※

 ネリーナは平二に追いつくよう、足早に歩を進めた。

 斜め後ろに追いついたネリーナに対して、平二が声をかける。

 「ミシェル…いや、サンジェルマン司教に何を言われた?」

 振り向いた平二の顔は、初めて会った時と同じ、厳しさのない平静な表情だった。サンジェルマンの部屋で見せた、殺気だった怒りの表情がまるで嘘のようだ。天狗の目を持つ彼は、一度感情のバランスを崩すと『悪いもの』を所構わず噴出させる。長い修行を経て自分をコントロールする術を得たのだろう、辛辣な言葉にも動じずに冗談で返す彼は、そうした態度を自分に強いてきたのだ。平二が持つ事情を理解したネリーナは、これまでの言動と態度を心底後悔した。

 「ええ…、あなたを蹴飛ばしても良いと言われました」

 「なんだ、それは」

 平二は破顔しながら、声を上げて笑った。ひとしきり笑った後で、ネリーナに振り返った。

 「あの掛け軸のことだが、あれは俺が日本に持って帰って、除霊してもらってくる。そうでもないと、またトラブルになりかねないからな」

 上司であるサンジェルマンが咎めなかったのだから、文句を言っても仕方がない。ネリーナは平二の言葉に頷いた。

 「でも、そんなにこの掛け軸の霊障は酷いのですか?」

 「…いや、正直厄介ではあるが、大したものではないな」

 言いにくそうに答える平二は、視線を逸らして頭を掻いた。

 「その、ヘイジさんの言っていた…事情みたいなことを教えてくれませんか? 後学のためにも…」

 「言いづらいことなんだがな、そんなに知りたいか?」

 「はい」と答えたネリーナに、平二は躊躇しながらも話し始めた。

 「掛け軸に付いていた染みは…あれは男性の、いわゆるその……精液だ」

 「は?」

 「絵に執着した僧侶の霊がこの掛け軸に付いている。精液はその僧侶のものだ。僧侶ってのは禁欲を強いられる職業だからな。こんなものでも、その…欲情する対象になったんだろう。それでさ、こう、自分がいろいろして、その、汚したのが見られると、恥ずかしい訳だ…わかるだろ?」

 同意を求められたネリーナも、どう答えていいかよくわからない。とりあえず「ええ」と相槌を打つが、それ以上返す言葉がない。

 「まあ、そんなこと詳しく記録に残すこともあるまい。憑いている当人だって嫌だろうしな」

 返答に困ったネリーナの様子を悟ったか、平二も話を早々に締めくくった。

 ストランデットと呼ばれる者たちは、物理的に霊や悪魔を攻撃する。方法は様々だが、そのやりように慈悲や情けはない。言い換えればそれは暴力であり、ともすれば残虐でさえある。ストランデットが忌み嫌われるのは、そうした理由もあるのだ。

 少なくともネリーナはそう聞き知ってきたし、そのように理解していた。しかしこの目の前にいる平二は違うらしい。少なくとも、絵に取り憑いた霊の心情にまで気を揉んでいる。それはネリーナにしてみても、過剰とも思える配慮だ。

 「さっきは…その、すまなかった」

 再び口を開いた平二は、ばつが悪そうに後頭部を掻いた。

 「…何がですか?」

 「コールマンのことだ」

 「……」

 ネリーナは平二の言葉に無言で頷く。思わず平二を庇ったが、なぜそうしたのか自分でもわからない。成り行きでああなったのだ。

 「咄嗟にあなたを庇ってしまいました。なぜでしょうかね」

 そう言って、ネリーナは俯いてしまった。その横顔からは後悔の念がありありと見える。

 「浮かない顔だな。俺のせいで本当にすまない」

 「いえ、いいのです」

 ネリーナは、先ほどの自分を見るコールマンの目を思い出した。何もかも見透かされたような、冷淡で鋭い視線。あの場を取り繕うためとはいえ、出会って数日の平二を庇うために、1年以上も世話になったコールマンを裏切るような真似をしてしまった。先程から、あの視線を思い出しては、何度も後悔と懺悔を心のなかで反芻しているのだ。

 コールマンはIEAにおけるストランデットカソリック信徒でない協力者の存在を、常日頃から否定していた。それは決して人種差別や無理解からではない。キリスト教は、そもそも他宗教を否定し、異教徒を改宗させることで勢力を拡大してきた。その歴史的経緯は明らかで、コールマンのように考える者のがいて当然なのだ。むしろそれは、バチカンにおいても多数派で、IEAにおける彼は、そう考える者の先頭にいる存在だ。

 しかし先程のサンジェルマンの話の通りなら、コールマンのような考えを持つ者が増えていくことで、IEAの存続が危うくなっているのかもしれない。すでに聖秘跡省という新たな受け皿まで存在していること自体、そうした動きがある証だ。

 「ネリーナが、電車で話していたアメリカ人の神父って、コールマンのことだったのか」

 「ええ。あの方は若い頃にイタリアに来てから、ずいぶん長くエクソシストとして活動されています。ここであの方を知らない者はいません。非常に厳格­弟子にも自分にも厳しい方です。とても慈愛に満ちた方でもあります」

 平二は、コールマンの岩のように凹凸で面長な顔を思い出した。厳格はいいが、慈愛というのは似合わない気がする。

 「ところで聖秘跡省とかいうのには、ネリーナは行かないのか?」

 「聖秘跡省は、できてまだ日が浅いです。それに非常に実験的な試みなんです。それまで典礼秘跡省が受け持っていた『儀式を監督する』仕事を、特にエクソシズムに的を絞って行なっていく省ですから。最近非常に多くなった真似事だけの悪魔祓いや、対価を受けてエクソシズムを行う行為などを取り締まるのです。あそこの主要なメンバーは、精鋭で固められています。経験の浅い私では、足手まといになるだけでしょうね」

 「なら、IEAはどうなる?」

 「元々は、IEAを教皇庁内の省組織に昇格させる予定でした。ですが反対もあって、新たな省を発足させる計画に変更になったのだそうです。―このままなら、いずれはIEAが聖秘跡省に取り込まれるのではと思います」

 「……」

 「昨日まで…、いえ、あなたに会うまでは、それで良いのだと思っていました。でも正直言うと、今はそれが正しいのか疑問を感じています。その、ストランデットという呼び名に、サンジェルマン司教は忌みを感じていました。―私もそうです。今は、あなたをそう呼びたくない」

 平二は「そうか」と言って返すと、また頭を掻いた。

 「それより、ネリーナもロレートの出身なんだろ」

 「ええ、ロレートの修道院で学びました。―十歳の頃に修道女になったんです」

 「ふうん、それはめずらしいな」

 男性が若いうちから親元を離れて修道士になることは多い。修道士を経て試験に通れば、司祭という地位を得ることができる。しかし、女性の場合は修道女以上がない。教義上、カソリックは女性司祭の地位を許していないからだ。そうしたこともあって、近年では、若いうちから修道女になるケースはあまり一般的ではない。

 「私は両親を事故で亡くしています。身を寄せる親類縁者もなく、故郷であるロレートの修道院へ引き取られたのです。それで…私は修道女から、IEAのエクソシストになりました。ちなみに、グレゴリもそこの修道士だったんです。彼は数年でやめてしまいましたけど」

 そこまで話して、ネリーナは微笑んだ。睨まれるばかりで気が付かなかったが、ネリーナの笑った顔は魅力的だ。これほど美人であれば、エクソシストでなくても、別にもっといい仕事があるだろうに。

 平二が不謹慎な考えを巡らせていると、ネリーナが意を決したように口を開いた。

 「ヘイジさん、あの、聞いてもいいですか?」

 ネリーナは、先程から疑問に思っていたことを、平二に訊ねた。

 「あの芭尾という魔物と、なにか深い事情があるのでしょう? ―もし差し支えなければ教えてもらえないでしょうか?」

 並んで歩くネリーナに、平二が答えた。

 「……芭尾というのは、妖狐だ。アジアの方には狐の化け物がいるのを知っているか?」

 「ええ、聞いたことがある程度ですが」

 「そいつをミケーレと俺の二人で長年に渡って追ってきたんだ。ミケーレは途中でギブアップしちまったがね。寄る年波には勝てないってことだ」

 「ヘイジさん、そこまで芭尾に対して感情的になるのは、何か深い因縁でも…」

 言いかけたネリーナの言葉を遮ぎるように、平二は振り向いて言った。

 「まあ、聞いてもあまり面白い話じゃない。また機会があったら話すよ」

 そっけなく言った平二の様子で察したか、興味本位で質問したことをネリーナは悔いた、他人が立ち入っていい話題ではないのだろう。

 それきり黙った平二の後に続いて、ネリーナも黙ったままで付いて行く

 IEAのある建物はさほど大きくないはずなのだが、先程から平二は廊下をまっすぐに歩いている。一度も曲がっていないので、もうとっくに建物の反対側に突き当たってもおかしくないはずだ。

 そう思い始めた矢先、無機質な長い廊下の奥に、質素な木製の両扉が見えてきた。扉の中央には古めかしい鉄製の錠前がある。しかしよく見るとそれには鍵穴がない。平二がそれを持って左右に引くと、錠前の(かんぬき)がガチャリと音を立てて外れた。

 扉を開くと、中には広めの空間が広がっていた。部屋には窓がないのか、唯一の明かりは開いた扉から入る光だけだ。殺風景な何もない部屋だが、なぜか中央には円形に石畳が敷き詰められており、その中央に四角い鉄格子が嵌っている。

 平二が、身を屈めて鉄格子の一端を掴んだ。鉄格子はギィーっと錆びた音を響かせて持ち上がっていく。

 「ネリーナ、行くぞ」

 「…ヘイジさん、そこは一体…」

 「ここは特別資料庫への入り口だ。正確には地下にある資料庫に行くまでに、地下墓地の中を通って行くんだが」

 平二は鉄格子を開ききると、穴の中へ身を滑りこませた。どうやら穴の中には階段があるらしく、平二の体がテンポよく穴の中に潜り込んでいく。

 バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の地下には、歴代の教皇をはじめ高位聖職者の遺骸を安置する、カタコンベと呼ばれる地下墓地が存在する。元々はローマ時代に迫害を受けたキリスト教徒達が隠れるために掘った地下洞穴が、時代を経て地下墓地となった。今でもバチカンを中心としたローマの至る所に、このカタコンベがある。古い時代の聖職者や権力者の遺骸が、地下に掘った洞穴内で横たわるように安置されているのだ。

 しかしネリーナは、IEAの直下に地下墓地が存在するなど聞いたことがない。ここバチカンで発見された地下墓地は、その殆どが調査済みのはずだ。

 穴から首だけ出した平二が、戸惑うネリーナに「来ないのか?」と声をかけた。

 ネリーナは足早に穴に近づいて覗き込む。どんどん先へ進んでいく平二を追って、穴の中へ滑り込んだ。

 石造りの階段を下りてい行くと、人ひとりがやっと通れる程度の幅しかない通路が続いている。天井には電気のコードが延びていて、十メートル程度の間隔をおいて、裸電球がぶら下がっている。

 通路を進み、何度か階段を下ると、足元に岩が転がるようになってきた。天井から下がっている電球も所々切れていて、目を凝らさなければ足元が見えなくなってきた。ネリーナは何度か石に躓きながら、平二の後を追う。

 バチカンの地下にあるカタコンベのほとんどが調査済みで、安置された遺体で古いものは一世紀のものもある。キリストの死後、信者を迫害したローマ皇帝ネロは、多くのキリスト教徒を処刑した。そうした遺体がバチカンの地下に埋葬されていて、ごく最近までその存在は公には知らされていなかったのだ。

 近年になって、学術目的で外部の人間の立ち入りが許されるようになった。それに従ってローマにある地下墓地は、崩れやすい部分は補強されるなどして、保存に向けた整備が進んでいる。

 しかし、今いるこの地下墓地は、電灯がある以外は片付けられた様子もない。壁は崩れたままで、岩が通路の真ん中に転がっている。

 ひとしきり暗い場所に差し掛かったとき、ネリーナは大きな岩に脛を打った。思わず苦悶の声を上げて、壁に手を着こうと伸ばす。すると、腕が暗闇に吸い込まれて、もたれかかるように体が崩れ落ちた。

 「おい、大丈夫か?」

 平二が暗闇の向こうから声をかけた。伸ばした手を突っ込んだ空間は、遺骸を安置するために穿った横穴だ。指先に棒状のものが触れている。きっと骨だ。

 平二が戻ってきて、ネリーナに手を伸ばした。おかしな体制で倒れこんだせいか、足がもつれてしまい、立ち上がろうにも力が入らない。

 「す、すいません。なんか変な倒れ方をしてしまって」

 平二がネリーナを引き上げる。すると、横穴に突っ込んだ腕に何かが引っかかって、滑り落ちてきた。

 「おっと!」

 平二が片手でそれを捕えた。暗がりではっきりと見えないが、人の頭骨のようだ。眼孔が二つに鼻孔と上顎が見える。しかしよく見ると、上顎にある犬歯が、異常に長く尖っている。

 「ヘイジさん、それ―」

 平二は「ああ」と言うと、頭骨を元々あった場所へと置いた。

 「ここにある遺体は、少々特殊なんだ。通常の墓地に埋葬が許されなかった遺体が集まっている。ほとんどが悪魔や魔物のせいで牙が伸びたり、角が生えたりした人たちだな」

 「悪魔に取り憑かれたまま死んだのでしょうか? まさか、体の形状が変わるなんて…」

 体を起こしたネリーナは、服についた砂埃を払いながら言った。

 「悪魔祓いの方法が確立されていない頃は、試行錯誤の連続だったのだろう。現代のような悪魔に対する知識も無く、お互いにそうした情報を共有する機会も少なかった。だから偉大なる先人たちは、悪魔と戦った記録をこの地下墓地に残していったんだ」

 平二はネリーナが立ち上がったのを見ると、振り向いて奥へと進む。

 「この地下墓地は、他のどことも繋がっていない。入り口はさっきの穴だけだ。ここには、こうした遺体の他に、先人たちが悪魔と戦うために残した知識が押し込まれている」

 「まさか、そんなものがバチカンにあるなんて、全く知りませんでした」

 「当然だ。ここの存在はバチカンでもごく一部の人間にしか知らされていない。ちなみにストランデットと呼ばれている者で、ここに入れるのも俺以外にはいないはずだ」

 すると、奥に古びた木の扉が見えてきた。既に随分奥まで来ているのだろう。空気が淀んで、かび臭く感じる。

 平二が扉に手を伸ばすと、触れる直前で奥に引っ込んだ。開いた隙間に小柄な老人が顔をのぞかせる。真っ黒なキャソックと呼ばれる司祭の平服に身を包んでいるが、老人の着ているそれは、袖口や立襟が擦り切れていて、ところどころボタンもない。頭頂部は禿げているが、側頭部を覆う黒い髪は腰まで届きそうなほど長い。顔に皺は少ないものの、病的なほどに肌が白い。

 「ヘイジ、やはりおまえか。久しぶりじゃないか」

 小柄な老人は嗄れた声で言い、扉を大きく開けた。老人の目線がネリーナに向けられる。

 「それと君は、ネリーナ・モランディだな。若くして才能と努力を認められた新人だろう。聞いていたよりずっと美人だ。―初めまして」

 ネリーナにとって老人は初見だ。自己紹介するタイミングを失って戸惑っているネリーナに、平二が言った。

 「ネリーナ、彼がこの資料庫の管理人であるムィシュコー・ヴォロシェンコ神父だ」

 紹介されたムィシュコー・ヴォロシェンコは、不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら右手を差し出した。その手は異様に白く、青い血管が透けて見える。

 ネリーナがムィシュコーの手に触れた。しかしその手は、皮膚が張り付くほどに冷たい。ネリーナは握りかけた手を思わず引っ込めた。

 非礼を詫びようと口を開きかけたネリーナを遮るように、ムィシュコーが早口に言った。

 「ああ、すまんね。初対面の相手に握手しようとするマナーは忘れないのに、自分が他人を不快にするほど冷めているということは忘れてしまう」

 ムィシュコーは不機嫌な表情のままで踵を返すと、平二とネリーナを部屋に招き入れるべく、ドア前から横へ動いた。

 部屋の中は向こう側が見えないほど広く、背の高い古びた木製の本棚が整然と並んでいる。ドアからすぐのところには、壁に沿って大きな机がいくつも並んでいるが、そのどれにも本や書類が山積みになっていて、机の天板は見えない。詰まれた本は大小さまざまだが、そのほとんどが背バンド(本の背を固めるための革バンド)が付いた年代物の本ばかりだ。ムィシュコーは、乱雑に物が積まれた机を早足で通り過ぎると、ほんの少しのスペースが開いている机にたどり着いた。

 「そこらに載っているものには、むやみに触るなよ。片付いていないように見えるだろうが、それでも私なりには整理されているんだ」

 開いて置かれている大型本のページをめくろうとしたネリーナが、慌てて手を引っ込めた。

 ムィシュコーは、パイプ椅子をネリーナに差し出すと、自分も古めかしい木製の椅子に座った。

 「ヘイジ、すまないが、奥にもう一つ椅子がある。取ってきてくれないか?」

 奥の暗がりを指差した先に、ネリーナが座ったパイプ椅子と同じものが立て掛けてある。平二は「はいよ」と答えて椅子を取りに行く。

 「椅子なんて踏み台に使うばかりで、人が座るなんて滅多にないんだ。ここに降りてくる者なんて滅多にいないし、ましてや椅子に座って私と喋るような輩はヘイジぐらいのものだ。―とにかく、まずは乾杯しようか」

 ムィシュコーは机の下から、大きめのバスケットを引き出すと、中からワイングラスを取り出して机に並べた。

 「この国で最も喜ばしいことは、うまいワインが格安で買えることだ。子供の小遣い程度の金額で、旧友と飲み交わすに十分な味のものが手に入る」

 赤ワインの瓶を持ち上げると、木製の取っ手にスクリューが付いただけの簡素なワインオープナーで、手早く栓を抜いた。

 ムィシュコーは、ゆっくりと瓶を傾けて、グラスにワインを注いでいく。コトコトと小気味良い音とともに、グラスが濃紫色の液体で満たされる。

 ムィシュコーがワインを注ぎながら言った。

 「フィレンツェでは未知の悪魔に遭遇したんだろう? バドロルシススと言ったか、どんな奴だった?」

 椅子を持って戻ってきた平二が答えた。

 「聖水に対しては反応したが、殆ど効かなかったよ。ネリーナは短時間だが取り憑かれた―と、言うよりあれは体を乗っ取られたという言う方が正しいかもな。物理的に体内に入り込まれていたから」

 それを聞いたムィシュコーは、目を輝かせてネリーナに振り向いた。先ほどまでの不機嫌な表情が一変している。

 「初対面だというのに、碌な自己紹介もせずに申し訳ない。私は、とにかく自分の知識欲を満たすことを是としているんだ。何においてもそれが最優先だ。ひいては君のようなエクソシストの命を救うことにもなる。―そこでだネリーナ、教えてくれ。体に入り込まれてどうなった?」

 あの時は恐怖で逃げ出して、そのまま気を失ったのだ。ネリーナが「あの…」と言いつつ答えを躊躇していると、平二が先に口を開いた。

 「残念ながら、ネリーナは意識を失っていて何も覚えていない」

 「………」

 それを聞いたムィシュコーが、落胆した様子を隠すことなく、大きなため息をつく。

 「悪魔憑きの例は無数にある。だが悪魔が物理的に人間の体を乗っ取るような事例は、数えるほどしかない。ましてや聖職者が体を乗っ取られるなんて、前代未聞だと言うのに…」

 躊躇なく辛辣な言葉を吐くムィシュコーに、ネリーナは閉口するしかなかった。

 そんなネリーナをよそに、乱雑に本や書類が重なった机の上から一冊のスケッチブックを引っ張り出したムィシュコーは、鉛筆と共にそれを平二へ差し出した。

 「ヘイジ、君の眼は悪魔をはっきりと見たんだろう? 私が君のことで唯一羨ましいと思えるのがその眼だ。さあ、そこにバドロルシススの姿を描いてくれないか」

 平二はスケッチブックと鉛筆を受け取った。白い画用紙の上に鉛筆を滑らして、スラスラと描き上げると、あっという間にムィシュコーにスケッチブックを突き返す。

 「もう描けたのか?」

 訝しい顔をしたムィシュコーは、描かれた絵に視線を落とした。

 「君のその見える眼はことのほか羨ましいが、君の絵の才能に関しては哀れにさえ思うよ。この絵を後世に残さざるを得ない私の身にもなってくれ。―なんなんだ、この棒人間は!」

 「こういう見た目なんだよ。真っ黒で長い。頭も体も何もかもが棒みたいだったんだって。それがこう、煙みたいになって襲ってきたんだ。もっと描けと言われても、描ける要素が他にない」

 ネリーナも絵を覗き込む。そこにはちょうど漢字の「大」の字のように、手足を広げた棒状の人型が描かれている。平二が「とにかく長い」と言っていたことを思い出した。ネリーナが見たのは、バドロルシススの顔だけだ。長細く黒い輪郭と深淵のような双眸、奴は目があった瞬間に笑った。思い出すだけで、それを見た瞬間の絶望感が蘇ってくる。

 「私も……見ました、ほとんど顔だけですが…」

 申し出を聞いて感嘆の声を上げたムィシュコーは、スケッチブックをネリーナに渡した。ネリーナは紙の上に鉛筆を滑らせて、丁寧に見たものを再現していく。

 「ああ、­―確かに、こんな感じの顔をしていたな」

 絵を見た平二が言った。ムィシュコーも頷いて、満足そうにしている。

 「そうか、こんな見た目の悪魔は初めてだ。ここの資料にはない」

 「ここの資料って……、ここの資料は、どのくらいの量があるんですか?」

 ネリーナが絵を描く手を止めて、ムィシュコーに尋ねた。

 「製本された状態で約二十万冊が保管されている。その他に綴じられていない物もそのまま保管されているから、正直どのくらいの量なのかを言葉で表すのは難しいな。本の殆どは悪魔に関するものだ。更に私が日がな一日ここで本を読み解いて、新たな情報を書き足し続けている。もう数十年前に全てに目を通し終えているし、そのほとんどがこの頭の中に入っている。間違いない、君の描いたその悪魔は、ここの資料にはないな」

 「全部ですか? そんなまさか」

 眼の前の青白い老人は、この大きな地下室にある資料全てを記憶しているのだと言う。にわかには信じがたい話だ。

 「ネリーナ、信じられないだろうが、ムィシュコーの言っていることは本当だ。彼はここから滅多に外に出ないから、本を読むくらいしかすることがない。―ところで、そのワインを飲んでも構わないかな?」

 平二が机に置かれたワイングラスに手を伸ばした。

 「本を読むくらい、と言われるのは甚だ遺憾だな。私にとって、ここにある資料を読み解くことこそが、私の生きている価値そのものなのだから。―なあ平二、この悪魔に関してはまだ何かないのか?会話をしたんだろう? 何でもいい」

 「ああ、人間の中に入らないとうまく話せないとか言っていた。たしか…日本語がわかるから自分が来たとか…」

 「そのあたりの話は、サンジェルマンから聞いた話にもあった。他には何かないのか?」

 「確か、キンタマをたくさん喰ったと言っていたな。あと俺の尻の穴がどうのと…」

 ネリーナは、顔を赤くして平二を見た。その眼は明らかに蔑みが込められている。

 「ここは地下とはいえ、神の家の中です。そんな言葉は使わないでください!」

 「怒るなよ、ムィシュコーはそういうことを正確に伝えないと、とても怒るんだ。俺だってバチカンにいて、こういう言葉を吐くのはさすがに憚る。―とにかく、その、後ろの穴から出入りして殺してやると言っていた」

 ムィシュコーはふんふんと頷きながら、平二の話を聞き終わると口を開いた。

 「バドロルシススというのは、かなり強力な部類であるのは間違いないな。ネリーナの報告に関しても聞いたが、平二が翻弄されたほどだ。―憶測でものを言っていい段階ではないのだが、バドロルシススはあまり知性の高い悪魔でないと思う。そう言うやつほど、我々エクソシストの言葉を解さないばかりか、神の威厳に無頓着でやりにくい。何と言うか、仏教で言う動物霊に近い感じだな。人間に取り憑かないと喋れないということや、性欲と食欲を同時に満たそうとするところは、まさに顕著な特徴だ。こういう奴こそ、平二のような物理攻撃ができる者が相手をするべきだ」

 ムィシュコーはバドロルシススに関する分析を述べる。彼の頭の中には、バチカンの歴史が始まってから積み重ねられた悪魔に関する資料のほとんどが詰め込まれている。バドロルシススに関する情報は、ネリーナの速報に近い報告と、今聞いた僅かな情報だけだ。それだけで彼には過去の資料との比較には十分なのだろう。

 「芭尾が映っていた防犯カメラの映像は見たか?」

 「ああ見たよ。バドロルシススと無関係ではあるまい。一緒に映っていた男も気になるな」

 「いよいよ話が核心に迫ってきたな。ミシェルからミケーレの話は聞いたか?」

 「無論だ。彼のことを嗅ぎまわっている奴がいるとかいう話だろう?」

 「それと、芭尾に関する資料もなくなったそうだ。今日になって気が付いたらしい」

 「ああ、それも聞いている。悪魔と戦う世界唯一の組織のとしては、随分と不用心な話だ。まあ重要な情報は全てここにもコピーがあるし、それ以上に私が記憶しているから大した問題ではない。―それより、お前が聞きたいのは私の見解だろう?」

 平二は、ムィシュコーの言葉に頷いた。

 「まあ、今ある情報だけじゃ、訳がわからないというのが正直なところだ。芭尾がミケーレに対して何かしようというのは予想がつく。お互いに因縁浅からぬ相手だからな。―しかし不可解なのは、なぜ芭尾がお前の前に姿を現したかだ」

 「そんなこと俺の知ったことじゃない。俺はとにかく芭尾が殺せればそれでいい。ムィシュコー、俺があんたに聞きたいのは、ミシェルの言うように、芭尾がロレートに現れるのかどうかだ」

 ムィシュコーは前のめりになっていた体を、後ろに逸らして、深く椅子に寄りかかった。椅子の手すりに肘をつくと、大きく深呼吸しながら眼をつむる。ここにある本のことなら何でもわかる。資料に基づいた仮説ならいくらでも出てくるが、未来に起こり得る事象に対しての確立を測るのは得意とするところではない。

 「―ヘイジ、それこそ私の知ったことではないな。勘違いするな、私は意地悪しているわけではない。私の知識では、その可能性を測ることはできない、そういうことだ。確証が得たければ、自分で確かめてみろ」

 「やはり、ロレートへ行ってみるしかないだろうな」

 ムィシュコーは無言で頷いた。

 「すまないが、対キリスト教系悪魔の用意が全く無いんだ。ロレートへ行く前に、いくらか聖遺物を分けて欲しい」

 「まあ毎度のことだ。奥の資料庫から好きなのを持っていけ」

 立ち上がった平二は「ああ」と相槌を打つと、部屋の奥の暗がりへと歩いていった。付いて行こうと腰を浮かせたネリーナを、ムィシュコーが手で制する。

 「奥は明かりがないから暗くて見えんよ。奥の資料庫は、キリスト教徒にとってこの上なく興味深いものを大量に所蔵しているが、ヘイジや私みたいに暗闇でも見える目じゃないと、行っても何も見えん」

 ムィシュコーは、自分の目を指さしながら言った。

 


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