリスマスも近い時期になると、温暖なイタリアとはいえ、さすがに寒い。

 

 フィレンツェは観光都市だ。街中には特産である革製品の店が並び、きらびやかな鞄や靴が飾られたショーウィンドウが観光客を待ち受けている。大きな通りには既にクリスマスの装飾が吊るされており、セールの真っ最中である店には思い思いの装飾が施されている。

 

 車一台通るのがやっとの路地にも店が並び、その隙間に食堂が点在している。イタリアでは、レストランと食堂の区分けがある。豪奢なインテリアでドレスコードのある店はレストラン、質素な雰囲気でサンダル履きでも気軽に入れるのがトラットリアという食堂だ。夜中まで営業しているのは、このトラットリアの方で、サッカーの試合があった日は、大勢の客が夜中まで飲んでいる。

 

 肉の焼ける香ばしい匂いをかいくぐりながら、平二は空腹を堪えて先を急ぐ。既に二時間も待ち合わせに遅れているのだ。腹ごしらえしたいところを我慢しつつ、軽笑の漏れるトラットリアの前を通り過ぎる。

 

 ホテルは、フィレンツェのシンボルである花の大聖堂の裏手にある。Y字になった道のちょうど分かれ目、道が二手に分かれる突端に位置していた。左右の道を隔てる様に立つホテルの入口は狭い。木枠にガラスが嵌っているドアから中を(うかが)うが、明かりもなく真っ暗だ。疲れと時差ボケのせいで、両目の下に隈が浮かんだ自分の顔が、ガラスに映っている。

 

 古びた真鍮のドアノブに手をかけると、案の定ドアの鍵は閉まっている。呼び鈴もないのでドア枠を何度か叩くと、髭面の柔和そうな大男が奥から出てきた。

 

 「ああ、やっと来たか。ネリーナがずっと待ってるんだ」

 

 男は平二を笑顔で招き入れると、三角形の狭いロビーの奥を指さした。二叉路の間に建っているので、敷地が三角形なのだ。中は奥に行くに従って広くなっている。

 

 男が指差した先には、すらりとした長身の女性が立っている。黒い髪を丁寧にまとめ上げ、黒いパンツとシャツに身を包んでいる。シャツは一番上のボタンまでしっかり留めていて、肌の露出はほとんどない。

 

 「ミスター・ヘイジ・イノウですね、ホテルの場所がわからなくて迷っているかと思いました。私がネリーナ・モランディです。宜しく」

 

 ネリーナは流暢な英語で自己紹介する。

 

 平二が握手の手を差し出すが、ネリーナは視線を逸らして横を向いてしまった。気付いているのか、いないのか。いずれにせよ、平二は行き場のなくなった手で顎を掻く。

 

 ネリーナの年齢は二十半ばというところか。声に張りがあり、背筋は伸びて若々しい。切れ長の目は大きく、緑色の瞳が覗いている。年齢の割に全く化粧気がない。一見して美人ではあるが、男を寄せ付けない、厳しく硬い印象だ。要するに愛想が全くない。

 

 「はじめまして。ヘイジだ、そう呼んでくれ。―飛行機が遅れた。とにかく腹が減ってしょうがない。何か食べに出ようか」

 

 英語で早口に言った平二は、ドアの窓から見える食堂を指さした。先ほど通り過ぎたときにまだ営業していることは確かめている。

 

 「いや、実はあなたがあまりに遅くて…」

 

 「もう食べた?」

 

 「はい」

 

 ネリーナは、さも当たり前だという様子で首を縦に振った。

 

 「でも、ここのオーナーであるグレゴリが、あなたの夕食を用意していますから」

 

 グレゴリと呼ばれた男は、笑顔で平二に手招きする。ロビーの奥に、食事があるらしい。

 

 「わかった。とにかく何でもいい、腹が減ってしょうがないんだ」

 

 「オレの作るパスタを食べたら、このホテルから外に出ようなんて思わないさ。とにかく奥の食堂に用意しているから、こっちへ来てくれ」

 

 ネリーナはイタリア語で返事をすると、平二に続いて奥に進む。

 

 こじんまりとした食堂には、テーブルが三つしかない。そして奥には、大柄なグレゴリには小さすぎる厨房がある。突き出た腹を厨房の壁にこすりながら、グレゴリが材料を並べていくのを尻目に、ネリーナはテーブルの一つに腰掛けた。

 

 「ヘイジさん、携帯電話は持たないのですか? 遅れるなら、電話ぐらいください」

 

 ネリーナは、自分のシャツの胸ポケットに入った携帯電話を指先で叩いた。

 

 「迷惑をかけたな。イタリアで使える携帯電話を持ってなかった。まあ、意外に無くても困らないもんさ」

 

 「でも、今日は困ったのでしょう?」

 

 ネリーナは、平二と視線を合わせずに話しながら、テーブルに置いた鞄から大きめの封筒を取り出した。硬い厚めの紙でできた封筒は、無造作に鞄に入れられていたにもかかわらず、皺も折れもない。封部分には赤い蝋で封緘(ふうかん)がされていた跡がある。ネリーナは、封筒から数枚の便箋と写真を取り出した。

 

 「携帯電話を持ってないことには文句を言う割に、その格式ばった手書きの依頼書は相変わらずだな。」

 

 平二はネリーナの手から便箋を受け取ると、その文面に目を通した。便箋は二枚。豪奢な金の箔押しと、複雑な透かし模様が施されている。

 

 イタリア語で書かれた原文は、滲みのない漆黒のインクで署名が入っており、もう一枚はタイプライターで書かれた英語の翻訳文だ。英語の翻訳文に目を落とす平二に、ネリーナが声を掛けた。

 

 「それは、あなた宛ての抗議書です。二年前に、あなたが退治したはずの、あの…」

 

 「掛け軸。絵に憑いていた霊だ」

 

 「そうです。あの、ロール状になった絵に憑いた悪霊を退治していただいたはずですが、またあの絵に祟られる者が出ているのです。絵を保管していたウフィッツィ美術館の学芸員五人が、病院に担ぎ込まれました。うち一人は気が触れてしまって、かなりの重症です」

 

 ネリーナが、平二の顔を覗き込むように言う。

 

 「ああ、手紙には、ウフィッツィが閉鎖されて、金銭的損害が発生しているって書いてある」

 

 写真数葉を手に取ると、ネリーナが深く頷いて答える。

 

 「保管庫にあったはずの絵が、いつのまにか廊下に広げられていたそうです。気づいた学芸員達が、近づいただけで気絶したとか。以前よりも霊障が酷い」

 

 写真には、長い廊下に大きく拡げられた掛け軸が写っている。

 

 掛け軸の絵は九相図という。

 

 二年前、美術館の改装の際に、収蔵庫から発見された。人の死体が腐って土に戻る様が、九つのパートに分けて描かれている。人の死の無常を描いた仏教絵画だ。古くは大陸から日本に来た物もあったようだが、写真の物は五百年前に日本で制作された代物だ。若い女性の肢体が腐っていく様子が描かれている。昔の禁欲生活を送る坊主たちは、それを描き眺めることで性欲のはけ口にしたという説もある。悪趣味ではあるが、古いことと描かれた内容が奇異なことから、ヨーロッパにおいても美術的価値は高い。

 

 掛け軸が、どのような経緯でイタリアのフィレンツェまで来たのか知らないが、随分前からウフィッツィ美術館の保管庫にあったらしい。問題はこの絵でなく、掛け軸についた染みだ。修復のために掛け軸を拡げると、ところどころに黒い血のような染みが見受けられた。当初は、薬品を使って染みの消す作業を行ったらしいが、翌日にはまた元に戻っている。その内に作業を行っていた学芸員が、原因不明の病で倒れてしまった。そこで、フィレンツェ近郊にいるエクソシストが除霊を行ったが、何の効果もない。それで二年前に平二が召集されたのだ。

 

 「ヘイジさん、これはあなたのミスであり、我々はアフターケアとしての対応を望んでいます」

 

 「つまり無料で働けと。まあ、いつも大して貰っている訳じゃないがね…」

 

 自分で言った言葉に軽く鼻で笑うと、平二はネリーナに向き直った。

 

 「配管工事と違うんだ。アフターケアとか、そう単純なことでもあるまい」

 

 「今回も前回と全く同じ、いやもっと酷い現象が起こっています。あなたが退治したはずの悪霊がまだそこにいるのです。少しはまじめに聞いてください」

 

 世界の人々の往来は、十五世紀半ばから始まった大航海時代を皮切りに活発になった。

 

 現代では、飛行機をはじめとした移動方法の発達によって、日々数十万人が地球のあちこちへ移動している。近年は、そうした変化によるウィルス性の病気の拡散が問題になっているが、実は拡散したのはそれだけでない。霊、妖怪、悪魔や魔物も、人の往来に憑いて世界中を行き来している。飛行機や船に乗って、闇の世界の住人達は世界中に拡散するようになったのだ。ロンドンで鬼が人を襲うことも、東京に西洋甲冑の騎士が彷徨うことも、決して不思議なことではなくなった。

 

 これらの霊や魔の類は、土着の宗教家や聖職者、祈祷師が長い年月を経て編み出した術で退け(しりぞ)られてきた。それが外国に出ると、言葉も宗教も変わるためか、何をやっても効かない事例が出始めた。言語と一緒で、相手が解さなければ通じない。いや効くには効くが、強く悪質なそれになると、いよいよ敵わなくなる。

 

 宗教国家バチカン市国は、国際エクソシスト協会(International Exorcist Association 通称・IEA) と呼ばれる、特に霊的な力の強いと認められた聖職者、エクソシストのエキスパートで構成される組織を持つ。元来エクソシストは、バチカンの典礼秘蹟省に属しており、割り当てられた司教区に配属される。しかし、IEAに所属する者は、司教区単位での活動をせず、事象ごとに悪魔祓いのスペシャリストとして派遣される。この世に現れて、人に影響を及ぼす悪魔に対抗すべく作られたこの組織は、もう百年もの間、世界中で戦ってきたのだ。

 

 そこには平二のような、カソリックでない者も協力者として所属している。エクソシストが不得手とする、他宗教の悪魔や魔物の退治を請け負うのだ。

 

 異教徒である彼らは、バチカンではストランデット(Stranded)と呼ばれる。カソリック教会のおけるエクソシズム=悪魔祓いは、その原点を聖書の記述におっている。そのためキリスト教信徒以外のそれをエクソシストとは呼ばない。ストランデットとは取り残された者の意で、信仰心を持たない存在として、エクソシストとは区別されている。

 

 ストランデットの多くは、生まれながら、あるいは苦行を経て得た強い霊力を武器に、悪魔や魔物に対して物理攻撃を行う。信仰心を武器に悪魔を祓うカソリックのエクソシストとは根本が違うのだ。

 

 侮蔑の意味を込めて使われた「ストランデット」という言葉は、今では平二のような者を称する隠語となった。IEAは、現在三百人ほどのストランデットを擁している。

 

 「結局、今度は五人も被害にあって、美術館も閉鎖されてしまいました。あの美術館がこのフィレンツェの観光産業において、どれほど重要なものか、あなたもお分かりでしょう。あなたほどのストラ…いえ、エクソシストが呼ばれたのです、その意味を理解していただきたい」

 

 「ストランデットでいい。無理に言い直す必要はない

 

 話をそらされたネリーナがため息をついたところへ、グレゴリが大き目の皿を持ってやってきた。

 

 「さあ、テーブルの上を片付けろ。冷めないうちに俺のパスタを食ってくれ」

 

 皿を平二の前に置くと、グレゴリは踵を返して、今度は厨房から寸胴鍋を片手にぶらさげて持ってきた。

 

 「日本人、腹が減っているんだろう、こいつは俺のママンのレシピなんだ」

 

 そう言いながらグレゴリは、平二の皿にうっすらピンク色のホワイトソースが絡まった平麺のパスタを山盛りに載せていく。酸味の効いた濃厚なチーズと、あっさりとしたコンソメが混じった香りが、鼻一杯に広がっていく。

 

 グレゴリと目配せした平二は、フォークを掴むと口いっぱいにパスタを頬張った。こってりとしたソースから、うっすらとサーモンの味が染み出してくる。

 

 「おれのママンはフランス人さ。トマトに飽きたらこういうのもいいだろう? ホワイトソースに濃い目のコンソメと、グリルしたサーモンをほぐして入れてるんだ。このソースがピンク色なのはサーモンの油だ。綺麗だろ。ホントは皿に盛ったら、スモークサーモンとイクラでおしゃれに飾るんだぜ」

 

 確かにイタリア料理にない組み合わせだ。この髭面が作ったとは思えないほど手が込んでいる。平二は、グレゴリが話すのに相槌を打ちながらも、どんどん皿の上のものを平らげていく。

 

 「まだあるからゆっくり食べろ、な、日本人」

 

 そう言うグレゴリは、となりのテーブルから椅子をたぐり寄せて、相対した平二とネリーナの間になるように座った。

 

 「ああ、まだ紹介していませんでしたね、彼はグレゴリ・サッキといって、このホテルのオーナーで、私の友人です」

 

 紹介されたグレゴリは満面の笑みを浮かべて、パスタを食べる平二を見下ろしている。

 

 「まあ、オーナーとは言っても雇われなんだ。従業員は俺一人。食事から掃除まで、全部俺が切り盛りしている。―とにかく、まずは食べるのが先だな。ヘイジ、食べてから握手だ」

 

 そう言われた平二は、グレゴリに目線を向けてまた相槌を返した。

 

 エクソシストという職業が神職として確立しているイタリアでは、グレゴリのような協力者が各地に多数いる。彼もその一人であろう。

 

 早々に皿をきれいにした平二は、おかわりを奨めるグレゴリの申し出を断って、ネリーナに話しかけた。

 

 「旨いパスタで腹も膨れたことだし、明日の算段でもしようか」

 

 それを聞いたグレゴリが、食後酒を持ってくる、と言って立ち上がる。するとネリーナは片手を上げて、コーヒーを、と諌めた。

 

 「ヘイジさん、あなたが前回ここに来た時は、たしかローマから日帰りでしたね?」

 

 「ああ、バチカンに用事があったからだったと思うが」

 

 (とぼ)けたふうに答える平二に、ネリーナが詰め寄った。

 

 「あなたが手を抜いたとは言いませんが、もう少し時間をかけて、事後問題がないかを確認しても良かったのではないですか」

 

 「……」

 

 特に答えるでもない平二は、先程ネリーナが取り出してきた封筒から、写真を数葉取り出した

 

 「なあ、これ見てくれ」

 

 大きさの割に鮮明でない写真には、無機質な床に広げられた掛け軸と、いくつかの紙片が写っている。平二はその内の一枚を指さした。指差した箇所には掛け軸から離れたところにある四角い白いものを指している。

 

 「これは俺が貼りつけた呪符だろう。インドの聖人に頼んで作ってもらったサンスクリット語の札だ。仏教系全般に強く効く。あとこれも見てみろ」

 

 平二は別の写真にあった、ぼんやりとした白い丸まったものを指さした。

 

 「これはウズベキスタンの祈祷師が、三日三晩かけて呪をかけたゴビ砂漠の砂を漉き込んだ紙だ。この砂を帯びたものは、不思議なことに人の目に映らなくなるんだよ。そこにあっても、存在に気づかなくなる。強い霊力を持った者でないと、単なる砂粒程度にしか認識できなくなる。ほら」

 

 ちょうど、大きなごつい両手に小さなエスプレッソコーヒーをもったグレゴリに写真を見せ平二は、指差した所に何が見えるかを訊ねた。

 

 「なんだ、なんかあるみたいだが…、でもよくわからんね」

 

 コーヒーを各人の前に置くと、グレゴリは何度も不思議そうに写真を覗き込む。平二は小さなカップを手に取って持ち上げると、ほろ苦く、まったりとした香りを大きく吸い込んだ。

 

 「…ん、うまそうだ」

 

 平二はスプーン山盛りいっぱいの白砂糖を入れ、カップを啜った。口の中に、苦味と甘味が融けて広がっていく。

 

 「この呪符でなら、掛軸に憑いたものは、ほぼ永久に封印できた。誰かが間違って触ったり、封印の札を剥がさないよう、この紙で包んで保管庫の奥に置いた。なのに見えないはずの包みから出されたうえに、呪符まで剥がされて、しかもご丁寧に床に拡げて置かれている」

 

 「じゃあ誰か、霊力を持った者がやったということですか?」

 

 「さあね、それを調べるのも俺の仕事なんだろう?」

 

 質問に質問で返した平二に対して、ネリーナは呆れた様子で両肩を竦めた。

 

 「いずれにせよ、明日現場に行ってみてみないことには、わからないな」

 

 「明日は九時に美術館へ行くことになっていますから。そろそろ食事も終わりにしてください」

 

 まだ写真を眺めていたグレゴリに、コーヒーを片付けるように促すと、ネリーナは立ち上がった。平二はまだ湯気の立つコーヒーカップをつまんだまま、深く椅子に座りなおす。

 

 「食事に時間をかけるのは、イタリア人の美徳だろう?」

 

 「早く食事を終わらせて、仕事をするのが日本人の美徳でしょう。私は日本人のそういう勤勉さを尊敬します」

 

 ああ、いつもこうだ。IEAの仕事は必ずと言っていいほどお目付け役が付くが、大抵は異教徒の平二を快く思わない者ばかりだ。ネリーナが事務的な対応なのも、まあそういうことだろう。唯一の救いは、ネリーナが若くて美人なことだけだ。

 

 うんざりとした気持ちを表情に出さぬよう、平二はカップをもう一啜りしてからグレゴリに渡した。

 

 「グレゴリ、さっきの写真のものは見えたか?」

 

 平二は、テーブルを片付けるグレゴリに立ち上がりながら尋ねた。

 

 「いや、何かあると言われれば、そんな気もするが、やっぱり見えないな。俺は眼がいい方なんだが」

 

 グレゴリは顎髭をさすりながら、平二に写真を返した。ギブアップということだ。

 

 「ネリーナ、あんたはどうだ?」

 

 平二は写真をネリーナに差し出した。

 

 「異教徒の術などに興味はありません。むしろ我々が触れてはならないものです。あなたの術は奇怪だと、IEAでも言われました。お願いですから、あまり我々の信徒の前であなたの術を披露しないでいただきたい」

 

 ネリーナは写真を押し返すような仕草で拒絶し、グレゴリを一睨みする。

 

 なんとも気まずい雰囲気に耐え切れなくなったのか、グレゴリはカップを引き上げ、そそくさとキッチンへ行ってしまった。

 

 「明日はここで朝食をとってください。その足でウフィッツィ美術館へ行きます。ここから歩いて十五分程度ですから」

 

 部屋の鍵を差し出したネリーナは、平二に部屋に行くよう促した。

 

 「わかったよ。明日の朝食は、一緒に食べれるんだろう?」

 

 「いえ、私は朝食を食べないので、あなたとグレゴリで済ませてください」

 

 「食べられるときに食べておいた方がいい。腹が空くのは良くない」

 

 「朝に食べると、胃がもたれるんです。―私のことは、構わないでください」

 

 どうにもつれないネリーナの言葉に、またしてもうんざりとした平二は、お休みと二人に声を掛けると、狭く暗い階段を重い足取りで上っていった。

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