この地下室に来るまでに、平二が暗闇を躊躇なく歩いていたのを思い出した。平二は天狗という魔物の目を持っているから、暗闇でも通路の瓦礫が見えていたのだろう。だとすると、目の前にいるムィシュコーも、何かしら特異な力を持っているのだろうか。

 「ヴォロシェンコ神父、あなたも何かしらの力を…」

 ネリーナの問いかけを遮るようにムィシュコーは話し始めた。

 「どうか私をそのように呼ばないでくれ。私は呪われた存在なんだ。聖職者ではあるが、この地下墓地と資料庫の管理人でいることが性に合っている。ムィシュコーでいい、ファーストネームで呼んでくれ」

 そう言うとムィシュコーは、改めてネリーナに向き直った

 「―私は勿体ぶるのが嫌いでね。だから、君の疑問に思っているだろうことに答えておこう。私はバンパイアだ」

 突然の告白で言葉を失ったネリーナをよそに、ムィシュコーが続ける。

 「私は、ウクライナ出身で、ルーマニアとの国境に近い、小さな村にある教会の神父だった。ちょうど十九世紀の終わりごろだ。村がバンパイアの一群に襲われて、聖職者であった私まで血を吸われた。村人の殆どは死に、何人かはバンパイアになった。―バンパイアに噛まれた者が全てバンパイアになるわけじゃないだ。初めは全身の血が沸騰するような、猛烈な不快感に襲われる。それから体が硬直して目も閉じられず、言いようのない餓えと喉の渇きが何日も続くんだ。その永遠に続くかと思えるような苦しみを耐え抜いた者がバンパイアとして生まれ変わる。―私は教会の床に倒れて、自分に死が訪れるのを待った。バンパイアになって欲望のままに生きることなど、到底受け入れられるものではない。だから私は死ねればそれでよし、生き残ってしまったら自ら命を絶とうと心に決めて、数日間苦しみ続けた。それなのに、あのヘイジに邪魔されて、死ぬことも叶わずに生き永らえてしまったんだ」

 そこまで聞いて、ネリーナは自分がさほど驚いてもいないことに気づいた。むしろムィシュコーの話を平然と受け入れている自分に驚きを感じている。この二日間で、魔物の目を持つ東洋人や具現化した悪魔に出会ったら、バンパイアなど珍しいものにも思えなくなったのだろうか。

 それより、ムィシュコーが百年前に平二に助けられたというのは、どう理解すれば良いのか。サンジェルマンだけでなく、目の前のムィシュコーまでもが、百年も前のことを当たり前に経験したこととして話している。そして、いずれも平二が出てくるのだ。

 「ムィシュコーさん、それはとても辛いお話です。なんと言っていいのかわかりませんが…」

 「アアン、慰めるようなことは言ってくれるな。私はバンパイアになって以来、一度も人に噛み付いたこともないし、血を吸ったこともない。バンパイアというのは、血を吸って腹を満たすのは知っているだろう? だが私は、どれだけ飢えても血を吸ったことはないんだ。そりゃ苦しいが元から不死身の体だ。何も食わなくても死ぬことはない。だから安心してくれ。あんたの首に噛み付いたりせんから」

 そう言うとムィシュコーは、机の上にあったワイングラスを手にとった。

 「このワインの味も香りもわかるのだが、飲んでも、ちっともうまくない。人間でいた頃のように、うまいと思えんのだ」

 そう言うとムィシュコーは、グラスに口を付けずにそのまま置いた。

 「唯一わかるのは煙草だな。人間でいた頃は吸ったことがないのだが、不思議とあれの香りは楽しめる。だから平二は、ここに来る時に香りの強い黒煙草を買ってきてくれるんだ。上の奴らに頼んでも、煙草なんて碌に吸ったこともない世間知らずばかりでな。雑草を巻いたような、臭いも癖もないアメリカの煙草を買ってきやがる。―ああ、失敬。そういえばまだ、平二から煙草をもらっていなかった」

 確か平二は、ローマ駅の売店で煙草をカートンで買っていたはずだ。

 「ええ今朝、一カートン買っていましたよ。そこにある鞄に入っていると思います」

 ネリーナは床に無造作においてあった、平二のボストンバッグに目をやった。ムィシュコーは無言で立ち上がって、鞄に手を掛ける。「あっ」と言って制止しようかと戸惑っているネリーナに構わず、勝手に鞄を開けて煙草のカートンを取り出した。

 「なあに、平二は奥で私のコレクションを物色中だ。長い付き合いだからな。お互い遠慮はない」

 ムィシュコーは手早くカートンを開けて、中から煙草の小箱を取り出した。

 箱にはバイキングの兜が描かれている。箱を覆ったフィルムを手早く取って、中から紙巻たばこを一本取り出した。なんともいえない甘さと苦さの混じった芳香が漂ってくる。

 ムィシュコーは、懐から金色に輝く円筒形のライターを取り出した。それで火をつけると、濃厚な香りが煙とともに、二人の周りで渦を巻く。

 ムィシュコーは椅子に浅く腰掛けて、煙草の香りを愛おしそうに味わっている。何度か煙を吐き出すと、恍惚な表情を浮かべた。

 死者が眠る場所よりも深い地下の資料庫で、たった一人飲まず食わず、本を読み続ける老人の唯一の楽しみが煙草だ。バンパイアである彼が血を吸う以外に見出した唯一の快楽なのだ。煙草を吸わないネリーナにとっては、煙と鼻の奥のほうに詰まるような重たい臭いに巻かれて、迷惑この上ないのだが。

 ネリーナは、煙草を吸い始めてから一言も喋らずにいるムィシュコーに尋ねた。

 「あの…ムィシュコーさん、お尋ねしたいことが―」

 ムィシュコーは無言のまま頷いて応じる。

 「率直に訊きます。ヘイジさんは一体、何歳なのですか?」

 「なんだ、ネリーナはまだヘイジのことをよく知らないらしいな。ミッシェルが使いにやるぐらいだから、てっきり知っているかと思っていたのだが」

 「…ええ、なぜ私のような若輩に、ヘイジさんの付き添いを命じたのかわかりませんけど」

 「まあそう自分を卑下するな。ミシェルは意味のない事をする男じゃない」

 ムィシュコーはそう言うと、椅子に深く座りなおした。煙草の灰が長くなって膝に落ちる。気にする事なく手で払うと、砕けた灰が床に舞い散った。

 「さっきの質問だがね、―ヘイジはああ見えて、私よりも年上なんだ」

 ネリーナが「はあ?」と思わず声を上げると、ムィシュコーは嬉しそうに笑った。

 「私がバンパイアだと聞いても驚かないのに、まったく。正確な彼の年齢は知らんよ。私も百歳を過ぎた頃から数えるのをやめたんだ。―初代IEA協会長であるミケーレ・ラブティがヘイジに出会ったのが、一八六六年だったと思う。その頃から平二はあの見掛けであったはずだから、まあおおよそ百七十歳ぐらいじゃないだろうか。なんでも、あの眼のおかげで肉体的に衰えがないらしい」

 予想していた通りの答えが返ってきたにも関わらず、やはり信じられない。

 「あの……、ミケーレ・ラブティ神父のほうは一体…?」

 「ああ、あの人はもう少し複雑だぞ。彼も今年で百八十歳ぐらいのはずだ。なんでも、日本で出会った精霊に命をもらったのだそうだ。平二と違って、彼は年を追うごとに肉体は衰える、しかし、常人のそれとは比較にならないほど遅い。―彼はロレートの出身でね、十五年ほど前にあの町に戻ったんだ。余生は故郷で過ごしたいと言ってね」

 それにしても、にわかに信じがたい幾つもの不可思議な事実に直面して、頭の整理が付かない。百年以上前にIEAを創設した人物は存命で、齢百八十の彼はネリーナの故郷であるロレートにいる。魔物の眼を持つストランデットの平二は百七十歳だ。目の前にいるムィシュコーはバンパイアで、百年もこの地下室で悪魔に関する文献を読み解いている。

 「ムィシュコー、私はもしかしたら何か勘違いをしているのでしょうか? ヘイジさんは私と同い年ぐらいの見かけですし、それに…」

 「ネリーナ、君はフィレンツェで悪魔を見ただろう? 知性を持った霊的存在が、我々に影響を及ぼしうることを君は学んできた。そして昨日、君はそれを自分の目で見たはずだ。悪魔の存在がある事実に比べたら、私が話したことなど大して不思議ではないだろうに。―実は、いま話したことはIEAでも、一部の人間しか知らん。君に話したのは、ミッシェルから君の知りたいことには全て答えるよう言われたからだ」

 「サンジェルマン司教が?」

 「そうだ、キリスト教は中世の魔女狩りのような暗黒時代を経験してから、エクソシズムのようなオカルティシズム的儀式を否定してしまった。聖書に記述されている秘蹟であるというのに。科学的な合理性を尊重し、不確かな事象に理由を求めるようになった。そうした傾向はもう数百年も続いていて、信仰の形も昔と今では大きく変わってきてしまっている。だからミシェルは、ミケーレやヘイジのような者のことを、信頼のおける者にしか話さないんだ」

 自分はそこまで信頼される程、サンジェルマンとは付き合いがない。長く話をしたのも、今日が初めてのはずだ。なぜサンジェルマンがそこまで自分に入れ込むのか、思い当たる節がない。

 「私は君たちがバドロルシススと相対したことを聞いて、小躍りするほど喜んだんだ。昨今、悪魔に取り憑かれたとエクソシズムを求める人間は年間で何十万人といる。しかし実際に悪魔を見たとか、ましてや襲われたなんて話はほとんどない。ここにある文献には、鳥の羽が生えたライオンの尻尾が蛇になって襲ってきた、なんてことが山ほどあるというのに。近代になって我々がオカルティシズムを否定するようになってから、そうした悪魔の存在を肯定する現象が全くといっていいほどなくなった。するとどうだ、IEAの中にでさえ悪魔など人の罪悪感の象徴のようなもので、禍々しい姿形は昔の人間の空想の産物だと言いだす者が現れる始末だ」

 ムィシュコーは、話しているうちに火が消えた手元の吸殻を床に落とすと、新しい煙草に火をつけた。一口煙を大きく吸って、ゆっくりと吐き出していく。

 「私はね、ネリーナ、こうした風潮は悪魔が長い時間をかけて、人間に仕掛けてきている罠だと思うんだ。我々は神と、そして天使や精霊の存在を信じる。だがそれと同時に、悪魔や悪霊が存在することも信じなくてはいけない。なのに悪魔に関することは、いつのまにか都市伝説のようになってしまった。この状況で、ヘイジやミケーレのような者がいることを話しても、誰も信じてはくれないだろうな」

 ネリーナは、先程のサンジェルマンの部屋でのことを思った。悪魔が仕掛けている罠だとすれば、我々はまんまとその罠に嵌っているのだろうか。現にIEAという世界で唯一の悪魔に対抗する機関がなくなりつつある。

 ムィシュコーは、ゲフンゲフンと咽るように咳払いしながら、机の上にあった本の山をかき分けると、写真立てを一つ取り出した。そこには色褪せた写真が一枚収まっている。司祭服を着た男性が二人と黒いコートの男性が並んで写っている。コートを着ているのは平二だ。

 「ヨハネ・パウロ二世が即位した時の式典で撮った写真だ。一番左が私で、その隣がミケーレ・ラブティ神父、そして右端がヘイジだ」

 ヨハネ・パウロ二世が教皇に即位したのは、今から三十年以上も前だ。ムィシュコーの見かけも変わらないが、今のような長髪でなく、髪が短く切りそろえられている。ラブティ神父は猫背気味で、黒縁の眼鏡をかけている。顔は皺が濃いものの、色艶はいい。せいぜい七十歳程度としか思えない。平二に至っては、今と全く変わらない。着ている服まで今と同じだ。

 「その時は、ヘイジに無理やり連れ出されたんだ。髪を刈られるは、服は着替えさせられるはで、随分忙しい一日だった。―ああ、あの頃はまだ良かったんだ。ヘイジも足繁くバチカンへ来たし、引退したミケーレも、忍んで顔を出したものだ」

 ネリーナが写真立てを返すと、ムィシュコーは愛おしそうに写真を撫でた。

 「ネリーナはたしか―ここではコールマン神父にしばらく師事していたのだったか、彼は随分と生真面目な男だろう?」

 先程の出来事が思い返される。咄嗟に平二を庇ったことで、コールマンに睨み付けられたばかりだ。あの眼を思い出すたびに、後悔の念が湧き上ってくる。ネリーナは落ち込んだ感情を悟られないように、わざと明るく「はい」と返事をした。

 「コールマン神父は真面目な男だ。聖書の記述を重んじて、忠実に従うことを是としている。だが私に言わせれば、聖書の理解は百人百様で、どれが正しいかなんて、人それぞれ違うものだ。彼は、ストランデットをエクソシズムに介入させることに強く反対していた。それはコールマンが聖書を理解して得た答えだ。その点に関しては彼を支持する者が多くて、ミシェルは孤立無援の状態だがね」

 ムィシュコーの持った二本目の煙草はすでに火が消えて、灰は膝の上に落ちていた。それを気に留めるでもなく、ムィシュコーは写真に目を落としている。

 IEAには、コールマンを信奉する者も多い。彼はアメリカの神学校を経て、このローマのバチカンへ来た。若い頃から才能あるエクソシストであったから、活躍も目覚ましかった。彼によって取り憑いた悪魔から解放された者は千人近いとも言われている。彼を頼って世界中から悪魔に取り憑かれたという人が集まってきた。バチカンでも評価は高く、彼の元に集い、師事を願い出るものは後を絶たない。ネリーナもIEAに来ることが決まった時は、まっ先にコールマンの元へ駆けつけたのだ。

 「コールマン神父は間違っているということでしょうか? ―確かに、最近は強硬な姿勢になられてはいますが…。でも、あの方の言うことは間違っていないと思います。ですが、サンジェルマン司教の言うことも間違っているとは思えないのです」

 「だから言っただろう、そんなものは人それぞれだと。読んでいるものは一緒なのだから、行き着く先は皆同じだ。ただ、それぞれ通る道が違う。―だが煙草選びに関しては、異教徒のヘイジだけが正しい。なあ、そうだろう?」

 ムィシュコーは、ネリーナ越しに暗闇に向けて声をかけた。振り向くと、人影がゆっくりと近づいてくる。薄暗い中で黒い皮のコートに身を包んだ平二は、その右手に真っ白い布らしきものを下げている。

 「なんだ、俺の話か?」

 「ああ、お前が年齢の割に老けて見えると言う話をしていた」

 平二は肩をすくめると、ネリーナに向かって言った

 「ムィシュコーに噛まれなかったか? 彼は暫く人に会っていないから、相当に飢えているはずだ」

 「そうだ。お前のような魅力に乏しい異教徒しか、この穴蔵にはやって来ないからな」

 ムィシュコーはそう言うと、(むせ)るように笑い声を響かせた。それに釣られて平二も笑顔を浮かべる。

 平二は机の上にあった煙草の箱を拾い上げると、一本取り出して口に咥えた。するとムィシュコーがライターを差し出して、平二の煙草に火をつける。先程ムィシュコーが言った通り、勝手に鞄から煙草が出ていることを、平二は気にも留めていないようだ。

 「おいヘイジ、今回は随分なものを持っていくじゃないか。それは、私のコレクションのなかでも一級品だぞ」

 「強い悪魔を相手にするんだ、これぐらいは必要だろう?」

 「それにしては、見返りが煙草のカートン一個というのが解せん。ずいぶん安い買い物じゃないか」

 そう言うと、ムィシュコーは平二の手から白い布を奪った。広がったそれは、白い司祭用の儀礼服だ。真っ白な生地は真新しい見かけで、染み一つない。

 聖遺物にしては新しすぎるそれを見て、ネリーナが訊いた。

 「これは、最近もののようですが…」

 「ああ、これは三代前の教皇、ヨハネ・パウロ一世が身につけていたものだ。とても慈愛にあふれた方だった。短い在位ではあったがね…」

 平二も隣で聞きながら、訳知り顔でウンウンと頷いている。

 「それで、なぜこれが我々の目の前にあるのですか?」

 確かにこれは、本来なら宝物庫にあって然るべきものだ。訊かれたムィシュコーは押し黙ったまま腕を組んで平二に目配せをするが、平二も目を合わそうとしないばかりか、ばつが悪そうにそっぽを向いている。

 「まさか―」とネリーナが言いかけたところで、ムィシュコーが口を開く。

 「いや、決して盗むような真似をしたわけではないぞ。これはだな、偶然ここに来た」

 「はい?」ネリーナが訝しんだ様子で二人を交互に見る。

 「いいかね、聖遺物というものには偽物が多く存在する。卑しい目的で作られた捏造品が数多くあってね、本来なら世界で一つしかない物が数百も存在するような事態だ。だからバチカンの真贋鑑定で出た偽物は、私が引き取ってコレクションしているというわけだ」

 「でも、これは本物なのでしょう? 偽造品なら、ヘイジさんが持ち出すわけないじゃないですか」

 食い下がるネリーナに平二が言った

 「彼の言っているのは本当のことだ。ムィシュコーは偽物の聖遺物をコレクションしている。無駄な知識だけじゃなく、無駄な物まで溜め込んでいるわけだ。例えば―『聖なる包皮』って知ってるだろ。あれは近代まで世界中に何百も存在していたんだ、持ち主のモノは一本だというのに…」

 「無駄というのは心外だな。私の知識を頼ってここまで来たくせに。―それとまた、お前が余計なことを言うからネリーナが怒っているぞ。言葉には気をつけろ」

 ムィシュコーはにやけた顔で言う。確かにネリーナは不機嫌そうな表情に浮かべながら、平二を()めつけている。

 「そういった神聖なことを茶化さないでください。我々キリスト教徒にとっては、大事なことなのですから」

 「わかった、気をつけるよ―まあ、とにかくだ、今世界にある『聖なる包皮』の九割はムィシュコーの手元にある。この奥の暗がりには、誰から切り取ったかもわからない皮の切れっ端が山のように貯めこんであるんだ」

 中世のヨーロッパでは聖遺物ブームが巻き起こった。イエス・キリストにまつわる品をはじめ、キリスト教史に残る聖人が身につけた品や聖人の遺体の一部も聖遺物として珍重される。より貴重なものを所有することは教会の格を高め、より多くの巡礼者を集めることができる。信者にそれを見せ、触れさせることで布施を募ることができるのだ。しかし聖遺物はそうそう数がない。そこで多くの偽物が出回り、出来の良い物は高値で取引された。

 『聖なる包皮』は、割礼で切り取られたイエスの包皮を指す。干からびた人皮の破片を華美な装飾の箱に納めるだけでよく、真贋の見分けがつきにくかったこのアイテムは、特に多く偽物が出回った。

 「しかしだ、そうした偽物の中に高位聖職者の―多分イエスと同時代の聖人のものが入っていたりするんだ。稀に、強い霊力を持った掘り出し物がある。そういうのを、俺が拝借しているというわけだ」

 「でも、ほんとにそれが貴重な聖遺物なら、なんで偽物と一緒にしておくのです? それこそ聖人の持ち物なのであれば、それはカソリック、いや、キリスト教徒全てにとっての宝じゃないですか? わかっていながら返さないのはなぜなのです?」

 これではまるで、貴重な品をムィシュコーが横流ししているようなものだ。ましてや平二はキリスト教徒ではない。コールマンが知れば、ただでは済むまい。問い詰めるネリーナに、ムィシュコーが答えた。

 「ネリーナ、聖遺物の鑑定はバチカンの列聖省で行われるのは知っているだろう?」

 ネリーナは頷いた。

 「あそこでは科学的調査を含めた、ありとあらゆる視点から聖遺物の真贋鑑定を行うんだ。しかしながら、ヘイジのように物質に宿る霊的な素養までは見分けることができない―いや、できるのだが正確性に欠ける。いいかね、彼らが一度偽造品であると鑑定した結果は、絶対に覆らない。当然だ、カソリック教会の最高峰にある組織が偽物と認定したのだから。ましてや私やストランデットの言うことなど、上の連中は聞く耳もたんよ」

 ムィシュコーは、天井を指さしながら言った。

 「ともすれば、貴重な聖遺物がごみの扱いを受けて焼かれてしまう。そうした悲劇を避けるために、私は貴重な資料庫の一部を偽造品の保管所として提供しているんだ。そしてヘイジがバチカンに来た折に、偽造品の再鑑定をしてもらっている。私もバンパイアになってからは、霊的なことにはすこぶる敏感になったのだが、ヘイジには敵わないからな。彼は宗派に関わらず見ることができる、非常に稀有な存在だ。―ちなみにそのヨハネ・パウロ一世の司祭服は、彼の遺品が宝物庫行きになる時にここにやってきた。真新しいものだからクリーニング屋が間違えでもしたのだろう」

 ネリーナは先ほどの司祭服を手に取り、ムィシュコーに向けて言った。

 「この司祭服は貸し出すだけですよね、またここに返ってくるのでしょう?」

 「貴重な品だ、当然返してもらうさ。それにまだポケットの中にも入ってるのだろう? 煙草のカートン一個でそれ全部をくれてやるほど、私は気前が良くはない」

 ムィシュコーはそう言って平二に目配せをする。賃貸料のかさ増しを要求しているのだ。

 「今回は緊急事態でさ、取り急ぎそれだけ買ってきた。この件が片付いたら,ハバナ産のシガー(葉巻)を鞄に入るだけ持ってくる」

 「その、君が持っている鞄にかい? それなら十分すぎるぐらいだが」

 「ああ、だから追加でルルドの泉の水を十リットル程,ロレートに送ってくれ」

 「なぜミシェルに頼まない? 彼に言えば無料(タダ)なのに…」

 「あいつはそれどころじゃないから。俺のロレート行きを誤魔化すのに奔走しているはずだ。それに表のルートではコールマンたちに邪魔される。だから裏のルートに頼んでいるんだ」

 平二は既に火が消えた煙草のフィルターを床に落として踏みつけた。

 「それを言うなら地下のルートだろう。わかった手配しよう。受け取りはロレートのサンタ・カーザ教会堂で」

 「恩に着る」

 「シガーを忘れるな、それと最近お前が来ないから、未鑑定の偽造品が溜まってしまっている」

 「わかった」

 ムィシュコーは少しだけ体を前のめりにして、平二の方に近づいて言った。

 「なあヘイジ、芭尾を倒してここに戻ってくるんだ。奴さえ殺せばそれでいいなんて思うなよ。あの映像の男の正体が知れるまでは、慎重にやるんだ。―絶対に侮るな」

 「わかっている」

 「それにまだお前には、私を元の人間に戻す方法を見つけるという大役がある。覚えているだろう、お前がその方法をいつか見つけると言ったから、私はこの不確実な生を長らく受け入れてきた。まだ待っているんだ。だからちゃんと帰ってきてくれ」

 「……」

 平二は無言で頷いたきり、黙ってしまった。

 「それと、その司祭服を返しにこないと、またネリーナが怒る」

 ムィシュコーは、顎でネリーナの持つ司祭服を示しながら、おどけた口調で言った。

 平二はムィシュコーに笑顔を返すと、ゆっくりと立ち上がった。

 「そろそろ行くよ。―ワインをごちそうさま」

 結局、机に置かれていたワインのグラスには三人とも手をつけていない。

 「ああ、もう行ってしまうのか?」

 ムィシュコーが名残惜しそうに言った。

 「俺も、もう随分待った。ムィシュコー、お前と出会う前から芭尾を追ってきて、やっと奴に繋がる情報を掴んだんだ。あいつだけは、他の誰にも手出しをさせない。誰よりも先に見つけて、俺が殺す」

 それは異を唱える隙のない、力強い物言いだった。

 平二は立ち上がると、「じゃあ」と短い別れの言葉をムィシュコーに投げかけた。同じく礼を言って立ち上がったネリーナを,ムィシュコーが呼び止める。

 「ネリーナ・モランディ、君にこれを差し上げようか」

 そう言ってムィシュコーは、先ほどまで使っていたライターを差し出した。

 ネリーナはライターを差し出すムィシュコーに「はぁ」と気のない返事を返す。煙草を吸わない自分がもらっても意味のない代物だ。

 「君は,バチカンの地下に住まうバンパイアが差し出す物が、ただのライターだと思うのか?―これはだな、ドラゴン・ブレスだ」

 何を言っているのかわからないと言う風にネリーナは首を傾げる。

 「この中に竜の吐いた炎が詰まっている。製法は知らんが良くできた品だ。イギリスのスコットランドの方に、こんなのばかり作っている奴らがいてな。―こんな地下にあってもライター代わりにしか使わんから君にやろう」

 金色の円筒が、ムィシュコーの手の上で光っている。ネリーナは、どうしようという様子で平二を見た。

 「ありがたくもらっとけ。結構使えるぞ。一度火がつくと、なかなか消えないんだ」

 平二が頷くのを見て、その円筒を受け取ったネリーナは、改めてムィシュコーに礼を言った。

 先程入ってきた扉の前まで来ると、二人は扉を開いて振り向いた。ムィシュコーは立ち上がって見つめている。二人がもう一度別れを言うと、手を上げて返した。

 ムィシュコーはもう何度も同じ場所に立ってヘイジを見送ってきた。ミケーレがいた頃は、ヘイジとここに来て、三人でずっと語り合ったものだ。

 平二達が扉を閉めると、いつもの静けさがムィシュコーを包みこむ。地下深いこの部屋には、ネズミが走る足音以外に聞こえる音がない。ここは地下墓地の奥にある、悪魔の本を集めた資料庫だ。ここに人がいること自体、知っている者はほとんどいない。きっと平二がいなくなったら、もうこの地下室を訪ねてくる者は無いだろう。自分はこの本に埋もれた大きな棺桶の中で、いつか死ぬことができるのだろうか。友と語らう楽しみをなくして、食べず、飲まず、たまに手に入る香りのない煙草を咥えながら生きていくのは辛かろう。

 薄い紅色の双眸で本を見下ろしながら、ワインのグラスに手をかけた。喉を通る濃紫の液体は華やかな果実の芳香を湛えているはずなのに、まるで機械油を飲んでいるかのような不快感しか味わえない。口に含んだワインを床へ吐き出すと、袖で口元を乱暴に拭う。平二が来てワインを開ける度に、もしかしたらと味わってみるが、味覚は相変わらずだ。

 ムィシュコーは、古い友人と若い後輩のために祈ろうと胸前で十字を切りかけてやめた。きっと平二は、自分の祈りでは救われない。自ら災厄に向かう友人のために自分ができることは、彼が必要とする物を用意することだ。

 ムィシュコーは部屋の電気のスイッチを下ろすと、真っ暗になった部屋で椅子に座る。 ここにある資料から、バドロルシススに対抗する術が見つかるかもしれない。自分が見落とした情報がまだあるかもしれない。悪魔に関する資料は山ほどあるのだ。今一度、資料に目を通すぐらいはできる。

 机の本に手を伸ばすと、ムィシュコーは暗闇の中でページをめくり始めた。


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