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 グレゴリと待ち合わせた時間はもうとっくに過ぎていた。

 急いでグレゴリのいるはずのサン・ピエトロ広場に戻った頃には、昼食の時間を大分過ぎてしまっていた。広場を見渡すと、窮屈なスーツ姿のグレゴリが手を上げて近づいてくる。

 「約束の時間を一時間近く過ぎているじゃないか? 電話一本寄越さないで、一体何をしていたんだ」

 確かに携帯電話を持っていたのだから連絡すれば良かったのだろう。しかし、それすら思い浮かばないほど多くのことがありすぎた。

 どう言い訳しようかとネリーナが考えあぐねる間に、平二が口を開いた。

 「すまない。ヤボ用で友人のところに寄ったり、いろいろあったんだ。ところで食事はまだだろう?」

 「悪いが待っている間に食事は終わらせたよ。腹が減って待ちきれなかったんだ」

 グレゴリは腕時計の盤面を平二に向けると、指先でポンポンと叩いてみせた。時間が経ちすぎたとジェスチャーでアピールしているのだ。

 「そうか、でもネリーナも腹が減っただろう?」

 ネリーナは、首を横に振って答えた。

 「いえ、私はどうにも食事をする気分になれません」

 「だって、昨日から殆ど食べてないじゃないか」

 「あまりにも様々なことがあったので、緊張しているのでしょう。とにかく食欲がないのです。―まあ、体は元気なのですが」

 「そうか、なら俺一人のために、二人を付き合わせるわけにもいかないな。さて…」

 平二は腕を組むと、首を傾げて黙った。何か言い難そうにしている。

 ネリーナは、平二が真っ先に駅に向かうものと思っていた。することは一つのはずだ。このままロレートへ向えばいい。今からなら、高速鉄道で夕刻までに着けるはずだ。

 「ネリーナ、グレゴリ。二人には悪いんだが、ここでお別れだ」

 「なにっ?」

 グレゴリは大げさに声を上げた。周りにいる観光客らがこちらに目を向ける。ネリーナは全く無反応で、次の言葉を待っているかのように平二を見ている。

 「……ここまで連れ回して申し訳ないが、事情が変わったんだ。二人はここからフィレンツェへ帰ってくれないか? 俺は一人でロレートに行く」

 「ロレートって、俺達の故郷じゃないか。なあ、ネリーナ?」

 グレゴリは嬉しそうにネリーナに言う。

 「ヘイジさん、私はサンジェルマン司教に頼まれているので、あなたと一緒に行きます。大体ロレートに一人で行ってどうするんです? IEAのバックアップは期待できないんです。教会の人たちは、誰もあなたに協力してくれませんよ」

 強く、はっきりと言葉を吐き出すネリーナに、察したグレゴリは口をつぐんだ。

 「サンタ・カーザの神殿には、修道院があります。私はそこにいました。―私が一緒に行けば、皆少なからず協力してくれるでしょう。コールマン神父が来るまでに、その芭尾という魔物を倒すつもりなら、私が一緒に行った方がいいはずです」

 ネリーナは、平二が「来るな」と言うであろうことはなんとなく分かっていた。まだ一緒に過ごして二日目だが、平二という男がわかりはじめている。

 平二は、言われているほど無軌道な人間でない。彼のふざけたような他者への接し方は、常に気持ちをポジティブに保つための、魔物の眼への対処法なのだろう。自分の感情をコントロールする術を持っている。それなりの精神修養も積んでいるだろう。何よりサンジェルマンは、平二を古い友人として快く迎えていた。それが何より平二の人柄を表している。

 「たしかに、ネリーナの言う通りだろうな。でも、芭尾はエクソシストが戦える相手じゃない。」

 「先ほど言った通り、ロレートのサンタ・カーザ神殿には、私がお世話になって人たちがたくさんいます。彼らが心配です。あなたが止めても私は行きます」

 ネリーナは強く言い切った。

 「死ぬぞ」

 「それでも私には、行く理由があります。サンジェルマン司教にも、あなたのことを頼まれました」

 ネリーナは頑として引かない。

 観光客が闊歩する喧騒の中で、イタリア人女性と東洋人が睨み合うように立ち尽くしている。傍目にも奇妙な光景なのか、周囲の人々は二人の様子に振り返る。

 暫く二人は黙っていたが、平二の方から、ゆっくりと口を開いた。

 「……わかった。同行を頼む。だが、俺が逃げろと言ったら逃げてくれ」

 その言葉に、ネリーナが深く頷いた。

 その様子を見たグレゴリが、笑いながらネリーナと平二の背中をバンバンと叩いた。

 「なあ、俺も言われたらちゃんと逃げるから、一緒に行ってもいいだろう、な?」

 「だめだ。ネリーナはエクソシストだが、お前はホテルのオーナーだろう? ネリーナは自分で身を守れるが、お前にはそれができない。俺だってグレゴリまで守ってやれる気がしない。―そもそも事情もよく知らないで、なんで一緒に行く気になるんだ? たった今、ネリーナと俺が死ぬかどうかって話しをしていたのを聞いただろうに」

 呆れた口調で平二が諭す。ネリーナも口を挟もうとするが、グレゴリは両手で耳を塞いで、聞こえないというふうに大きく首を振った。

 「俺だって、サンタ・カーザ神殿の連中はよく知っている。みんな、俺にとっても家族みたいなもんだ。ネリーナがみんなを心配しているなら、俺だって同じだ。それに事情とやらは、ロレートへ行くまでに教えてくれよ。もう行き先がわかっているんだ。来るなといっても勝手に行くさ」

 「……」

 平二は閉口した。ネリーナは呆れた様子で大げさに肩を竦める。

 「さっさと駅に行こうぜ。ヘイジは腹が減っているんだろう、俺がなにか奢ってやろう。ネリーナもそう渋るなよ。な? 俺達はトリオさ、三人でチームだ」

 そう言うとグレゴリは、自分と平二の鞄を持って、観光客の間を縫うように歩いて行った。

 「ヘイジさん、どうします? いっそ、あなたの眼でどうにかしてくれませんか?」

 「もう、アレはやるなと言ってなかったか?」

 「仕方ないでしょう、彼のためです」

 ネリーナは平二の眼を見ながら頷く。冗談ではない、本気で言っているのだ。

 「残念だが、俺達は彼の前で行き先を言ってしまった。グレゴリをここに置き去りにするぐらいは出来るだろうが、自分で後から来てしまうだろうな」

 「催眠術のようなことができないのですか? 記憶を消すとか」

 「言っただろう、この眼はそんなに便利なものじゃないんだ」

 ムィシュコーがしきりに羨ましがっていたはずの眼は、それほど都合のいい力があるわけでないらしい。

 平二の力に期待していたネリーナは、「はあ」と声に出してため息をついた。平二はそれを聞いても、頭の後ろを掻いて苦笑するだけだ。

 広場の外では、グレゴリがタクシーに手をかけて大きく手を振っている。

 「とにかく、ロレートに着くまでに説得しましょう」

 そう言うとネリーナは、憮然としながらもグレゴリに手を振り返した。


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