最後の一人が部屋を出た所で、サンジェルマンが開け放たれたドアに歩み寄り、静かに両手で閉めた。
しばらくコールマンの気配がなくなった部屋は、中の密度が減って、空気が吸いやすくなったようにさえ感じる。ネリーナは大きく深呼吸した。気づくと手の平がぐっしょりと濡れている。
コールマンにすっかり見透かされていた。思わず平二を庇ったが、何故そうしたのか、自分でもわからない。コールマンには散々世話になった恩もあるはずなのに。
平二はもう既にソファに腰掛けていた。考えこむように目を瞑っている。
「ヘイジ、わかっただろう。今のわたしはIEAの最高権力者であっても孤独だ」
「ああ」
「昨今、極端な原理主義者が増えたとは思わないか? そうした者に限って、君のような協力者を排除しようとする」
「ストランデットは、もういらないということか…」
「ヘイジ、私はその呼び方が嫌いだ。異教と呼んで他の宗教を蔑むことも。君は十二分に我々に尽くしてくれている。正式に記録が残されていれば、誰も君をそう呼ぶこともないだろうに………」
「そんなのはいい。俺には俺の目的があって協力をしているんだ」
そう平二が言うと、サンジェルマンは強く拳を握りしめた。
「本当にすまない。この日のために、君は私達と共に戦ってきたはずなんだ」
「コールマンの言っていた『芭尾の居場所』は知らされてないのか?」
「何も。私は完全に蚊帳の外だ」
平二はチッと舌打ちをすると、ソファの背に身を投げ出してふんぞり返った。
どうしたものか―平二は思案を巡らす。一刻も早く現在の芭尾の居場所を知り、コールマンたちよりも早く動かなくては。
これまではIEAが、芭尾に関する情報を提供してくれていた。日本の霊や物怪に関連する事象は、優先的に平二に依頼されるよう、サンジェルマンが手配してきたのだ。それも芭尾の行方の手がかりを得るためだ。そうした取り決めは、サンジェルマンの計らいのもとに成り立っていた。しかし、当のサンジェルマンが組織の長でありながら、内部の情報を得られなくなっていたとは思いもしなかった。
悲観した様子の平二に相対するように、サンジェルマンは向かいのソファに腰掛ける。そして、そっとつぶやいた。
「―だが、そう落胆することもない。心当たりがないわけではないんだ」
平二が、勢い良く顔を起こした。
「今の私には、確かな情報はない。だが、これまで培った経験と知識、そして人脈がある。多少漏れ聞こえてきた話をつなぎ合わせ、私の知識と照らし合わせれば、憶測から推測、そして確信に至ることも可能だ」
サンジェルマンは、先程までの気落ちした様子から一変して、不敵な笑みを浮かべている。
「わかっているなら、なぜ最初から言わない? まわりくどい上に、余計なトラブルまで…」
「君がここに着いてから、しばらく様子を伺っている者がいたようでね。何かないかと聞き耳を立てていたのだろう。ヘイジ、君が我を忘れて怒りだしたお陰で、彼らに付け入る隙を与えてしまった」
「じゃあ、今は様子を探っている者はいないということか?」
「君を芭尾の件から排除する目的が達せられたのだから、もう用はないのだろうな。それにしても、あれだけの殺気だ…様子を伺っていなくても気付くだろう。―あの殺気が、もう二度と私に向けられないことを祈るよ」
平二は、ばつが悪そうにサンジェルマンから視線を外した。ファーストネームで呼び合う仲であるサンジェルマンに対して、怒りが抑えられなかった。彼は、平二との約束を破ったわけではない。それだけに後悔も大きい。
近代化するバチカンにおいて、エクソシストを束ねるという、ある種懐古的役割を担ったサンジェルマンは、いつの間にか孤立してしまっていた。しかし彼は平二との約束を守るために、彼なりの戦いをしてきていたのだろう。
「すまない―ああなると、自分でも抑えられなくなるんだ」
「ああ、芭尾のことだけに関しては特別だから。もちろん理解はしているよ。―初代にはよく言い聞かされているから」
「まだ修行が足らないな。芭尾の姿を見ただけで、こんなになるなんて」
「大丈夫さ、ずっと辛い修行を積んできたのだろう?」
「そうだな―それより、奴の居場所について教えてくれ」
「ああ、実はこの話は、ネリーナにも少々関係がある話なんだ」
そう言われて、ネリーナは首をかしげた。
「まあ、聞いてくれ。―実はここ数日で、IEAの資料が一時的に持ち出された形跡があるんだ。初代や平二に関わる、百年近く前のファイルだ」
「まだ、そんなものが残っているのか?」
「ああ、IEAの過去の資料もデジタル化が進んでいてね、そうした作業の中で見つかったものだ。先代の頃に全て処分されていたはずだったが、いくらか残っていた」
ネリーナは二人の会話を聞いても、さっぱり理解できていないでいる。初代というのは、サンジェルマンの前々任者、IEAを立ち上げた人物のことだろう。だとすれば平二と初代は、どう関係があるのか。そもそも、名前も知らない初代協会長が、自分と一体何の関係があるというのだろうか。
「それだけではない。教皇庁にあるデータベースで、ミケーレ・ラブティ神父の情報を検索しようとした者がいたらしい。それが誰かは分からない」
それを聞いて、平二は眉をひそめた。
「それと、これは今日になって分かったことなのだが、IEAが保管していた芭尾に関する記録のほとんどが消失していた。秘文書保管庫にあったはずの、初代の書いた旅行記までなくなっている。―あの映像を見て、資料を漁ろうとしたら根こそぎなくなっていたよ」
「…どういうことだ?」
「ヘイジ、誰かがIEA初代協会長ミケーレ・ラブティの居所を探している。芭尾の居所も多分そこだ」
二人の会話に付いて行けないネリーナをよそに、平二はサンジェルマンに詰め寄った。
「それはバチカンに芭尾のスパイがいて、そいつが内部情報を閲覧したり、持ち出したりしているってことなのか?」
「ああ、信じたくはないが、十中八九そういうことだろう。幸い初代の今の所在は、目に見える形ではどこにも残っていない。―しかし偶然にしては、あまりに出来過ぎているとは思わないか?」
百五十年もの間、行方を眩ませていた芭尾が突然現れた。時期を同じくして、IEAから芭尾のファイルが消え去り、ミケーレに関する情報が漏れている。導き出される結論は一つしかあるまい。
「ミッシェル、今、ミケーレはどこにいる?」
平二は両拳を強く握りしめて自分の焦りを隠した。そうでもしなければ、手の震えが止まらない。コールマンの言い様からすれば、芭尾はミケーレの元へ向かっているのだろう。あるいは、もうその場所にいるのかもしれない。
「ネリーナの出身はロレートだったね」
ネリーナが「はい」と答えると、サンジェルマンは言葉を続けた。
「そのミケーレ・ラブティ神父は、今ロレートにいるんだ」
「はい?」
ネリーナが素っ頓狂な声を上げた。ここで自分が関係してくるとは思ってみなかったのだろう。
「稀有な偶然だが、これも何か意味のあることなのかもしれないな」
「待ってください、全く意味が分かりません。その、IEAを作ったラブティ神父という方がまだ生きているなんて…。IEAが出来たのは、百年以上も前の話じゃないですか?」
ネリーナは、サンジェルマンに詰め寄った。IEAがバチカン内に設立されたのは、一八八〇年、今から百三十年も前の話だ。その時の創設者が生きているはずがない。
「ネリーナ、これから話すことはIEAでも機密に属する情報だ。決して人に話してはいけないよ」
自分の娘を諭すかのように優しい口調で話すサンジェルマンに、ネリーナは無言で頷いた。
「詳しい理由は省くが、彼は大変に長命なんだ。IEA初代協会長の任に就いてから、およそ百歳の頃に引退した。さすがにその年では、周りも訝しんだろうね。記録では、引退した年に死亡したことになっている。しかしその後は隠遁し、一介のエクソシストとしてイタリア中を転々としていたんだ。それで最近になって、生まれ故郷であるロレートに戻った。今はロレートの町はずれに、一人でお住まいのはずだ」
「はず、というのは?」
「実は、私も初代の連絡先を知らないんだ。今はもう、同姓同名の別人として暮らしておられるから。だが、ロレートにいるのは間違いない」
ロレートは、ローマから東行ったマルケ州アンコーナ県にある小さな町で、カソリック信者の巡礼地の一つとしても有名な場所だ。この町にはサンタ・カーザ(聖母の家)の神殿と呼ばれる教会堂がある。十三世紀末、ここに聖母マリアとその家族が暮らした家、まさに彼女が受胎告知を受けたとされる家が、天使たちによってこの地の丘に運ばれたのだという。
説明を聞いても納得がいかないのか、ネリーナは首を傾げて考え込んでいる。
「ところでヘイジ、君とネリーナが出くわしたバドロルシススとかいう悪魔のことだが…」
「ああ、分かっているよ。奴も多分、芭尾と関係がある」
そう言って平二は足元に置いたボストンバックから、紙に包んだ何かを取り出して机に置いた。
それを見たネリーナは、また素っ頓狂な声を上げた。
「えっ? まさかヘイジさん!」
平二が取り出したそれは、例の“見えない紙”に包まれた掛け軸だ。
「ヘイジさん、これはウフィッツィ美術館の所蔵物でしょう? まさか持ち出して来るなんて! 一体、何を考えているんです?」
「結局あそこに置いてあっても、誰も見ることもない。修復だってできないだろう? だったらいっそ持ってきてしまえば、誰かが被害に遭うこともない。―それにバドロなんとかのせいで、色々大変だったじゃないか」
なおも詰め寄るネリーナをよそに、平二は“見えない紙”の包みを拡げて、掛け軸を取り上げた。掛け軸には梵字の呪符で封がされている。
「これに関するファイルも持ち出されたのか?」
「ああ、残念ながら。―直近に処理された件にトラブルが起きれば、当然処理した本人が呼び出される。ヘイジ、君は待ち伏せされたんだ」
二本の棒を束ねたような掛け軸を取り上げた平二は、ボストンバックの横に付いているポケットに無造作に突っ込んだ。
「気がかりなことは、まだ他にもある。―芭尾と一緒に映っていた男だ」
そう言うとサンジェルマンは一呼吸置いて、机の上のコンピュータに目を落とした。芭尾ともう一人のライダースジャケットの男の映像が、一時停止されたままになっている。
サンジェルマンはコンピュータを操作して映像を拡大した。男の姿が画面一杯に広がる。 背中を向けた男は、Tシャツの上に肩口から袖の切れたライダースジャケットを着て、腕をむき出している。もう年の瀬を迎えようというこの時期には寒すぎる格好だ。
サンジェルマンは拡大した男の画像を指さした。指の先にある男の右腕にはタトゥーが施されている。肩の袖口から手の甲に向かって描かれたそれは、まるで腕に太い蔦が絡みついたように見える。
「映像からはわからないが―どうかな、これは君たちが遭遇したバドロルシススとかいう悪魔と違うのか?」
平二は、ネリーナがウフィッツィ美術館でバドロルシススに取り憑かれた時のことを思い出した。体に入りこまれたネリーナは体中から黒い液体を流していた。映像の男の様子は至って普通だ。バドロルシススは、もっと取り憑き方が雑だった。
「まあ、確証はないが違うな。ネリーナの憑かれた時とは様子が違う」
「ここで、それを論じても致し方ないだろうね。そのあたりの考察はヴォロシェンコ神父に訊くといい。私が持っている情報は―まあ私が知っていることで彼の知らないことなど滅多にないがね。フィレンツェでの話は伝えているが、きっと直接君たちから聞きたいはずだ。どうせ彼には会っていくつもりだったんだろう?」
「あの…初めて聞くお名前です。ヴォロシェンコ神父とは…?」
ネリーナが口を開いた。
「彼のことは知っている者の方が少ない。ムィシュコー・ヴォロシェンコ神父はウクライナ人だ。IEAの特別資料庫の管理をしているんだが、滅多に外へは出てこないから、大抵はこちらから出向かないといけない。とはいえ私も腰を悪くしてからは、彼のところへ行く機会が随分減ってしまった」
IEAの特別資料庫なるものの存在は聞いたことがない。そうした場所は、今自分がいる建物の中にはないはずだ。
ネリーナの疑問を察したのか、サンジェルマンは続けて言った。
「資料庫は地下にあるんだ。行き方はヘイジが知っているよ」
平二は、もう既に上着と鞄を持っている。
「ヘイジ、随分気が早いな。私はまだ、君たちにお茶も出していない」
「いや、じっとしていられないんだ。今すぐにでもロレートに向かいたい」
サンジェルマンは「そうか」と短く答えると、机の引き出しからロザリオを一本取り出した。木製のビーズが連なり、所々に黒檀でできた大き目のビーズが配してある。しかし、そのクロストップは他の部位に似つかわしくない、粗末な二本の木枝の組み合わせでできている。そのクロストップは平二にも見覚えのある品だ。
サンジェルマンはそのロザリオを見つめながら言った。
「ヘイジ、このロザリオは初代から先代、そして私へと引き継がれたものだ。君もよく知っているだろう?―初代はこれを、IEAの理念の象徴として、我々に託したんだ。このロザリオの経緯を聞いたときは、少々驚いたがね…」
そう言ってサンジェルマンは、平二に笑いかけた。
「今、このロザリオが必要なのは君であるような気がするんだ。―平二、私は君と一緒に行けないから、これを持って行ってくれないか?」
「ミシェル、俺は…」
「君にとって、これが道具以上の価値がないことはわかっている。君の鞄の隙間に入れておいてくれ」
平二はサンジェルマンからロザリオを受け取ると、鞄の脇のポケットに突っ込んだ。
「俺が持っていても御利益はないだろうな。―もし改宗することになったら首から下げるよ」
「わかっているよ。それでいい」
「じゃあ」と言うと平二は踵を返して部屋のドアへと向かう。まだ身支度ができていないネリーナは、慌ててコートをソファから拾い上げる。
「ネリーナ、ちょっと待ってくれないか?」
サンジェルマンは、既にドアを開けて待っていた平二に目配せをした。平二も軽く頷いて答えると、部屋を出て行く。
ドアが閉まると、サンジェルマンはゆっくりと、そしてしっかりとした口調で言った。
「君にお願いがあるんだ」
「はあ」と答えたネリーナは再びサンジェルマンの前に歩み寄る。
「ヘイジのことだ。あの通り彼は心の平静を乱している。彼の右眼のことは?」
「ええ、昨晩聞きました。魔物からもらった目だと…」
サンジェルマンはネリーナの言葉に小さく頷いてから言った
「人が魔物の体の一部を取り込むというのは、決して簡単なことではない。それは非常に大きなリスクを伴うことだ」
ネリーナは、先ほどのサンジェルマンと平二の会話を思い出した。芭尾という魔物が映る映像を見て、壮絶な殺気を放った平二は言った。自分の修行が足りないと。
「彼の右眼は負の感情―怒りや憎しみ、悲しみのような感情が高ぶると、抑えている右眼の悪い部分が出てきてしまう。さっきのあれはそういうことだ。放っておけば彼自身が魔物の眼に取り込まれてしまうだろう」
「…それで、私はなにをすれば?」
「先ほどは私が止めた。次は君に止めて欲しい」
ネリーナは答えるのに躊躇した。自分は指一本動かせなかったのだ。安請け合いできるはずがない。
「私には…無理だと思います。私はまだ経験も足りない。それにヘイジさんのような能力もないですから…」
「そんなに自分を卑下することもない。君はIEAのエクソシストなんだ。コールマン神父も言っていただろう? 君にはそれに足る十分な力がある」
「しかし…」
「いいかね…君がイエスを、神を信じるように自分を信じてみるといい。自ずと答えは出る」
ネリーナが答えに戸惑っていると、サンジェルマンは言葉を続けた。
「ネリーナ、私は今回のことに何か大きな意味があるような気がしてならないのだ。君が関わったことも、きっと意味がある」
「止めると言っても、いったいどうすればいいのでしょう?」
「私のように手を叩くなり、蹴飛ばすなりしてやればいい。要は、我を忘れた彼を正気に戻すんだ」
「………わかりました。できる限りのことはしてみます」
ネリーナの返答にサンジェルマンは「有難う」と言って笑顔を返した。平二に見せていた、あの満面の笑みだ。
サンジェルマンがドアを左右に大きく開け放った。廊下へ出ると、少し離れたところで平二が待っている。サンジェルマンは平二に笑いかけると、ネリーナに向いてもう一度小さく小声で言った。
「ネリーナ、どうか彼のことを頼む」