※

 狭い路地の片隅で、少年が仰向けに寝そべっている。 その傍らに、屈んでいる女が一人。

 少年の腹辺りに手を伸ばした女は、その指先をシャツの間に滑り込ませた。

 荒い呼吸を繰り返している少年は、焦点の合わない視線で、真っ直ぐ空を見つめたままだ。建物に挟まれた路地から見る空は広くない。

 少年の肌は浅黒い。移民である彼は、家族と共にイタリアの観光都市を転々としてきた。目的は観光客の財布だ。行った先々で、世界中からやってくる浮かれた金持ちのポケットやカバンから財布を掠め取る。地元の警察に眼を付けられた頃合いには、また次の土地へと移っていく。そういう暮らしをもうずっと、生まれた頃から続けている。

 久々に訪れたローマで目を付けたアジア人女性は、いかにも裕福そうであった。シルクのスカーフを頭から被り、今時は流行らない毛皮の襟巻を着けていた。全身を覆うキャメルのコートは、一見して上等な品だとわかった。

 少年はいつも通り女性に近付いて、手に持ったペットボトルの中身をコートに浴びせた。黒い炭酸飲料が、上等なコートを濡らす。

 そして大げさに謝りながら、手に持ったナプキンで汚した箇所を拭う。

 地元の奴や、旅行慣れしてそうな奴は狙わない。もっぱら狙うのはアジア人だ。裕福なアジア人は警戒心がないのか、浴びせたジュースの汚れを拭く自分を、露骨に拒否するようなことがない。そうやって近づいて、謝りながら拭っているうちに、上着の内側に手を入れる。

 今日もいつも通り、コートの合わせの隙間に手を入れた。 しかし、探った場所には、財布がなかった。そのかわり手に触れたのは、何かぬめっとした蠢くもの。まるで大量のナメクジが入ったバケツに手を入れたような感触だった。

 思わず手を引いた少年は、アジア人女性の顔を見た。

 顔の右半分が、引き攣ったように持ち上がっている。そして、自分を見つめる冷たい二つの瞳。東洋人の黒い瞳なのに、なぜかその眼の色が青いと思った。

 その眼が青いと思ったところから全く記憶がない。そして今、こうして路地裏で寝そべっている。体の自由は効かず、指一本動かすこともできない。助けを呼ぼうにも、声を出すことすらできない。

 少年は、自分を傍らで見下ろす女性の顔を見た。片側半分の皮膚が後ろへ引っ張られたようになっているその形相を、頭から被ったスカーフで隠すようにしている。

 女が、シャツの隙間に滑り込ませた手で合わせを広げる。ボタンが飛んで、胸と腹が露わになった。

 シャツは少年のお気に入りだ。盗んだ金で買ったものだが、ブランドものなので気に入っていた。シャツのことが気になるものの、不思議と自分が何をされるのかということは考えない。

 少年の腹に、毒々しい赤色で塗られた爪が突き立てられた。指先をすうっと滑らせると、少年の鳩尾(みぞおち)から下腹部にむけて、真っ直ぐ赤い筋が浮かび上がる。その線の上に、次々と血の玉が浮かび上がり、それが大きな塊になると、左右に血がこぼれ落ちていく。

 少年は、まだシャツのことを気にしていた。血の汚れはクリーニングで落とせるだろうか。

 女は、裂いた傷口に左手を差し入れた。白っぽい脂肪をかき分けて、中にある臓物を引きずり出していく

 「食事中か?」

 男の声だ。その声に女が答える。

 「いや、少しは喰うが、ほとんどは術に使う」

 「ふうん、術にねぇ」

 男のからかうような口調に、女は露骨に口元を歪めた。

 「それより、奴の居場所は?」

 脂と血で汚れた手を少年から引き抜いた女は、立ち上がって言った。

 「いろいろと手は尽くしているだろう? 動きがあれば、すぐにわかるようにしてある」

 「こちらはこうやって、貴様の欲しいものを与える準備を進めている。契約は契約だ。約束は守ってやるから、貴様も義務を果たせ」

 そう言って女は舌を出すと、手に付いた脂を一口舐め取った。

 「なんだ、やっぱり食事じゃないか」

 相変わらず、からかう口調の男に応えず、女は再び少年の中に手を差し入れる。血が溜まって、ちゃぷちゃぷ音を立てる腹の中を弄って、丁寧に腸を引きずり出していく。

 少年は内臓を引きずり出されながらも、まだ意識を保っていた。痛みはない。あるのは体の内側を弄られるこそばゆさと、何かがぶちぶちと引きちぎられる感触だけだ。

 「なあ、それはどうする?」

 いつの間にか女の後ろに立って覗き込んでいた男が、引きずり出された腸を指差して言った。

 「……消化器類はいらない。術には使わないし、臭みがあるから。心臓と肝、あと精巣を取ったら、幾らか美味い所を喰う」

 女は話しながら、手早く少年の中から臓器を取り出していく。

 「じゃあ、喰い残した所はいらないな?」

 「ああ、なんだ、お前も喰いたいのか?」

 女の言葉に、男は大げさに首を振った。

 「よしてくれ。俺は道端に落ちたものを喰うほど飢えていない。―こんなところに喰い残した物を置いておけないから、始末してやろうかと言っている」

 「気遣いは結構だ。後片付けぐらいは自分でできる」

 そう言った女は、手に持った心臓を食品用のビニールバックに入れる。バックを押さえている右腕には、手首から先がない。腕の先に露出した骨で器用に袋をおさえながら、次々と臓器をバックに入れる。

 コートの内側に手を入れた女は、黒っぽい何かを取り出すと、それを少年の腹の中へと投げ入れた。女の手に握られたものは巫蟲だ。黒い蚯蚓のような蟲。人の内に入り込み、中から人を喰らう。

 蟲は、少年の腹の内にたまった血の中で蠢くと、肉に噛みついて、その体を震わせる。

 内臓をそっくり出されてしまったものの、少年はまだ意識があった。肺もないので息もできない。にも拘らず、幻惑されて感覚が麻痺した脳は、未だに意識を保ち続けていた。

 女が少年の顔を覗き込んだ。見開いた眼が女の顔を映す。その頭には、もうスカーフはなかった。顔の引き攣りは、頭の方へと続いている。皮を剥がれたために残った傷跡。側頭部は、まばらに毛が生えているだけだ。

 その無残な姿を晒した女が、少年の眼に手を伸ばした。眼前に迫った鋭い爪が、そのまま眼球へと突き刺さる。頭の中で、ぐじゅりと液体が染み出す感覚を覚えた。それに続いて、ぶちぶちと何かが引きちぎられる音が頭蓋の中で響く

 引き出した目玉を頬張った女は、それを咀嚼した。口端から血を滴らせながら、何度か顎を噛み締める。滴った血が少年の顔に落ちる。

 女は、もう一方の目玉に手を伸ばした。それも引き出されると、もう何も見えなくなった。

 「芭尾よ、その残りをバドロルシススにも喰わせてやれよ」

 男の言う声が聞こえた。女の答えはない。

 すると傍らで、何かを啜る音が聞こえてきた。先ほど抜き取られた腸を何かが食べている。啜って口に含んだものを、くちゃりくちゃりと音を鳴らして食べている。

 少年は、自分が貪り食われる音を聞きながら、ゆっくりと息を引き取った。


  次へ
  次へ